「溺れる夏」【4】
「あの夏は、幻。」シリーズ その後はほとんど会話を交わすこともなく、俺はただ彼について行くだけだった。
先程から自分の視線が離さないように、彼自身から離れることが出来なかったのだ。
太陽が沈むまでもう少し、夕陽が彼の背中を照らして眩しかった。
それは昼に会った時と同じように、光に包まれて輝いて見えたのと同じだった。
手を伸ばせば届くのに、どこかへ行ってしまいそうで…。
だから俺は離れることが出来なかったのかもしれない。


「あの、俺一応未成年…。」

連れて行かれたのは、カフェから近くの小さな路地を入ったところにあるバーのような店だった。
まだ夜という時間にもなっていないせいか、店内の客もまばらだ。
自分の年齢を教えていなかったのが悪かったのかと思ったけれど、彼は俺の言葉に耳を貸す気はないらしい。
すたすたと歩いて店の中を進むと、さっさと席についてしまった。


「ビール2つ。あとはー…。」

そんな風にされたら俺はもう何も言えなくなってしまった。
メニューを手に取り勝手にビールやら何やらを注文されると、俺は俯いたまま無言でいるだけしか出来なくなる。
俺は仕方なく出された冷たいおしぼりで、掌の汗を拭った。
身体は冷えていたはずなのに、よほど緊張していたということを示しているようだった。


「んじゃ乾杯。」
「はぁ…。」

運ばれて来たビールを手に取って、言われるがままグラスを合わせた。
グラスの水滴が時々落ちて来ては俺の手を濡らして、その冷たい感触が俺に目を覚ませと言っているようだった。
これはどう考えても現実なのに、夢の中にいるみたいだったのだ。
俺は何をしているのだろう。
今日会ったばかりの人間と乾杯だなんて。
ふとそんな自責の念が舞い降りて来て、とりあえずこの場を離れることだけを考えた。
普通に暮らしていたらこんなことはなかったはずだ。
彼ともただのカフェの店員と客という関係だったはずだ。
それもあの時俺が見間違えてしまったからだ。
間違ってしまったのなら、そのことを訂正して終わらせればいい。


「あの、今日はすみませんでした。」
「へ?何が?」

しかし彼から返って来たのは、意外な言葉だった。
俺はそれがそもそもの要因だと思っていたけれど、彼にとってはどうでもよかったのだろうか。
確かにその証拠に、彼の方からそのことを責める言葉はなかった。
トイレに行く振りをして彼を探して会えた時も、待ち合わせの場所に行った時も、グラスを交わした時も。


「いやあの…、人違いをしてしまって…。」
「あぁ、それって本当だったんだ?」
「え…っと、それはどういう…。」
「なんだ、ナンパかと思ったんだけど違うの?」

俺は驚きのあまり、すぐに次の言葉が出なかった。
これ程こういう言葉が似合わない人はいないと思った。
彼は何も気にしていないような素振りで、注文したサラダを遠慮なしにどんどん口に運んでいる。
こんなに清潔感のある涼しい顔をして、いきなり出たのがそんな言葉だったなんて…。
人というのは話してみないとわからないとはこのことだ。


「あの…俺は…。」
「あぁ、やっぱり男はダメ?」
「ダメとかそういう…。」
「まぁ普通はダメか。俺も自分で変だと思ったことあるぐらいだし。」

次々に吐き出される彼の言葉は、意外性を更に増した。
男の俺に向かってナンパだと思ったのも、普通はダメかと言ったことも、彼がそういう人だということを表している。
それは限りなく直接的に近い間接的な言い方だったけれど…。
世の中には同性しか愛せない人間がいるのは知っている。
自分も男を好きになったことがある。
だけどこんな風に軽々と口にする人がいたとは思わなかったのだ。
一つ間違えば、侮蔑する人間だっているだろうに。


「すみません俺もう…。」
「行かないで…。」
「え……っ?あ、あの…?」
「なんて、嘘だよ嘘。ごめんごめん。」

頭を下げて立ち上がろうとした俺の手を、彼の手が掴んだ。
俯いたままぼそりと呟いた言葉を聞いた瞬間、胸を大きく揺さ振られる。
目を見開いて動きを止める俺に、今のは冗談だったと笑っている彼の手が熱くて…。


「無理矢理誘ってごめん。もう出よっか。」

笑っているけれど、だったらどうして?
どうして俺を誘ったんだろう。
無理矢理でも誘ったのはどうして?
俺が同性愛者だとかそうでないとか、わからないのに誘ったのはどうしてなんだ?
そしてダメだとわかったら何もなかったかのように帰るって言うのか?
俺の心にこんな短い時間で入り込んで来たくせに…。
なかったことにしたかったはずなのに、俺の心の中はぐらぐらと揺れていた。
このまま彼が帰ってしまったら、本当に何もなかったことになる。
それは悔しさや怒りだったのか、それとも期待だったのかはわからない。
だけど確かなのは、ここで終わらせたくないという思いだった。
名前も聞かずに、どこの誰ともわからずに終わってしまうのが嫌だったのだ。


「待って下さい…っ!」
「え…?」
「待って下さい…。名前っ、名前は…っ?」
「え…?」

俺の脳裏にはまたあの夏の記憶が蘇る。
夏生が俺の前に現れて、そろそろ帰ろうかということになった時。
なんだかもう会えない気がして、思わず叫んでしまったのだ。

…名前!お前…、名前何?俺、千秋。千に季節の秋って書くんだ…っ。

そう言って掴んだ夏生の腕の温度までも。
だけどあの時掴んだ細くてひんやりと冷たい腕はどこにもない。
確かに生きている人間の温度が、俺の掌の奥の奥、血管の中まで伝わってくるみたいだ。


「い、今からじゃダメですか…?」
「今から?」
「あのっ、今からナンパとか…ダメですか…。」
「面白いこと言うんだね。」

自分でも何を言っているんだと思った。
今からナンパしていいかなんて聞く奴なんて世の中にいるんだろうか。
なのに彼は腕を振り切ることも断ることもせず、ふっと目元を緩めて笑った。


「す、すいません俺そういう意味じゃ…。」

そういう意味じゃないならどういう意味だと言うのだろうか。
俺の言うことややることはいちいち矛盾している。
夏生をあれだけ忘れられないと思いながら、他の男をよりによってナンパだなんて。
今ここに夏生がいて、この会話を聞いていたら、きっと許してなんかくれないだろう。
そんな罪悪感でいっぱいなのに、まだ彼の腕を離せずにいるのだから。


「名前?夏木直だよ。」
「ナツキ……。」

あぁ、だからあの時彼は一瞬妙な表情を浮かべたのか…。
俺が口走った夏生の名前を聞いて、自分の名前を知っているのかと思ったからだったのか…。
それにしてもこんな偶然があるなんて…。
運命だとか、そういう言葉を信じていなかったわけじゃない。
むしろ運命を信じて、好きな人にまた会えることを夢見ていたのだ。
だけどそれは俺にとって夏生とのことだけだった。
他の人間が入ってくる隙間なんか心のどこにもなかったはずなのに…。


「何?そんなにこの名前珍しい?普通だと思うけど。」
「あっ、そ、そうですよね…。」

俺は何を考えているんだ。
偶然だとか運命だなんて。
彼が言う通りよくある名前、しかもこの場合相手は名字じゃないか…。
冷静さまでも失ってしまった俺は、再び椅子に座って置いてあったグラスを掴むと、少し温くなったビールを一気に飲み干した。


「そっちは?名前。」
「あ…、俺は千秋って言います、須藤千秋です。」

俺の手が離れて自由になった彼の手が、ポケットから煙草を取り出す。
彼もまた俺の前に再び座ると、慣れた手つきでその煙草に火を点けた。
懐かしさを覚えるような煙草の匂いがゆらゆらと漂って来ては俺の鼻を掠めた。


「ふーん、千秋か…。あ、もしかして秋生まれとか?」
「えっ!ど、どうしてわかるんですか…?」
「いや、なんとなくだけど。名前に秋ってつくから。なんか変なこと言った俺?」
「あ、そうですよね…。」

俺は彼が発する言葉の一つ一つに、反応してしまっていた。
何かと言うとあの夏の記憶と重ね合わせてみたりして…。
目の前の人間よりも俺の中では夏生のことが大半を占めていたはずだった。
なのに今の俺は信じられないぐらい、心は彼に向けられたままだった。
まさかこれこそが運命の出会いになろうとは、まったく思いもせずに。
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