「溺れる夏」【13】
「あの夏は、幻。」シリーズ 合宿と言う名の飲み会だか何だかわからない会は、何事もなく終わった。
もちろん何事もなかったのは俺達以外の人達だけだ。
俺達…俺と直さんの間はあの一晩で大きく変化を遂げた。
「どうにでもなれ」セックスの最中はそう思ったけれど、実際誰にもばれていないとわかった時にはやはり安堵感に胸を撫で下ろしてしまった。
俺にはまだそこまでの勇気はないのだと思うと溜め息が洩れてしまったけれど、彼は隣でくすりと笑うだけだった。

その合宿から一週間後、再び訪れた土曜日の午前中だった。
まだ薄暗い空の中家を出て、朝一番の電車に乗った。
目指したのは、祖母の家のある田舎だ。


「おや、珍しい人が来たもんだね。」
「ばあちゃん、久し振り。元気だった?」

祖母は相変わらずマイペースで、孫が久し振りに来たというのにさほど驚くわけでもなかった。
二年前のあの夏…の一年後の冬以来だというのにまるでつい最近も来たような言い方だ。
痛めた腰は大丈夫だと言っていたけれど、曲がり具合は前より深くなった気がするのは気のせいだろうか。
きっと気のせいでなかったとしても、祖母がそれを素直に口にすることはないだろう。


「友達かい?」
「あ…、うん、大学の先輩で…。」

前に来た時と決定的に違うのは、俺の隣に誰かがいることだ。
小さい頃に来た時に隣にいた両親とは違う、俺と同じぐらいの年齢と背格好の人。
祖母は見たことのないその人を見て、どういう関係なんだと言わんばかりに一瞬怪訝そうな顔をした。
もちろん大学の先輩というのは本当だし、友達と言って通じないわけでもないと思った。
俺がごく簡単に紹介をすると、祖母もすぐに納得したように彼に向かって皺くちゃの笑顔を見せた。


「はじめまして、夏木です。」
「こんな田舎までご苦労さんだねぇ。」
「大学で植物の勉強をしているんです。須藤くんとはサークルで知り合ったんですけど、この辺りの植物に興味があって今日は無理矢理ついて来たんです。」
「そうかい、珍しいねぇ若いのに。さぁさ、上がって下さいな。」

これは彼の技とでも言うのだろうか…。
あの店で客に見せた業務用の笑顔と饒舌さに、すっかり祖母も信じてしまったようだった。
俺は感心していいのかどうかわからず苦笑いを浮かべて、招かれた祖母の家の中へ進んだ。


「あのさばあちゃん、あの花…俺が冬に遭難しかけた時くっ付いてたやつ、あれ今咲いてるか?」
「あぁ、あれかい?もう夏も終わるからねぇ…。あぁ、少し山に入ればまだあると思うけどねぇ。」

それは俺が夏生と別れて一年後の冬、ここに来た時のことだった。
雪が止んだのを見計らって、俺は夏生の墓参りに行った。
墓前で夏生への思いを呟いていると、俺の祈りが通じたのか、再び夏生に会うことが出来た。
俺はずっと来れなかったことを侘び、好きだと言うことも言うことも出来た。
それを聞いた夏生は会いに来てくれて嬉しいと笑ってくれた。
そして夏生も俺のことを好きだと言ってくれて、キスをしてくれた。
触れるだけのキスだったけれど、俺は物凄く幸せな気分だった。
ただそれはあくまでも幻であって、この世に実在する夏生という人間に会えたというわけではなかった。
その幸福感に浸っていると、次第に俺の意識は薄れて、気が付いた時には吹雪の中で眠ってしまっていた。
目が覚めた時は温かい布団の中にいて、祖母にこっぴどく怒られた。
その時祖母は不思議な顔をして、俺のコートにくっ付いていた花を見せてくれた。
それは小さな白い花で、この地方に夏にしか咲かない花だったのだ。
まるで俺の止まった時間と同じだと思った。
きっとあの夏の忘れ花を、夏生が降らせてくれたのだろうと思った。
俺はあの時薄れていく意識の中で夏生が言った言葉を、今でも一字一句違わず思い出すことが出来る。

…千秋が好きだった。
だからいきたくなかった。
でもお願いだから、俺のことを引き摺らないでくれ。
この先ちゃんと好きな人、作ってくれよな。
俺がいなくなったのは、お前のせいでもなんでもないんだから。

好きだった、いきたくなかった。
今思えばあの時既に夏生の言葉は過去形のものだった。
夏生はちゃんとわかっていたし、受け止めていたのだ。
自分はもうここにはいない、あの夏のことは過去のことだったと。
あの時現れたのは、俺のことを心配してのことだった。
「引き摺るな」そこまではっきり言ってくれたのに、俺は引き摺ってしまっていたのだ。

俺はなんだか情けなくなった。
死んだ人間にこんな心配をかけて、自分の人生まで見えなくなってしまっていたなんて。
夏生がもし生きていたら、笑われていたかもしれない。
それともまた、引き摺るなと怒られただろうか。
それも今は叶わない、幻なのだけれど。









「なんだか昼なのに薄気味悪いね。」

「山に入れば」と祖母に言われて向かったのは、昼でも薄暗い場所だった。
祖母の家から歩いてそれほど遠くないこの場所で、二年前の夏、夏生の肉体はずっと待っていた。
薄気味悪いのは、想像を絶するほどの夏生の恐怖が未だこの地に浮遊しているからかもしれない。
視線を落とした木の根元に幾つか花束や缶ジュースが置かれていて、そこで夏生が待っていたのだということはすぐにわかった。
あれから二年以上経っても、この土地の人々は夏生を忘れたわけではない。
花束の枯れ具合や缶ジュースの錆び具合からして、そう前に置かれた物ではないことがわかる。
この二年の間誰かが置いて行っては取り替え、今まで繰り返して来たのだ。
皆ちゃんと夏生のことを覚えているし、こうして今でも弔いの気持ちを目で見て確かめることが出来る。


「そうですね…。」

俺はそこにしゃがみ込んで、手を合わせて祈った。
どうか安らかにと、花束や缶ジュースを置いて行った人達と同じような気持ちで。


「夏生……。」

名前を呼んでも、もう夏生は出て来てはくれなかった。
バス停で待っている時みたいに、墓前で手を合わせている時みたいに、俺の声に答えるわけでもなく、出て来てくれるわけでもなかった。


「夏生……。」

すぐ傍の伸びた草の合間には、小さな白い花がある。
祖母に聞いて探しに来たあの花だ。
俺はそれを両手で掻き分け掬うようにしながら摘み取った。


「夏……。」

ぶちりという音がして、花の甘い香りに混じって途切れた茎から深い緑の匂いがする。
俺が夏生の名前を呼ぶ声も途切れて、息が詰まる。

これが現実だ。

花をもげばこうして途切れるし、感極まれば俺の声も途切れる。
今俺がもいだ花は、ここでその短い生命を終えてしまった。
あの夏の恋も終わったことなのだ。
そしてこの先、恋焦がれながら夏生の名前を呼ぶこともなくなる。
好きだと言うことも、キスをすることもない。
夏生が俺の前に出て来ることも、もう二度とないだろう。
もう二度と…。


「千秋、見て。」

振り向けば、そこにいるのは夏生ではなかった。
明らかに別人で、夏生とは似ても似つかない、別の人だ。
大きな向日葵を抱えたその人が、自慢げに笑いながらそれを見せている。


「え…?!何?どうしたの…?!」

俺が手に掴んだ小さな白い花とはまるで違う、明るくて、鮮やかで、濃い黄色とオレンジ色が眩しいぐらいの大きな向日葵だ。
それは薄暗いこの場所を一気に明るく照らしてくれるような、俺が閉ざしていた暗い心を照らしてくれるような…。


「え…?」
「え、って…。だってすごい泣いてるじゃん。」
「そ…ですか…?」
「自分でわかんないの?」

本音を言うと、俺は少しだけ悲しくなった。
夏生にもう会えないと思うと悲しくなったのだ。
だけどそれを晴らすかのように彼が現れたから、驚いてしまったのだ。
驚いて、そしてなんだか嬉しくて、自分でもどうしていいかわからなくなった。
今の俺は、初めて経験したことに戸惑って泣いてしまった子供と同じだ。


「ねぇ、どうしたの?」

彼が困ったように笑いながら手を伸ばす。
俺は黙って彼の手を受け入れ、目を閉じながらその体温を感じた。
俺の頬に触れた彼の掌は、すぐにびっしょりと濡れてしまった。
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