「溺れる夏」【2】
「あの夏は、幻。」シリーズ 「んで?誰と来たんだ?」
「だからもういいってその話は。あんま突っ込むなよ。」
「なんだよ伊原ー、顔赤ぇぞ。」

俺達は、ぞろぞろ揃ってその店に入った。
大学のすぐ近く、この春出来たばっかりのそのカフェは、確かに俺も雰囲気的に敷居が高いと思っていた。
白い壁や、立派な装飾が施された脚のテーブル、そのテーブルの上には綺麗な花が飾られている。
花の入った花瓶もまた、豪華で高そうな物で、テーブルクロスは常に新品みたいに真っ白だった。
大きな窓の外から見るそれらの景色は、入りにくさを物語っていたのだ。
いつの頃からだったか、オープンテラス席なんかも出来たけれど、相変わらず俺が入ることはなかった。
それでも通りがかった時にはお客さんが結構入っていて、わりと繁盛しているんだなぁとは思っていた。


「俺今日のランチプレートにするわ。千秋は?」
「あー…、どうしよっかな…。」
「それよりこいつ追求しなくていいのかよ?」
「追求すんなって言ってるだろ。」

言いだしっぺの伊原が言った通り、テーブルの上にあったメニューを見ると思っていたよりリーズナブルだということがわかった。
これなら俺達みたいな金のない大学生でも通うとまではいかなくても、尻込みするほどではない。
よく見ると周りの客も普通の人ばかりだ。
俺としては、バリバリ仕事をするサラリーマンだとかキャリアウーマンだとかが打ち合わせなんかに使うようなところだと思っていたのだが、
実際は学生も多く、近所に住む主婦っぽい人なんかもいたりして、勝手な思い込みというやつはある意味凄いと思った。


「まぁまぁ、伊原の話は食いながらでいいだろ?俺腹減ってんだよ。」
「だからしつこいってお前ら。」
「あ、俺も同じ。今日のなんとかでいい。」
「ランチプレートだっての。」
「おっ、パスタもあんじゃん、俺これにしよっかなー。」

皆好き放題の会話をしては初めて来た店を楽しんでいて、俺もその雰囲気だけは味わうことが出来る。
だけどあくまで雰囲気というだけだから、心の奥底から楽しんでいるとは自信を持って言えない。
皆にはとても申し訳ないのだけれど…。
そろそろ皆の注文が決まったので、俺も急ぐことにした。
俺はほとんど喋っていないのに、実はまだ全然決まっていなかった。
それはまるで優柔不断な自分自身を映し出しているようで、何だか情けなくなってしまった。


「千秋は?まだ決まってねぇの?」
「あ、じゃあ俺も…。」
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

友人に急かされて、それなら皆と同じものにしようかと、メニューを折り畳んだ時だった。
誰かが呼んだのか、店のウェイターが注文を聞きに人数分の水を持って現れた。
それは店に入れば行われる、ごく普通のことだった。
普通じゃないのは、問題なのは、そのウェイターの声だった。


「あ、俺は今日のランチプレートで…、こいつもだからー…。」
「はい。では本日のランチプレートを二つですね。」
「俺はパスタランチで。」
「パスタランチですね。」
「俺はー…、じゃあ俺もパスタランチ。和風の方。」
「はい、パスタ和風で。」

今にも消えてしまいそうなぐらい、透明で繊細な…。
俺の脳裏には、あの夏の風景が鮮やかに蘇る。
雲一つない真っ青な空が見せる夜の闇や、その中で輝く星の色。
あの時消えそうになりながら、小さく囁いた夏生の声までも。


「…夏生……?」

俺はどうかしていたのかもしれない。
どう考えても、あの夏生がここにいるはずなんてないのに。
遠距離恋愛中の恋人みたいにただ離れているわけじゃないんだ、あいつはこの世に存在しない人間だって言うのに…。
振り向きながら、俺はどこかへ行ってしまいそうになる自分を抑え切れなかった。


「夏生…?」
「え…?」

外からの陽射しが強すぎて、すぐにはそのウェイターの顔が見えなかった。
粒状になった光の中で、その人だけが輝いているみたいで…。
一瞬にしてあの二年前の夏に戻ってしまったような感覚に陥ってしまった。


「千秋何?知り合いか?」
「あ…。」

しかしそれは儚い幻となって消えてしまった。
友人の声で元の世界に戻ってしまった俺を待ち受けていたのは、厳しく悲しい現実というものだった。
やっとはっきり見ることが出来たその顔は、もちろん別人だった。
透けるような茶色の髪の色や長さや、肌の白さ、全体の雰囲気は似ているけれど、夏生ではなかった。
そんなことはわかっていたけれど…。


「あのっ、俺すいません!人違いを…。」
「でも俺の名前…。」
「え…?」
「あ、いえ、そんなに…似てました?」

俺の名前?
ぼそりと呟いたその言葉を、俺は聞き逃さなかった。
聞き返すと気まずそうにして笑顔を作ってみせたその人の顔をもう一度よく見る。
似ていると言えば似ているけれど、どう考えても夏生であるはずがない。
それは有り得ないというものだ。
夏生じゃないのならば、どうしようもない。


「あ…、はい…凄く…。その、すみませんでした。」
「いいえ。ご注文は?」
「俺もパスタで…。」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ。」

俺は間違ってしまった彼に失礼だと思い、つい似ていると言ってしまった。
しかも注文しようと思っていたものまで別のものになってしまって、俺はよほど動揺してしまっていたらしい。
だって本当に最初は似ていると思ったんだ…。
それだけじゃない、別人だとわかっても俺は…。


「何だよ千秋ー、ナツキって誰だー?」
「元カノだろ?忘れられねぇとか。」

皆が冷やかす声にも、俺は応えることが出来ない。
俺達のテーブルから離れて行く眩しい白いシャツを、俺の目線は追い掛けてしまっていたから。
別人だとわかっても、気になって仕方なくて。
光の中で見たあの人は、夏生が生まれ変わって現れたのだと思ってしまったのだ。
そんなことは絶対に有り得ないとわかっていても、その幻想は止めることが出来なかった。

その証拠に、俺はトイレに行く振りをしてその人を探してしまったのだ。
自分も友人もほとんど注文したものは食べ終わって、食後のコーヒーを飲んでいた隙を見て、テーブルを離れた。
キッチンと思われる方からは店員が続々と物を運んで出て来て、そのすぐ近くにトイレを示すプラスチックのプレートが見えた。
さすがにそこまで着くとバカげたことをしていると思って、本当にトイレに行って帰ろうと思った。


「あ…、さっきの…。」
「あ…!」

死角になっていた壁の向こうから、その探していた人物が現れる。
俺達の席に運んで来た時のようにお盆に幾つかの水を乗せて、これから接客に行くのだろう。
自分のことを覚えてくれていたのかと思うと、胸の辺りが熱くなる気がした。
先程のことを覚えられていたのなら、もう一度謝らなければいけないのに、何とも言えない気分になってしまって、何も言うことが出来ない。
見つめられたその視線に囚われて、この場から一歩も動けない。


「俺今日6時までだけど。」
「あの…?」
「聞こえなかった?6時には暇になるよっていう意味。」
「あ……。」

くすりと笑ったその人は、さっきよりも砕けた印象を俺に与えた。
事務的な会話とは違う、言葉遣いから笑顔まで。
その笑顔は爽やかなのに何か含んでいるような気がして、俺はもっと目を離せなくなってしまった。
妖しいような、寂しいような、どう表現していいのかわからないような笑顔。
俺は人のこんな表情を、初めて見たかもしれない。


「あの…。」

話を続けようと思った時には、その人はもう俺の前から立ち去っていた。
やっぱり眩しい白いシャツだけ見せて、何事もなかったかのように。
そんな風に素っ気無く言われると、俺はもっと気になって仕方なくなってしまった。
誘いめいた言葉には、相手が女の子でも乗らないはずの俺だったのに…。
彼はどうしてそんなことを言ったのか。
何をしたくて、どういう意味で言ったのか。
名前がどうとか言っていたのはどういうことだったのか。
その意味を考えると、大学へ行ってもレポートなんか手に付くはずがなかった。
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