「溺れる夏」【14】
「あの夏は、幻。」シリーズ 俺は暫くの間泣きながら突っ立ったまま、彼の掌の温度を味わっていた。
何度も撫でるその細い指の突き出た骨が、頬にぶつかるのが心地良い。


「あのさぁ、俺、言わないから。」
「はい…?」

彼が突然強い口調でそんなことを言い出して、俺は思わず閉じていた瞼を開けた。
目の前には、同じように強い視線を放つ彼がいる。
この手の優しさとはまったく違う人みたいな鋭さだ。


「ドラマとかでよくあるじゃん?墓とかに向かってこの人をもらってもいいかーなんていうやつ。」
「あぁ…。」
「俺、ああいうの嫌いなんだよね。」
「はぁ…。」

俺にはやっぱり、彼の考えていることがよくわからない。
でも決してわかりたくないわけではない。
むしろ彼なりに考えていることを、俺は知りたい。
それが出会った時とは違うところだ。


「だってもしダメだって言われたらどうすんの?」
「え…。」
「ダメだって言われてもこっちもダメなのにさ、どうするって言うの。」
「直さん…。」
「簡単にはいそうですかわかりましたーなんて言えるわけないでしょ?」
「それは……そうですね…。」

唖然としながら見つめる彼の顔は、どこか拗ねているようにも見えた。
それはもしかしたら夏生に対する嫉妬なのかもしれないし、落ち込んでいる俺に対する慰めなのかもしれない。
どちらにせよ俺に対する気持ちは相当なものだと言っている気がして、こんな時なのに嬉しくなってしまった。
今の今まで、夏生の目の前で他の人間のことで嬉しくなる日が来るとは思わなかった。
だけどそれでいいのだ。
それが俺の今で、この世で生きている俺の姿なのだ。


「そろそろ行こうか?」
「あ…、はい…。」

俺は彼から向日葵を数本受け取ると、それを花束と缶ジュースの中にそっと置いた。
彼は黙って見ているだけだったけれど、立ち上がってその場を去ろうとした時、「この場所は昼に来るには寂しすぎるね」と呟いたのがきりきりと胸に滲みた。
彼なりの弔いの気持ちが痛いほどわかったからだ。


「そういえば煙草切れてたんだ、どっか店とかないの?」

薄暗い緑の中を抜け出して、明るい昼の道を歩く。
周りには家がぽつぽつとあるだけで、人一人歩いていない。
今日は土曜日だから、きっと皆朝寝坊をしているのだろう。
ここは俺の住んでいる都会とは違って、時間が流れるのも遅い気がする。


「あ…、それならすぐ近くにちっちゃい店があるんで…。」

来た道とは違う道を俺達は歩いて、田中屋という小さな店を目指した。
そこは俺が夏生と出会った場所で、すぐ目の前には夏生と待ち合わせたバス停がある。
今までは行く気もしなかったのに、不思議だ。
今はこうして普通に彼を連れて行くことが出来るのだから。


「どこにあんの?」
「あ…あれ…?」

細い一本道を歩いて田中屋に着くと、彼が不機嫌そうに見つめながら頬を少し膨らます。
例の自販機はもうなくて、地面には撤収された跡がある。
元々ボロボロであるかないかわからなかった田中屋の看板も、今は確実になくなっている。
そして目の前のバス停もベンチも…。
残ったのは自販機と同じような錆びれた跡だけだ。
ここにありました、と過去の存在がはっきりわかる古い跡。
駅から祖母の家まではタクシーを使ったから、今ここに来るまではわからなかったのだ。


「あのすみません、ここにあったバス停は…。」

タイミングよく店の中から人が出てきたので、俺は迷うことなく声を掛けた。
俺の祖母と同様腰の曲がった老婆で、おそらくこの田中屋の奥さんだろう。


「バスは路線が変わったんだよ。ほらあっち、見えるだろう?新しい道路が出来てねぇ。」
「え…、そうなんですか…?」
「今年の春にねぇ。うちはバスのお客さんでもってたもんだからねぇ。ここももうすぐ取り壊すんだよ。」
「そうですか…。」

老婆の皺くちゃの手が指す方向には、広くて綺麗に舗装された大きな道路が見えた。
目と鼻の先と言うほど近い場所で、バスは新しい道を走っているようだった。
俺がその新しい道路をはっきりと確かめると、老婆は寂しそうに笑って店の中へと消えて行った。


「コンビニ…。」
「え…?」

俺は目の前のこの事実を自分に重ね合わせて見ていた。
夏生がいなくなって止まっていた自分と、夏生がいなくなっても生きていく自分を。
夏生がいなくなっても、夏生以外はこうして変わっていくのだと。
そして変わらないものは思い出として俺の中にしまっておくのだと。
二つ並んだこの道路みたいに、俺の中で別の場所で、別のものとして存在し続けるのだ。


「コンビニに行きませんか?」
「え?何?コンビニあんの?ならそっち行けばよかったじゃん。」

近くにコンビニが出来たと祖母が言った時、俺は心ここにあらずの状態で適当に相槌を打った。
俺にはもうどうでもいいことだと思っていたからだ。
だけどあの時からすべてはちゃんと動いていたのだ。
動けなかったのは、俺だけだ。
そして俺を動かしてくれたのは、隣にいる直さんだ。


「直さんあの…、手、いいですか…?」

突然何を言っているんだ。
男同士で手を繋ぐだなんてバカなことを言って、そんなことが出来るわけがないだろう。
普通に考えればそう責められるところだ。
だけど俺はわかっていた。


「なんか暑くなってきたね。」

もうすぐ空の天辺まで昇りつめようとしている太陽に目を細めながら、彼は俺の手を取ってくれることを。
持っていた向日葵を持ち替えて、俺の手を強く握ってくれることを。
そして俺はもう一度確かめるようにその手を握り返すことも。


「そうですね…。」

俺はしっかりと握ったこの手を、離したくないと思った。
頼りないような細さだけど芯のある強い彼の手を、いつまでも離したくないと思った。
彼のことはまだわからないことだらけだけど、それはこれから自分の手で掴んでいけばいい。
だって俺は生きているんだから。
いつ何が起こっていつ終わるかはわからない。
だけど今俺は、この世に存在しているのだ。

だから今はこの世で精一杯、この恋に溺れるだけだ。
この夏が終わっても、俺は直さんという人に溺れ続ける。
ただ、それだけだ。




END.



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