「溺れる夏」【1】
「あの夏は、幻。」シリーズ
人は忘れることが出来る生き物だと、誰かが言っていたのを思い出す。
確かに嫌なことでも忘れてしまえば、それは自分の中で思い出となって穏やかな気持ちになることだって出来るかもしれない。
だけどその「忘れる」ということが出来ない場合はどうしたらいい?
それ以前に、自分が忘れたくないと思っているのなら、どうしたらいいと言うのだろう。
今の俺には、その答えを見つけることなんて出来ない。
俺はこのことを一生疑問に思いながら生きていかなければならないのか…。
自分の未来を決めつけてしまうほど、あの夏の出来事はあまりにも鮮烈過ぎた。
「ちょっと大学に行ってくる。」
8月になって、今日も太陽は燦々と照っている。
玄関を出る前に家にいる母親に声を掛けて、俺は自分の通う大学へ出掛けることにした。
一歩外に出れば、眩しいぐらいの夏がそこには広がっているはずだ。
「気を付けて行くのよー?」
「うん、行って来ます…。」
リビングから母が走ってやって来て、声を掛けて来る。
誰もが言うこの言葉が、俺にとっては特別なものだった。
俺も普通に使っていたこの言葉の意味が重くなったのは、二年前の夏からだった。
「あつ…。」
思った通り、もうすぐ空の天辺にさしかかろうとしている太陽の熱は相当なものだった。
アスファルトからの反射熱が、じんわりと俺の身体を汗ばませる。
東京の夏といえば、毎年こんな感じだ。
気温が高くて、蒸し暑くて、不快指数も高い。
祖母の住む田舎は、全然違う。
確かに暑いことは暑いけれど、あそこはもっと空気がからりとしている。
そして夜になれば気温はぐっと下がって、クーラーがいらない日だってある。
そもそもクーラーのある家自体少ないらしいけれど。
「うん、今出たとこ。」
駅まで歩く途中、友人から電話がかかって来た。
緩い坂道を下っていると、夏休みの子供達もたくさん見える。
俺はと言うと、大学で出された課題のレポートをやりに友人と待ち合わせているのだ。
誰かの家やファミレスでやるよりも集合しやすい場所だったからだ。
資料を集めるにも、集中するためにも大学の図書館が一番いい。
「…え?まだ食ってないけど。うん、いいよ。」
ちょうど昼ご飯の時間だということで、図書館に行く前に大学のある駅で待ち合わせることにした。
大学の近くには商店街や飲食店が多数あって、わりと便利な街だった。
あまり金のない俺達学生が行きやすい店もたくさんあって、俺としては結構気に入っている。
「おー、千秋遅ぇよ。」
「悪い悪い、電車が遅れて…。」
今日のメンバーは4人。
それが5人になることもあれば、3人になることもある。
もちろんその中に俺がいないこともある。
都内かその近郊出身なのは俺ともう一人だけで、地方出身の皆は生活のためのバイトが忙しくてスケジュールが合わないからだ。
そのもう一人もバイトをしているし、俺も時々単発のバイトをすることがある。
それは普通の、ありふれた大学生の生活だった。
「しっかし暑いな〜、早く行こうぜ?」
最後に来たのは俺だったようで、皆揃ったところでぞろぞろと歩き出す。
暑さを凌げる屋根もない駅前で、一番最初に来た奴は既にぐったりとしてしまっていた。
それもそのはず、そいつは寒い地方出身で暑さにめっぽう弱いらしい。
「今日はどこにする?」
「あそこでいいじゃん、いつもの。俺焼肉定食ー♪」
「えー?こんなクソ暑い時に焼肉かよ?」
「バッカ、暑いから食うんだろうが。」
「そーそー、スタミナつけねぇとな。」
それは他愛のない会話だった。
学生がよくするもので、こうして皆で街を歩くのもよくある光景だ。
いつもの、というのは一番よく行く定食屋だ。
安い定食がメインで、食べるものも皆それぞれだいたい決まっていたりする。
「千秋は?どこがいいんだよ?」
「へ?俺…?」
突然自分に向けられるとは思ってもいなくて、俺は思わず間抜けな声を出してしまった。
こうして誰か一人に聞いて、そいつの意見を採用することも多いのだ。
「俺…は、どこでもいいけど…。」
「またかよ、お前そればっかじゃん。」
「ごめん、急に思い付かなかったんだって。」
「まぁいいや、じゃあどうすっかな…。」
別にこの友人達が嫌いなわけではない。
嫌だったら一緒にいないし、むしろ俺にとっては大事な友人だ。
一緒にいても疲れないし、気楽な男友達というところだ。
ただ一つ、俺はこの友人達に言えないことがある。
それはどこの店に行きたいとか、そういう自分の意見だとかではない。
こういう話をしている時に俺が考えている内容のことだ。
「あ、じゃああそこ、春に出来たばっかのカフェがあんじゃん?」
「えー?高ぇだろあんなとこ。」
「いや、こないだ行ったんだけど全然だぜ?見た目が綺麗でお洒落過ぎるだけだって。」
「行ったって誰とだよ?」
「え…、まぁそのあれだけど…。」
「あれってなんだよー?さては女だな?」
この年頃と言えば、そういう話題に敏感なのは当たり前だった。
大学内でも外でも、女というものを見かけると目を輝かせてその姿を追い掛ける。
サークルなんて好みの子がいるところを選んだりして、道を歩けばどうやって声を掛けるか考えて…そう、俺以外の奴は。
「んじゃ入ってみよーぜー。つぅか暑いからもうどこでもいいわ。」
「仕方ねぇ、伊原の女の話はそこでってことで。」
「俺の話はいいって。」
俺はそんな皆の会話の中に入ることが出来なかった。
クールぶっているとかそういう問題じゃなく、入れない理由があるからだ。
忘れられないのは、そのことだ。
俺が忘れることが出来ない、二年前に好きだった奴のこと。
「千秋何ぼーっとしてんだ?行くぞ。」
「…あ、うん。」
思い出して泣きそうになる寸前で、友人の声によって現実の世界に引き戻された。
一体いつになったら俺は、皆と同じような会話が出来るのだろう。
忘れることが出来ない限りと言うならば、俺は一生出来ないだろう。
それでもいい、俺はあいつと約束したんだ。
今度出会う時まで忘れない、ずっと俺が覚えていると。
それが死んだ夏生に対する俺の思いの証だと、俺はこの日まで思っていたのだった。
俺が夏生に会ったのは、二年前の夏のことだった。
腰の悪い祖母を心配した両親に言われて、祖母の住む田舎を訪ねた時のことだった。
煙草を買いに近くの自販機まで行って、不思議な少年と出会った。
夏の闇に紛れてしまいそうなほど透明なそいつは、なんと幽霊だった。
近くで事件に遭って死んでしまったが、肝心の自分の肉体が見つからなかったのだ。
自分の肉体と自分の存在を、誰かに見つけて欲しかったのだと言う。
数日後にその肉体は無残な姿で見つかって、そいつは行くべきところへ行ってしまった。
俺に忘れられない思いを残して。
その幽霊が夏生で、忘れられないのは、俺がその夏生に恋してしまったからだ。
それから一年半後にまた俺は夏生に会うことが出来るのだけれど、もちろん夏生が生き返ったわけではない。
夏生の墓に拝みに行って、やっぱり足のない透明なあいつと会ったのだ。
お願いだから、俺のことを引き摺らないでくれ。
この先ちゃんと好きな人、作ってくれよな。
俺がいなくなったのは、お前のせいでもなんでもないんだから。
その時夏生に言われた言葉を、俺はいつでも思い出す。
まるですぐ近くで夏生が囁いているみたいに、鮮明なあの声までも。
俺だってわかってはいるんだ。
この世からいなくなった人を思い続けることはないということぐらい、わかっているつもりだ。
それは俺にとっても夏生にとっても負担になることだと。
だけど俺は、まだ忘れられずにいる。
夏生に会ったあの夏を、まだこの胸に閉じ込めたまま、心も身体も、あの夏に置いて来てしまったみたいに。
いくら夏生にお願いされても、二年経った今も俺には忘れることが出来なかった。
あまりにも短い恋だったけれど、本気だったから。
生まれて初めてと言ってもいいぐらい、本気で一人の人間を好きだと思ったから。
だから俺は、ずっとこの先も忘れることなんか出来ない。
他の人を好きになることも恋に落ちることもない。
そう思っていたのがこの夏、大きく変わろうとしていた。
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