「溺れる夏」【10】
「あの夏は、幻。」シリーズ 合宿なんて言うのはただの名前だけで、内容は実にお遊び的なものだった。
確かに夜中になったら心霊現象だとかを検証するために大学の中を探検をするそうだが、それをするのに酒を飲む必要なんてあるのだろうか。
結局就職活動だの何だのと疲れた4年生が中心になった、普段の大学生活の息抜きの会みたいなものだった。
その証拠に、1年生で参加したのは俺だけだったのだ。
それ以前に1年生が何人いるのかも知らないわけだけど。
大学の近くの酒屋で予め注文した酒を勧められると、仕方なく飲むしかなかった。
せっかく楽しんでいる場を盛り下げたくもなかったし、先輩達の勧めを断るわけにもいかなかったからだ。


「須藤、飲んでる?」
「え…、あ、はい…。」

俺の右隣にはもちろん彼、直さんが座っていた。
サークルに入るよう言ったのは彼で、他の人と面識がない俺には彼だけが頼りなのだ。
その俺の不安をわかっていたのだろう。


「次の次が須藤の番だから。」
「はい…。」

宴会も進み、いつの間にか酒を囲みながら心霊体験話や怪談が始まっていた。
彼は俺を気遣ってなのか、いちいち声を掛けてくれた。
だけどどうして、俺といる時とは全然違うんだろう。
皆の前では普通に笑って、楽しそうな顔だって見せる。
あんな風に挑発するような誘惑するような視線なんかは見せない。
俺と話す時もそうやって普通にしてくれればいいのに。
それとも俺が勝手にそう意識して思い込んでいるだけだって言うのか…?


「須藤、そっちの酒取ってくれる?」

それにその呼び方は何だ。
名字でなんか呼んだことがなかったのに、どうして今更…?
どうして今更わざと他人の振りをするような、距離を置いた呼び方をするんだ?
あんなことをしたのが周りに知られたら困るのに、俺はなぜか腹が立ってしまった。
俺はどうしたいんだろう。
彼とのことなかったことにしたいと言っておきながら、その一方ではなかったことにしようとする彼を疎ましく思う。
どっちだ…?
俺は彼と関わりたいのか、関わりたくないのか?
彼と近付きたいのか、離れたいのか?
自分でもわからないなんて、もう酔ってしまっているとでも言うのだろうか。


「次、須藤だっけ?お前の番な?」

考え出すと止まらなくて、気が付くと自分の番まで回って来ていた。
左隣にいた先輩が早く話せと促している。


「そんな硬くなるなよ。なんでもいいんだって。」
「はい……。」
「幽霊に会ったとかそういうことねぇの?」
「あ…あの……。」

幽霊に会ったこと。
俺は今の今まで、その話題が自分にとって辛いものだということまで忘れてしまっていた。
今まではその単語を出されるだけで、心の中の触れられたくない何かに触れられたような痛みと嫌悪感で耐えられなくなっていたのに。
もうダメだ…。
俺はどうかしている。
もう、無理だ…。


「すいません…、ちょっと外行って来ます…。」
「え?何?具合悪い?酔ったのか?」
「はい…、すみません…。」
「早く言えよそういうことはよー。誰かついてって…。」

左隣に座っている先輩の声がだんだん遠くなって行く。
右隣に座っている彼は今、どんな表情を浮かべているだろうか。
心配そうに見つめているだろうか。
それとも興味がなさそうに酒をすすっているだろうか。
俺の脳内は、彼のことでいっぱいだ…。


「ひとりで大丈夫です…。」

俺は恐くて、自分の目で確かめることが出来なかった。
それは自分が前者の方を望んでいたからだ。
俺は、なかったことになんかしたくなかったんだ…。
そんなことに気付いてもどうしようもないことなのかもしれないのだけれど。








二年前の夏と同じだった。
祖母の住む田舎は、夜になると急に涼しくなる。
それから真っ暗な空を見上げると、月と星がよく見える。
さすがに祖母の田舎には全然敵わなかったけれど、今日はめずらしく星がよく見える。


「大丈夫?」

その闇の中で、どこからともなく現れたのは…。
いや、どこから来たのかははっきりしている。
気配もあるし、誰かということもはっきりわかっている。
あの夏とは…違うんだ…。

一瞬二年前に戻りそうになるのを止めたのは彼だった。
初めて会ったあの日差し出したのと同じ色のアイスを彼は咥えている。
ソーダの匂いがここまでしてきそうなぐらい、闇の中のそれは鮮やかで綺麗だった。


「食べる?」
「はい…。」

俺は無意識のうちに素直に頷いてしまっていた。
あの時とは違ってほとんど残っているアイスを口に運ぶと、急な冷たさが口内に走る。
俺はきっと、目を覚ましたかったのだ。
そうじゃなければあんまりアイスの色が綺麗で思わず見惚れてしまったのかもしれない。


「あの…、聞いていいですか?」

口内に広がるソーダの味は爽快過ぎて、今までのことを忘れさせてくれるかの勢いだった。
隣に座った彼が吸い始めた煙草の匂いと混じって、俺の脳内であの夏が鮮明に蘇る。
でも俺自身はきちんと今の世界にいる。
それはとても、不思議な感覚だった。


「直さんは幽霊って信じますか?」

その感覚とソーダ味が手伝ってくれたのか、俺の口は滑らかに動く。
言えなかったことが、言いたくなかったことが、いとも簡単に出てくれたのだ。


「突然どうしたの?まぁそういう合宿だけど。」
「俺は信じてるんです。」
「へぇ…、そう…。」
「俺、幽霊に会ったことがあるんです。」

自分でも脈絡のないことを言っているのはわかっていた。
だけど伝えようとすればするほど、上手く言おうとすればするほど、それは上手くいなかくなってしまう。
脈絡がなくても下手でもいい、俺の言葉で伝わるなら…。
俺は自分なりに言葉を並べて、二年前のことを話し始めた。


それは俺が、腰を痛めた祖母を心配した親に言われて田舎へ行った二年前のことだった。


その時俺は高校生になって知った煙草の味がやめられなくなっていた。
晩ご飯を終えて煙草を切らしていたことに気が付いた俺は、近くの小さな店まで行った。
家の明かりもほとんどない田舎の店の前の自動販売機の前で煙草を買おうと、いつも通り金を入れた。
しかし相当古い自動販売機は、商品が出て来たはいいが釣銭が出て来ない。
腹が立って叩いたり蹴ったりしたけれど、一向に出る気配がない。
そんな時後ろから声を掛けて来て釣銭を出してくれたのが夏生だった。
それはコツがあるんだと言って儚げに笑った、俺の好きだった人だ。
俺は始めて夏生を見た時から、目が離せなくなっていた。

それから少しの間傍のバス停のベンチに座って、他愛もない話をした。
別れ際に掴んだ夏生の腕は細くて白くて冷たくて、この腕を離したくないと思ってしまった。
それとは逆に自分の身体が熱くなったのは、その時にはもう好きになっていたからだ。
その後も毎日そこに通っては、夏生と話をした。
しかしある日を境に夏生は姿を見せなくなってしまった。
その理由を知ったのは、それから三日が過ぎた時だった。


「え…?!死んでた…?」
「はい…。」

夏生は事件に巻き込まれて、既にこの世の人間ではなくなっていたのだ。
その肉体を見つけて欲しくて、魂だけが浮遊していた。
俺が見たのは、話していたのは、好きになった相手は、幽霊だったのだ。

その日から、俺の時間は止まってしまった。
俺は夏生が好きで、夏生も俺を好きだった。
それなのに気持ちを確かめ合うことも出来ずに終わってしまった恋を俺は諦められなかった。
その一年半後に再び俺は夏生の幻を見ることになって気持ちを伝え合ったまではよかった。
それでもどうしても、俺には出来なかった。
夏生を忘れることも、夏生以外に人を好きになることも。


「そうなんだ…。」

話を聞いた彼は俺と目線を合わせないまま、それだけ呟いた。
別に何か言って欲しいと期待していたわけではない。
辛かったね、なんて同情をして欲しかったわけでもない。
だけど次に彼の口から出た言葉は、予想を遥かに超えていた。


「それで?」
「え…?」

俺は一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
この人が話しているのは本当に日本語なのか?それぐらい理解が出来なかった。


「それで俺にどうしろって言うの?」

期待はしていなかった。
同情もいらないと思っていた。
それなのに俺の中で、何か糸のようなものが切れるような音がした。


「あの…?」
「俺を間違ったのってそいつ?俺に身代わりになれってこと?」
「何言って……。」
「まぁ時々セックスするぐらいならいい……つっ…!」

彼が全部言い終わる前に、俺は手を振り上げていた。
空気を掻き切るような音が闇に響いて、気が付いた時には彼の頬が暗闇でもわかるほど真っ赤になっていた。

俺が望んでいたものは何だったんだろう。
彼が望んでいたものは何だったんだろう。
もう考えることも出来なくて、動くことも出来なかった。
彼もその場から立ち去ることもせず、お互い何も言わないまま沈黙の時間が流れた。
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