「溺れる夏」【3】
「あの夏は、幻。」シリーズ そろそろきりのいいところで今日は帰ろうという話になって、大学を出た。
夕方になって暑さはだいぶ和らいだように思えていたが、大学から一歩踏み出すと、そこにはまだ灼熱と言ってもいい程の厳しい暑さが待ち受けていた。
それでも長時間は涼しいところにいたせいか、まだ身体はひんやりとしていた。


「あれ?千秋も電車だろ?」
「え…、あ…。」

皆で揃って駅へ向かう途中、俺が突然一人外れて行こうとしていたことに友人は気付いていた。
俺一人いなくてもいいぐらい盛り上がっていたはずなのに、運が悪かったと言うか何と言うか…。
いや、さすがに存在感の薄い俺でもいなくなったら気付くだろうとは思っていた。
俺だって何の問題もなくすんなり逃れられる自信があったわけではない。


「ちょっと…、母さんに用事頼まれてて…。」

別に慌てる必要も嘘を吐く必要もなかった。
だけど本当のことを言うわけにもいかない。
今日初めて会った人と待ち合わせているから、なんて言ったら周りは変に思うに違いないと思ったからだ。
しかも相手は男…、いや、女でも変だと思われるかからかわれるに決まっている。
まず俺は過去のことを話していないのだ。
俺が男を好きだったとか、そいつに似ているからさっきの店員を見間違えたとか、そういうことを話したら面倒なことになりかねない。
話したところで理解してもらえるかだってわからない。
同性を好きになったことがあるという経験がないのが当たり前なのだから。


「なんだよ女じゃねぇだろうなぁ?」
「違うよ、そんなわけないだろ。」
「千秋は秘密主義者だからな。」
「そんなんじゃないって…。」
「ホントかよー?隠してんじゃねぇだろうなぁ。」
「ホントに違うって。母さんが大学行くなら近くの店のケーキ買って来いってうるさいんだよ。」

具体的な話までして、俺は嘘を吐き通した。
それと同時に、周りから見れば自分はそんな風に見えていたのかということに気付かされた。
確かに俺は皆よりもそういう話題に疎いし、積極的に会話に入ろうとはしない。
それは自分でもわかってはいたし、自分からそうしたことだった。
だけど「秘密」なんて言われると何だか悪いことでもしている気分になるじゃないか…。


「なんだっけさっきの…、ナツキちゃん?だっけ?その子じゃねぇの?」
「違うよ。ほらあそこ、あそこの店。」

何も知らない友人が口にした名前に、胸の奥がちくりと痛んだ。
悪いことをしているのは気分でも何でもなくて、実際に悪いことなのかもしれない。
夏生に対してこんなに後ろめたさを抱いているんだから。
近くに洋菓子店があるのは知っていた。
何度か覗いたこともあったし、大学の女の子達が寄っているのを見たこともある。
嘘を吐く時こんなにもすらすらと言葉が出て来るとは思っていなくて、我ながら驚いてしまった。
俺はそこまでして、夏生のことを自分の胸の中だけにしまっておきたかったのだろうか…。


「じゃあ俺はここで。また集まる時は連絡くれれば…。」
「おう、わかった、またな。」
「お疲れー。」

こうして俺は、思っていたよりはすんなりと友人達と別れることが出来た。
道を外れていなくなろうとしたことに気付かれた時は、もっと執拗に責められたり追求されたりするかと思っていたのだ。
ケーキを買うだけならと、ついて来られたり待っていられたりでもされたら、俺はどうするつもりだったと言うのだろう。
とにかくこの場を逃げ切ることが出来て、俺としては助かったと言ってもいい。
ふと腕時計を見ると針は既に6時を過ぎたところを指していた。
俺は昼に行ったカフェ目指して急ぎ足で向かった。
確かな約束というものをしていたわけでもないのに。








「あ…。」

向かいの信号から、昼に見た時とは違う彼の姿が目に入った。
そういえば昼に見た時のは店の制服だったのだと今頃になって気付く。
ピシッとのりの利いた白いシャツに黒くて細いズボンがよく似合っていた。
同じ生地なのかはわからないけれど、エプロンがそのズボンに馴染んでいた。
少し長めの髪は日に透けて見えるぐらい芯が細そうだった。
水をテーブルに置いた時の手は白くて、指も細くて…。
凄く似ていると思ったんだ…夏生に。
彼のことを思い出したせいなのか夏生のことを思い出したせいなのか、俺の心臓は信号を待つ間尋常な速さではなくなっていた。
早くこの信号が青になって欲しいのに、出来ればずっと赤のままでいて欲しいという相反する思いが交錯して、どこかへ逃げてしまいたくなった。


「5分遅刻。」

実際に信号が変わったのはすぐのことだった。
逃げてしまいたいなんて思いながらも、俺の視線は彼を捉えたまま離さなかったのだ。
横を向いたまましゃがみ込んで棒つきアイスを食べる姿が何とも似合わなくて、こんな時になぜだか可笑しくなってしまった。


「すみませ…。」
「食べる?」

彼が持っていたアイスはもう半分も残っていなかった。
6時きっかりに仕事が終わってすぐに着替えて出て来たと考えて、5分遅刻と言ったのは本当だったのだろう。
ソーダ色のアイスの先の方は溶けて今にもぽたぽたと雫が落ちそうだ。
何気なく差し出されたけれど、それをもらって口に入れたらいわゆる間接キスということになる。
深く考えるところでもないのに、俺はそのアイスを食べるべきか断るべきか、真剣に考えてしまっていた。


「あ…、いや俺は……うぐっ!」
「美味いよそれ。」

考えた挙げ句断ろうとしたと同時に、アイスが口に突っ込まれてしまった。
まるでいたずらに成功して喜んでいる子供のように彼は笑って立ち上がると、その場から歩き出す。
俺は暫くアイスを咥えたまま、驚きのあまりその場から動けずにいた。


「あれ?美味くなかった?」
「いや…、美味いですけど…。」

顔に似合わないことをする人。
積極的なのかただ単に人懐こいのか。
良く言えば面白い要素を持っていて、悪く言えばちょっと変わっている人。
とにかく先が読めない。
少なくとも今まで俺の周りにはいなかったタイプだと言うことははっきりしている。
それがカフェの外で見る彼の第一印象だった。
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