「溺れる夏」【9】
「あの夏は、幻。」シリーズ あんまりぼうっとしてると危ないよ?
彼の忠告通り、認めたくはないけれど俺は危ない状態に陥っていた。
あの時の彼が耳元で囁く濡れたような艶っぽい声も、重ねた唇の感触と温度も、ほんの一瞬だったのにもかかわらず俺の心にも身体にも、強烈に残っている。
まるで一生消えない傷跡みたいに、俺の中にくっきりと。
これからの人生何があっても忘れられそうにないぐらい、それはもう深過ぎた。

それから彼とは会うこともなく、一週間目を迎えた。
そう、あの時言っていた合宿の日だ。
合宿の必要事項などは彼がメールで伝えて来た。
同じ構内にいるというのにメールだなんて間接的な方法を取ったのはどういう意図なのだろう。
メールの方がすぐに連絡が出来るのはわかるし、電話は出られない時だってある。
わざわざ電話をしてから会うのは二度手間だから、やはりメールが一番手っ取り早い。
そんな当たり前のことも、彼相手だとどうしてこんなにも裏の裏まで考えてしまうのだろう。
それも俺に会いたくないだとか言う不安ではなく、会わないことで俺の反応を見ているんじゃないか、なんて自意識過剰もいいところで不安になっているのだ。
悔しいのは、その俺がしっかり反応してしまっていることだ。
裏の裏まで考えてる時点で、それはまさに反応してしまっていると言える。
もし彼が本当にそんなことを考えていたのならば、その作戦は成功していることになるだろう。
しかし彼がまったくそんなことを考えていなければ、俺は何て惨めで無様なことだろう。
どちらにしろ、俺は彼から逃れられなくなっていることには違いなかった。

何だか俺は、罠にかかった獲物の気分だった。
まるで底のない海の底にどこまでも落ちて行くようで、彼が作り出す渦の中で溺れているようだ。
そこには俺と彼しかいなくて、助けを求めても誰も来てはくれない。
どんなに叫んでも水面より上に届くことなどない。
自分で何とかしなければそこから抜け出すことは出来ないのだ。
暗くて先が見えなくて、息苦しくて早く抜け出したいのに、俺にはなぜかそれが出来ない…。

夏生がここにいたら、何とかなったかもしれない。
俺の手を取って助けてくれたかもしれない。
薄く笑いながら俺の名前を呼んで、冷えた俺の身体を抱き締めてくれるかもしれなかった。
なのに今はあの白くて細い手に触れることが出来ないのが、どうしようもなく悲しい…。


「…き、千秋っ。」
「……へ…?」
「へ、じゃねぇよそれ違ってんぞ!そこ接合し過ぎだって。あーあ、はみ出てんぞ!」
「え…?あ…、うわっ!ご、ごめんっ!」

気が付けば俺は、今が実習中だということまで忘れてしまっていた。
杉本に言われて手元を見ると、普段間違わないような簡単な作業まで間違えている始末だ。
他にも数人はいるが、杉本とはあいうえお順で決められた実習の班まで一緒だった。
こういうしっかりした奴と一緒でよかったのかもしれないと不謹慎ながら思ってしまった。
そうでなければ一歩間違えば熱くなった工具で怪我でもしかねない。
ダメだ、俺…もう終わってる…。


「あーあ…ダメだなこりゃ。もっかいやり直しだな。」
「うわー…、どうしよう…。」
「ぼうっとしてんなよ。それでなくてもお前普段から何考えてるかわかんねぇんだから。」
「ご、ごめん…。」

ぼうっとしてんなよ。
彼と似たような台詞なのに、他の人が言うとこんなにも違うものなのかと思った。
今言われた言葉の意味は素直に受け取ることが出来るのに、彼だとあんなにも深い意味があるのだと思い込んでしまっている。
そろそろいい加減にしないといけなくなってきた。
このままだと俺は、本当に彼の中で永遠に溺れ続けてしまう。
現に今だってそうだ。
杉本に注意をされて、迷惑をかけたのにもかかわらず、また彼のことを考えてしまっている。

いっそ記憶が消えてくれたらいいのに。
彼に会ったあの日からやり直すことが出来ればいいのに。
いや、仮にやり直せたとしても結果はこうなっていただろう。
彼を見て見間違えて、こうしてぐるぐると考えてしまっていただろう。
叶わない夢を見るのはやめにしよう。
時間が戻ることなど決してないのだから。
それに時間が戻るなら俺はきっと、二年前の夏に戻るだろう。
夏生があんなことになる前に、夏生を助け出そうとするだろう。
そうだ、俺が溺れる前に夏生を助けることが出来ればよかったんだ…。


「あ、そうだ。千秋今日ヒマか?」
「え…?今日?今日はその…。」
「なんだよ、誰かと約束でもあんのかよ。」
「いや、そういうわけじゃなくて…。」

杉本が怒ったのは一瞬の出来事で、すぐにいつもの彼に戻っていた。
よくこういう時にブチ切れたりもせずに俺に付き合ってくれているなぁなんて思う。
そういう意味でもしっかりした奴だし、出来た人間だと思う。
だからこそ本音は言わなくとも上手く付き合っていけているのかもしれない。


「は?合宿?何のだよ?」
「え…、サークルのだけど…。」
「サークル??お前そんなの入ってなかっただろ?」
「あーうん、この間入ったばっかだから…。」

特に言う必要もなかったから、俺はサークルのことを誰にも言わなかった。
何よりそこでどうして、誰に誘われて、なんて追求されたら困るからだ。
疚しいことがなければスラスラと答えることが出来たかもしれない。
でもこの場合俺は彼と疚しいことをしてしまっているのだ。
いや、本当に疚しいのは、まずいと思っているのは、俺の心の奥底を覗かれることかもしれない…。
疚しいことをした相手に囚われているこの心のことだ。


「お前ってホント秘密主義者なのな。」
「別にそういうわけじゃ…。」
「悩みとかも打ち明けねぇしな。」
「あー…まぁそうだけど…。」

どうしよう。
言ってしまおうか。
ここで杉本に今俺が抱えていることを言ってしまおうか。
彼のこと、彼としてしまった過ちのこと、彼が俺の中を支配していること。
サークルに入ったのはそのせいだということ。
それから夏生のことも…。


「何?どうした?」
「あ……。」

言ってしまえたらいいのに…。
俺の好きだった人、夏生は男だったと。
しかもほんの数日間一緒にいただけの奴なのに、惚れてしまったと。
その人が実は死んでいて幽霊になって偶然俺の前に現れたのだと。
その偶然を俺は運命だと信じて、恋に落ちたのだと。
そして俺はその夏から動けないでいると。
忘れられなくて、夏生のことを引きずっていると。
一生夏生だけを好きだと決めていると。
それなのに彼のことを考えてしまうのをどうしたらいい?
そう誰かに言えたなら…。


「千秋…?」
「あ…、なんでもない。ごめんまたぼうっとしてて。」
「なんだよそれ。」
「ごめん、今度は気をつけるからさ。ここ接合しちゃっていいか?ハンダ取ってくれるか?」

杉本が怪訝そうに俺を見ていた。
その目を見たら俺は何も言うことなんか出来なくなってしまった。
それはそうだ…、夏生とのことも彼とのことも、俺の中で美化されているだけで、他人から見たらおかしいと思われるに違いないのだ。
幽霊に惚れてしまったなんて。
その幽霊と二年以上、いや、もう一生会えない奴に恋してるだなんて。

…男と寝ただなんて。

そんなのは何かの冗談だと笑われるか気持ち悪がられるに決まっている。
俺は口を噤んでよかったのだ。
さもなければ笑い者になって軽蔑されて、友人達とも上手く付き合っていけなくなるところだった。
世の中は必要なことだけ、必要な人に言えばいい。
何か危険なことをしようとすれば当然リスクを伴う。
俺の人生は夏生のためにある。
夏生のことだけ考えればいい、それ以外のものなんて…。
俺は自分で自分に言い聞かせるように強く念じながら、実習を続けた。
杉本ももうそれ以上何も言って来なかったから、その後は普通に接することが出来た。


持ち物は普通に泊まる時の物でいいよ。
彼にメールでそう言われて、俺は着替えと洗面道具だけ大学に持って来た。
それからもしあればと言われた蝋燭と懐中電灯も。
なんだか肝試しでもするみたいだと思うと、少しだけわくわくしてしまった。
俺は講義を終えるとそれらを持って、あの部屋へと向かった。
彼と会うのは恐かったけれど、自分がしっかりしていればいい。
実習中に言い聞かせたことを胸の中で反芻しながら、人の少ない廊下を歩いた。
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