「溺れる夏」【8】
「あの夏は、幻。」シリーズ それからすぐに俺は食堂へ戻ったけれど、その後は散々だった。
友人達にはどこへ行っていただの席がなかっただの責められ、罰だとわけのわからないことを言われて昼食は既に皆で分けて食べられていて、俺まで食べ損ねることになった。
しかしそんな風に責められている間中、俺はうわの空だった。
彼…夏木さんの発する言葉や仕草の一つ一つが頭にこびり付いて離れなくて。


「携帯の番号ですか…?」
「そう。教えてよ。また逃げられたら困るし。」
「え…!」
「あはは、嘘だって。連絡する時不便じゃん?」

冗談混じりに言った皮肉めいた言葉も、それに似合わない笑顔も。
逃げられないのは本当かもしれない。
もう出会った時からずっとそうなのかもしれない。
彼の電話番号を入力する俺の手は小刻みに震えていて、それを彼本人に気付かれやしないか、それだけが心配だった。

講義が終わったらサークルの部屋で待っている。
別れ際に彼はそう言って、俺はわかりましたと素直に頷いた。
この間とは違う、今度は確かな待ち合わせというものだった。

いつもとは違う棟へ続く廊下を歩いてそこへ向かう。
講義を終えた学生達はクラブ活動やサークル活動、友人達との寄り道やアルバイト、それぞれの時間へと散っていった。
その中で俺は一人、心臓をドキドキさせながら彼のところを目指した。


「はいー?」

その部屋の前に立ち、ノックを2回。
周りにはほとんど誰もいなくて、静まり返っているせいか、やけにその音が大きく聞こえてしまった。
部屋の中から聞こえる彼の返事も、速くなる自分の心臓の音も。


「失礼します…。」
「あぁ、本当に来た。」
「それは来ますよ…。」
「まぁいいや座りなよ。」

俺はどこまでも彼に信じてもらえないらしい。
それはそうだ、あんなことをしたのだから当然だ。
だけど彼は笑って許してくれたのに。
あんなのはよくあることだ、と聞き捨てならないことを言っていたけれど許してくれたはずだった。
それともあれは冗談で、しっかり恨んでいるのだろうか。


「あの…他の人は…。」
「言ったじゃん?ほとんど活動してないって。今日は一応これ書いてもらおうと思って。」
「あ…入会の…。」
「適当でいいからさ。人数合わせと思っていいし。」

渡された紙はごく簡単は項目だけのものだった。
俺一人が入ったところでサークルの危機を救えるかどうかはわからないけれど、彼が言う通り人数合わせになるぐらいだったら別にいいと思った。
活動がほとんどないのは本当のようで、特に害になるわけでもなかった。


「なんだ、まだ1年だったんだ?高校出たばっかりってやつ?」
「あ…はい…。」
「ふぅん…そっか、あの時未成年とか言ってたのも本当だったんだ。」
「え…、あ、まぁ…そうです…。」

しっかり聞いていたんじゃないか。
あの日、あのバーみたいな店に入ろうとした時に俺がぼそりと呟いたことを。
それでも聞く耳なんか持たないみたいに無視をして行ってしまったから。
だから黙ってついて行くしかなくて俺は…。


「どうりで今まで会わないと思った。俺4年だからいる棟が違うもんなぁ。」
「そうですね…。」

…というかこの人は、俺をどうしたいのだろうか。
ことあるごとにこの間のことを話題に出して俺の反応を窺っているのだろうか?
よくあることだと軽く言えるぐらい気にしていないのなら、今更蒸し返すようなことをしなくてもいいのに…。
そんな風に言われたら俺はなんて答えればいいんだ。
軽く笑って何事もなかったかのようにすればいいのか?
彼の方が何事もなかったことにしたいはずなのに、どうしてこんな…。


「あの…、あなたは…。」
「あれ…?俺名前も言ってなかったっけ?」
「あ…、いえあの…。」
「ん?何??」

そんな風に明るく笑わないでくれ。
俺はこんなにも苦しいのに。
その笑顔がまた俺の胸を締め付けてしまうんだ。
沈もうとしている太陽に照らされて、オレンジ色に輝くその笑顔が。


「あの…、じゃあ下の名前で呼んでいいですか?」
「別に何でもいいけど…なんか可笑しいね。」

いつかは気付かれる思っていた。
俺が彼の名前を呼べないこと。
勝手に偶然だと決め付けた「ナツキ」の三文字が言えないこと。
それならば気付かれる前にどうにかすればいい。


「え…?」
「付き合ってもないのに名前で呼ぶなんてさ。」
「あ…すいませ…。」
「だからいいんだって何でも。そんないちいち謝んないでよ。」

彼の言っていることはどこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからない。
あまりにも鋭くて、ぐさりとこの胸を刺すみたいで。
それなのに爽やかな表情を浮かべているからわからなくなるんだ。
怒りたいなら、責めたいなら、いっそはっきり言ってくれればいいのに。
ふざけるな、と一発ぐらい殴ってくれてもいい。
そうすれば俺もこの幻想みたいな世界から目が覚めることが出来るのに…。


「そうだ、活動ないとか言っといて悪いんだけど、再来週の連休合宿あるんだよね。」
「合宿…ですか…。あの、一つ聞きたいんですけどここ…。」
「何?」
「ここって何のサークルなんですか?合宿っていうのは…。」

記入した紙には、当然サークル名が書いてあったけれど、その名前を見るだけでは何のサークルなのかさっぱりわからなかった。
ローマ字が並べられたそれは、おそらく何かの略だと思うようなものだった。


「あ、ごめん。言ってなかったっけ?オカルトとか好き?」
「え……。」
「そんなひかないでよ、俺だって別にそこまで好きなわけじゃないんだって。」
「すいません…。」

あまりにも似合わない言葉が出てきたので、俺は思わず吹き出しそうになってしまった。
彼の外見からしてスポーツか、文化系ならばもっと違ったものだと思っていたのだ。
たとえばカフェに勤めているからそういう系統のだとか…。
まさかそんな部類のサークルだとは思ってもいなかった。


「合宿ってのはここに泊まるんだよ。」
「え…、学校に…?」
「そう、心霊現象を確かめるとか何とかって。あと降霊がなんとかって…。」
「心霊現象…?」
「うん、幽霊とかそんなんかな。」
「幽霊……?」

その言葉が出た瞬間、俺は笑えなくなってしまった。
幽霊…それはこの世に存在しないもの。
そしてそれは俺が今でも好きな……。


「どうしたの?急に黙っちゃって。」
「なんでも…ないです…。」

夏生と別れてから二年、今までだってその言葉が出て来なかったわけではない。
なのになぜ彼が言うとこんなに反応してしまうのだろうか。
名前にしたってそうだ。
普通に聞いただけでは何とも思わなかったかもしれない。
彼を見間違えてしまったせいだ。
後から似ていないと訂正しても、俺の中の目にしっかりと焼き付いてしまったのだ。
こんな風に黙ってしまった俺を見つめる顔も…。


「あのさぁ…。」
「え………?」

この数秒間、俺は彼に見惚れてしまっていたのかもしれない。
だから彼の顔が急接近しているなんてことにも気付かなかったのだと思う。
そして柔らかい唇が俺の唇に近付くのも。


「あんまりぼうっとしてると危ないよ?」
「………。」

一度だけだった。
それも、触れたかどうかわからないぐらい一瞬で。
ぼうっとしていると転んで怪我するぞ、なんていうのは普段からよく言われることだった。
だけどこの場合の危ないというのは…。
キスをして来た彼が言ったということは、彼自身がということ…?


「あの……!」

聞きたくても、そこに彼の姿はもうなかった。
突然のキスに動揺している俺を置いて、行ってしまったのだ。
机に置かれた紙だけ持って、何も言わずに微かな笑みだけ見せて。
まるで今の彼の方が幽霊みたいだと思った。


「はぁ……。」

一人残された俺の口からは、深い溜め息だけが漏れた。
だけど不思議なのは、俺の中に憤りも何も覚えなかったことだ。
あの時彼から逃げたくせに、最初になかったことにしたかったのは自分なのに…。

俺は嫌じゃなかったんだ。

一方的にキスされたことが。
彼とセックスしてしまったことも…?
まだその感触が残る唇に指を当てると、そこが熱くなっているのが自分でもわかった。
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