「溺れる夏」【5】
「あの夏は、幻。」シリーズ
それから後のことは、あまりよく覚えていない。
覚えているのは彼の仕草や声ぐらいで、俺はと言うといちいちそれに反応してしまっていた。
程よいぐらいにアルコールが体内を巡った頃、彼が自宅へ誘って来た。
それもいつもなら即座に断るはずなのに、なぜかこの時はさほど躊躇わずに黙ってついて行ってしまったのだ。
彼の自宅はバーから歩いてほど近く、あのカフェからもそう離れていなかった。
きっとカフェに通うのに便利だからここに住んでいるのかもしれない。
歳は想像していた通り俺よりも上で22歳と言っていたけれど、その歳の人間が住むにしては結構立派なマンションだと思った。
「どうぞ。」
「…お邪魔します。」
玄関を開けると、数は少なかったけれど靴は綺麗に揃えられていた。
壁も天井もまだ真っ白で、それはここのマンションが出来てからそう年数が経っていないことを示す。
床もまだ目立った傷もなく、ピカピカしている。
トイレやバスルームがある廊下を歩いてドアを開けると、一人暮らしにしては少し広めの部屋だった。
中にはダイニングキッチンとリビング、襖のような引き戸を開ければ寝室だろうか。
「ビールぐらいしかないけど…。」
部屋の中も綺麗に片付いていて、何となくそれが彼らしいと思った。
カーテンもカーペットも淡いブルーで統一されていて、言ってみればシンプルな部屋だ。
なのに俺はこの時、何か違和感のようなものを覚えてしまった。
「俺はもう酒は…。」
「あ、甘いやつもあった。こんなん買ったっけ俺…。」
彼の後ろをついて冷蔵庫の中を覗くと、ほとんど食べ物という物は入っていない。
飲みかけの水だとかお茶だとかのペットボトルや調味料らしき物だけで、せっかくの冷蔵庫が勿体ないというぐらいだった。
そんな状態なのになぜ彼は自分の家の冷蔵庫の中を知らないんだろう…。
俺も自分の家の冷蔵庫の中をすべて把握しているかと言われれば自信はないけれど、
それは俺が家族と同居しているからであって、彼はここに一人で住んでいるのだ。
自分しか使うことのない冷蔵庫の中がよくわかっていないなんて…。
「あの…、俺は水でいいです。水もらえませんか?」
「え?あ、そう?ちょっと待って。」
もうこれ以上酒を飲んだら完全に酔っ払ってしまう。
今でも十分酔っ払っているかもしれないのに、後で何も覚えていなかったなんてことになったら大変だ
。
すると彼は冷蔵庫の中の水を無視してキッチンの流しの前に立った。
近くに置いてあったグラスを手に取ると、蛇口を捻って勢いよく水を注ぎ込む。
「どうぞ。」
「え…?あの…。」
「あ、何?水道水気にする人?ごめん今ミネラルウォーター切らしてて…。」
「あ…いえ…。」
「??どうしたの?」
「いえ、さっき冷蔵庫に入ってましたけど…。」
平気な顔をしているけれど、もしかしてこの人の方が酔ってしまっているのだろうか。
それともつい今しがた見た冷蔵庫の中にあったことに気付いていなかったんだろうか。
酔いが回りながらも、俺の脳内はまだ冷静さを保っていた。
「あぁ、あれいつのだかわかんないから。」
俺にはよくわからない。
この人がどんな生活をしているのかはもちろん、どういう人なのか、何時間も経っているのにまったくわからないのだ。
掴みどころがなくて、次にどんな言葉が出て来るのか想像がつかない。
それは今日待ち合わせた後に思った第一印象のままだ。
「飲まないの?」
部屋に入って感じた違和感がやっとわかった。
ここは何だか人が生活している部屋に思えないのだ。
シンプルという言葉で片付けてしまえば簡単なのかもしれない。
もしかしたら俺の考え過ぎなのかもしれない。
だけどこの部屋にはまったくと言っていいほど生活感がない。
小さなガラステーブルの色も、その上に置かれた銀色の灰皿の色も、冷たくて無機質に感じてしまう。
「あぁ…、ごめん、そっか…。」
「え……?ちょ…あの…っ。」
俺が考え込んでいると、彼の腕が首元に絡み付いて来た。
酔いが一気に覚めてしまうほど驚いた俺は振り解こうと腕を掴む。
涼しそうな表情を浮かべているのに、掴んだその腕だけが灼けるように熱い。
「じゃあしようか。」
「え……?何を…。」
「ナンパしたんでしょ?セックスしないの?」
「は…?ちょっとあの…っ。」
何を考えているんだ、冗談じゃない。
そう言って突き飛ばせばいい。
今すぐにここを飛び出して駅まで向かえばまだ終電までには十分間に合う。
それで今日のことは全部夢だったと、なかったことにしてしまえばいい。
「…しないの?」
俺は本当は物凄く酔ってしまっていたのだろうか。
そうでなければ思考回路がはっきりしているのに過ちを犯すなんてことがあるわけがない。
それとも近付いて来た彼の唇が触れてしまったせいだろうか。
息がかかって、どこか別のところへ脳みそだけが飛んでしまっていたとか。
色んな言い訳を考えながらも、俺は目の前にある唇を貪ってしまっていた。
「…あ…はっ、あ……いいっ…。」
人と身体を重ねたのは初めてのことではなかった。
夏生に出会う前に何人かの女の子と付き合ったことがあって、そのうちのごくわずかだけれどそういう関係にまでなった。
ただあの夏を過ぎてからは、誰かと身体を重ねるどころか誰かに心を奪われることすらなかった。
「あ…、もっと……っ。」
決して彼に心を奪われたわけではない。
自分にそう言い聞かせながら俺は彼の身体に触れてはその奥を何度も貫いた。
それなら遊びなのかと言われるとなんだか不快な気分になる。
理由もわからないまま誰かの身体を抱くなんて、数時間前の俺は予想もしていなかったことだ。
「はぁ…っ、…き……っ、千秋…っ。」
「……っく…。」
彼は涙を滲ませながら、俺の下で高くて甘い声を上げ続けた。
クーラーのよく効いた部屋の中で、そこだけが熱帯になったような暑さだった。
流れる汗も零れる唾液も溢れ出る体液も、今までにこんなセックスはしたことがなかった。
俺達は暗い部屋の中で何度も達して放っては、その熱を分かち合った。
だけど俺は最後まで、彼の名前を呼ぶことが出来なかった。
突然名前で呼ぶのも変だし、偶然と決め付けた名字のことを考えるとどうしても出来なかったのだ。
それからどれぐらい時間が経ったのかわからない。
何度目かの絶頂の後、二人でほぼ同時に床に倒れ込んでしまってから記憶が途絶えていたのだ。
気がついた時に目の前にあったのはブルーのカーペットで、少し離れた場所には眠っている彼の姿があった。
「………っ。」
俺は何てことをしてしまったのだろう。
出会ったばかりの人間と待ち合わせただけじゃなく、こんなことまで…。
どうしていいのかわからなくて震える手で、何とか身体を支えて立ち上がろうとする。
ふらふらと這うように歩いて引き戸を開けるとやはりそこは寝室だったようだ。
俺はベッドにある毛布を掴んで、眠り続ける彼の身体に掛けてやった。
とにかく落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら、水を飲もうとキッチンへ向かう。
足元がふらついて転んでしまって、大きな音をたてたのに彼は起きる気配がなかった。
床にしゃがみ込んだまま蹲っていると、すぐ近くにあったダンボール箱が視界に入る。
「…あるじゃないか……。」
それは切らしているからと言っていたミネラルウォーターの箱だった。
しかも箱買いまでして、まだこんなに中に入っているのに…。
なんだか生活感もなければ彼自身も現実味のない人間に思えてくる。
もしかしたら俺は、全部現実ではなかったと思いたかったのかもしれない…。
「…めんなさ……っ。」
俺は最低だ。
男としても人間としても最低な奴だ。
いくら現実だと思いたくないからって言ってこんな…。
心の中で叫んだ謝罪の言葉は、彼に対してだったのか夏生に対してだったのか。
もはやそれすらもわからないぐらい俺は混乱してしまっていた。
そして俺は更に最低な行動に出てしまった。
「ごめんなさい…っ。」
自分を責めながらも、自分を保護しようとする思いに勝つことが出来なかった。
俺は眠る彼に向かって深く頭を下げると、急いで服を着込んだ。
そして暗い夜の闇に向かって飛び出してしまった。
俺は彼の部屋から…いや、彼から逃げてしまったのだ。
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