「溺れる夏」【6】
「あの夏は、幻。」シリーズ それからはどんなに日が経つのが長く感じたことか、自分でもよくわからない。
日だけではない、一日の中での一分一秒まで今までにないぐらい長く感じた。
俺はどうしてあんなことをしてしまったのだろうか。
俺はどうして逃げてしまったのだろうか。
消せない事実を思い出しては悩んでいたからだ。
家の中にいても、外にいても、どこにいても俺の脳内はそのことだけが巡っていた。
あの時彼のことを一目見た時から目が離せなくなっているのと同じように。
それはまるで、何か恐ろしい魔術にかけられてしまったかのようだと思った。

だけどあの時逃げる以外に何が出来たと言うのだろう。
逃げる以外に俺はどうすればよかったと言うのだろう。
あのまま俺まで眠って朝を迎えたとしたら、彼は一体どんな態度を見せただろうか。
ごく普通の男女が初めて迎える朝のように少し照れ臭そうに微笑んでくれただろうか。
それとも気まずいような表情を浮かべて、お互い無言になってしまっていただろうか。
それとも何事もなかったかのようにするだろうか。
「何でまだいるの」だの「早く帰れ」だの言われただろうか。

考えても考えても、それは想像をすることなど不可能だった。
それは彼自身が掴めない人だから。
何を考えているのかわからない人だから。
そんな彼のせいにしてしまえばいいとも思った。
最悪と思われようが、最低と罵られようが、誘って来た彼が悪いのだと。
しかしその誘いに乗ってしまったのは自分だ。
そう、逃げる以前にすぐに断ればいい話だったのだ。


『おう、千秋か?』
「あぁ、杉本…。」
『明日空いてるか?』
「え…、明日…?」

クーラーの効いた部屋の中で、天井を見つめながらまたぐるぐると考えている時だった。
近くに置いておいた携帯電話が鳴って、よく見る名前と電話番号が出ている。
俺はすぐに起き上がって着信ボタンを押してその電話に出る。


『そろそろ夏休みも終わんだろ。課題皆でやろうって言っててさ。』
「あー…。どこで…?」
『大学の図書館。明日は伊原とあと野崎とー…。』
「大学の図書館か…。」
『そーそー、そんでまた昼飯でもーって話。』
「あ……。」

昼飯…。
あの日の昼食も皆で食べることになって、あの時あのカフェに行ったのが始まりだった。
もしまたあのカフェに行くことになったら…。
そして彼が働いていたら…。
まだどこへ行くかわからないのに、俺は先の先まで考えてしまった。
しかしここでどこへ行くかというのを聞くわけにもいかない。
普段から適当に決めていると言うのに、そんなことを聞いて何か怪しまれたりしたら…。


『…千秋?忙しいのか?』
「あ……、うん…。短期のバイト入れちゃったんだ。」
『え?そうなのかよ?先に言えよそれ。』
「ごめん、俺も明日っていうの忘れてて…。でも助かった、思い出してよかったよ。」

いくら深いところまで話していない間柄だからと言って、嘘を吐くことが許されるわけではない。
何か本当に用事が入っていて断るのだってあまりいい気はしないはずだ。
それをいかにもな言い訳を並べて本当らしく言って退けるだなんて…。


『そっか、わかった。』
「ごめん、本当に。それで夏休みギリギリまでなんだよ…。」
『ああ?バイトがか。いや気にすんなよ、頑張れよ。』
「うん、じゃあ皆にもよろしく…。」

ボタンを押して電話を切った後、深く重い溜め息が出た。
たとえ明日だけ断って済んだとしても、夏休みはもう少しだけ続く。
その間にまた誘いの電話が来たらと思うと恐くて、嘘に嘘を重ねた。
俺はいつからこんなに汚い人間になったんだ…。

それから更に数日が過ぎた。
俺という人間は、汚いだけでなく矛盾した人間だということがわかった。
あれだけ逃げてもう会いたくないと思っていた彼が働くカフェにいるのだから。
正確には、彼に見つからないようにカフェの外から中を窺っていたのだ。


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

まだ耳の奥に残るあの声。
姿ははっきり見えなくとも、彼だということがはっきりとわかった。
きっとあの細い手でグラスを持ってテーブルに置いているのだろう。
そしてあの柔らかな笑みを客に見せているのだろう。
俺とのことなんて何もなかったかのように…。


「………っ。」

俺は今になって気が付いてしまった。
恐かったのは、何もなかったことにされることだったのだ。
あんなに軽々しくセックスを要して来た彼に、軽々しくあしらわれるのが嫌だった。
恋人でもないのに恋人面なんかするなと言わんばかりに冷たくされるのが嫌だった。


「はい、アイスカフェ・ラテとアイスカプチーノですね。」

その客と同じように扱われるのが。
商売用の笑顔で迎えられるのが。
一晩だけの付き合いだったと、過去のことにされるのが。
心なんかなかったと言われるのが。
もう忘れようと言われるのが。
俺のことなんか好きでもなんでもないと言われるのが…?
俺は彼のことを好きなのか…?

わからない。
どこまで考えてもわからないのだ。
だって俺は、夏生のことだけを思っていたはずだったんだ。
他の誰かに心を奪われるなんてこの先絶対にないと思っていた。
死ぬまで夏生を愛し続ける自信があった。
それなのにこんなにもぐらぐら揺れてしまっているだなんて…。

しっかりするんだ。
あれは事故だったんだ。
防ぎようのない事故だった。
そう思えばいい。
そして彼が忘れているように、俺も忘れればいい。
また夏生のことを思い浮かべればいい。
ずっと思い続ければそれでいいんだ。
一度の過ちだと心から反省して、心を改めるんだ。

俺は自分へ強く言い聞かせながら、その場を後にした。
そうでもしなければ、また彼から視線を離せなくなると思ったから。
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