「溺れる夏」【7】
「あの夏は、幻。」シリーズ あれから俺は、毎日のように家に閉じこもっていた。
しかし彼のことを考えることはなるべくしないように努めた。
考えてしまえばきりがないほど深みに嵌ってしまうから。
それよりも忘れる努力をしようと思ったのだ。
そして9月になって大学も始まり、またいつものような学校生活が始まろうとしていた。


「おー、千秋元気だったかー?」
「あ…、杉本この間は…。」
「しっかし全然涼しくならねぇなー。」
「あー…うん、そうだな…。」

先日電話をして来た杉本に後ろから声を掛けられ、いつものように挨拶を交わす。
あの電話のことはまったく気にもしていない様子だったので、俺もその話を突っ込むのはやめた。
杉本にしてみれば、誘った時にたまたま俺にバイトが入っていただけのことだ。
俺の場合は嘘だけれど、都合が悪い時というのは俺だけでなく皆がよくあることなのだ。


「はー、あちー。野崎とか今日も死んでんだろうな。」
「そうだな…、死ぬーって言って来るんだろうな。」

歩きながら他愛もない話をする間、俺は内心ホッとしてしまっていた。
夏生のことを持ち出されなくてよかったと。
彼のことを何か勘ぐられなくてよかったと。
その比重がどちらに傾いていたかは、自分でもよくわからなかったが。

杉本が言ったようにまだまだ夏が終わる気配もなく、今日も朝から強い太陽の光が照っていた。
この夏が終わる頃には、俺は彼とのことを完全に忘れることが出来るだろうか。
記憶の底に欠片も残らないぐらいに、俺の中から綺麗に無くすことが出来るだろうか。
この夏の熱が冷めていくように。








「あー、腹減ったー。」
「昼飯だ昼飯ー。」

午前の講義が終わる頃には、窓の外の太陽は一番高いところまで昇りつめていた。
雲ひとつない空が眩しくて、俺は外を見る度に目を細めた。
講義がある日は大学にある学生食堂をよく利用する。
さすがは学生食堂なだけあって、メニューも価格も学生向けだからだ。
何よりこの暑い中外へ出るのは誰でも面倒だし嫌だろう。
俺達はぞろぞろと並んで歩きながら、学生食堂へと移動した。


「千秋席確保しといてくれよ。お前の分買ってくから。」
「あ、うん。じゃあ日替わりで頼むよ。」
「オッケーオッケー。大盛りでか?」
「いや、普通でいい。じゃあ先行ってる。」

杉本に言われて、俺は皆で座れる場所を探した。
生徒達は皆俺達と同じことを考えているのか、わりと席は混み合っていた。


「ここでいいか…。」

ブツブツと独り言を呟きながら、俺は椅子に座った。
ちょうど入り口からすぐの場所で、窓からの日光も少ない。
暑いのが苦手な野崎もここならいいと言うだろう。


「あのさ…。」

席に着いてすぐ、後ろに人の気配を感じた。
俺は荷物も何も持っていなくて、席を取ってあるという意思表示がされていない。
だから誰かがこうして来るのは安易に予想が出来た。


「あっ、すいませんここ来ま……、え……っ!」

予想が出来なかったのは、ここにいるはずのない人がいるということだ。
それは「びっくりした」なんて言葉では簡単に言い表せないぐらい驚愕の出来事だった。
俺の目は大きく見開いて身体は固まったまま、何も言葉が出なかった。


「ここ空いてないんだ?」
「あの………!」

そこには俺が一番会いたくない、会ったら困る人間が立っていたのだ。
あの時一度だけ身体の関係を作ってしまったあの彼だ。
一度だけ過ちを犯してしまったその相手…、夏木さんだった。


「久し振りだね。」
「あの…………!」
「まさか朝起きていなくなってるとは思ってなかったけど………な、何…っ?」
「あのっ、すみませんちょっと…!!」

俺は彼が持っていたプレートを勢いよくテーブルに置いた。
皿に置かれたおかずがその反動でテーブルに飛び跳ねていたけれど、そんなことは目もくれずに彼の腕を引っ張って食堂を出た。


「ねぇどこに…。」
「すいませんちょっと来て下さいっ!」

俺はその腕を強く掴んだまま、廊下を進んで中庭へ向かう。
掴んだ彼の腕はあの時と同じ、細くて熱かった。
その熱さは俺の皮膚の奥まで滲みて来て、あの夜のことを思い出させるようだった。


「俺言ってなかったっけ?言ったような気がするんだけど…酔ってたのかな。」
「え…?」
「ここの学生だって。」
「え…そ…そうなんですか…?」
「嘘吐いてどうすんの?わざわざそんなことするわけないじゃん?」
「それは…そうですよね…。」

俺はてっきりあの店の社員かバイト…つまりはあれが仕事で、学生だなんて思っていなかった。
いや、俺が勝手に思い込んでしまっていたのだ。
よく考えてみれば彼はそんなことを一言も言わなかったし、もしかしたら俺の方が酔っ払っていて、ここの学生だと言っていたのを忘れてしまっていたのかもしれない。
とにかく俺にとっては、彼の職業なんてどうでもいいことだったのだ。
それぐらい、彼自身に対してしか興味がなかったということだ。


「あのさ…。」
「すみませんでしたっ!」
「え…?」
「あの俺…、すみませんでしたあの時…っ。」

俺は人気のない校舎の裏側で、彼に深々と頭を下げた。
会いたくないだなんて、都合のいいことばかり考えてしまっていた。
悪いことをすればいつか報いが来るのは当然なのに、それからも逃げようとしていた。
そんな自分に対して腹が立って、彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「そんな謝られても…。」
「すみません、謝って済むことじゃないのはわかってます。でも俺…、俺は…。」

彼は困ったような表情を浮かべて、俺に頭を上げろと言わんばかりに顔を覗き込んで来た。
それはそうだ、謝られてもどうなることではない。
もし俺が逆の立場だったら謝られたからと言って、笑って許すなんて到底思えない。


「じゃあ責任取ってくれる?」
「え…?」

覗き込んでいた彼の顔が離れて、俺の耳元に唇が近付いた。
囁く声が妙に艶っぽくて、心臓が速まるのが自分でもわかった。
責任…そう、俺は責任を取らなければいけない。
誘って来たのは彼の方だとか責任転嫁なんかしている場合なんかじゃなかった。
何にせよあそこで逃げたことに対しては俺が全面的に悪いのだ。


「俺と付き合ってよ。」
「え………?!」

再び覗き込んで来た彼の目が、真剣に俺を見つめている。
付き合う、というのはつまりそのままの意味だろうか…。
つまり恋人になれと言うことで…。
まさかそんなことを言われるとは思ってもいなくて、俺の頭の中はまたしても混乱をし始めていた。


「あの…俺…。俺は…。」

俺はすぐに「はい」と言うことは出来なかった。
たとえこれが彼でなかったとしても簡単には言えないだろう。
それどころか、一生「はい」と言うことなどないと思っていたのだから。


「俺……。」

俺の頭の中にあるのは、目の前の彼ではなかった。
あの夏にさよならした恋のこと。
あの夏にさよならした夏生のこと。
俺の中で最後の恋だと決めていたその相手の儚い笑顔だ。


「なんて…、嘘だよ。」
「え……?」
「だから冗談だって。そんな真剣に悩むなんて思わなかった。」
「冗談って…。」
「あんなのよくあることだし。やたら謝るからさ、ちょっと調子に乗っただけ。悪かったよ。」
「そんな…。」

あれがよくあること…?!
その日に出会った奴とセックスするのが?
そいつが朝になって逃げていたことが?
彼は一体どんな生活をして、どんな人生を歩んで来たと言うのだろう。
どう考えても「よくある」ことなんかじゃないのに。
少なくても俺にとっては忘れたくても忘れられないぐらい衝撃的な出来事だったのに…。


「でもせっかくだから付き合ってもらおうかな。」
「え…?あのそれは…。」
「あぁ、そういう意味じゃないから安心していいよ。」
「あの…。」

今度は俺が腕を掴まれる番だった。
あの時みたいに、俺の心臓を鷲掴みにするような強さで。


「俺の入ってるサークル人が足りないんだよね。入ってくんない?」
「サークル…ですか…?」
「嫌?もしかして忙しい?別に毎日活動してるわけじゃ…っていうかほとんど活動してないに近いんだけど。」
「いえ…、わかりました…。」

断れるわけなんかなかった。
あれだけ謝っておいて、あれだけ彼の前で悩んでおいて、「やっぱり責任は取れません」なんて言えるわけがなかった。


「それより俺、腹減ったんだけど。昼ご飯無駄になっちゃったじゃん。」
「あ…!す、すみませんでした…!」

夢中になって無理矢理置いて来てしまった彼の昼ご飯のことを思い出した。
それから席を取っておくと言って自分の友人達をほったらかしにして来てしまったこと。
だけどそれより何よりも俺の心の中を支配し始めていたのはそんなものではない。
さっき思い出していた夏生の笑顔でもない。
眩しい太陽の下で微かに笑う、彼だった。
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