「溺れる夏」【11】
「あの夏は、幻。」シリーズ
何も言わずに二人で並んで座ったまま、どれだけの時間が過ぎたのかはわからなかった。
物凄く長いような気がしたけれど、それは気持ちの問題でそう感じているだけで、実際の時間にしたらたいした長さではないのかもしれないと思った。
何から切り出そうか、それすら俺にはわからなかった。
隣に座る彼もまた、黙ったままだ。
その彼の頬は先程よりも赤く腫れ上がってしまっている。
それならとにかく引っ叩いてしまったことを謝ろうか。
いや、でもあれは完全に彼が悪いとは言えないが、どちらかと言うと彼の方が悪いような気がする。
確かに俺が突然話した内容をわかってもらおうという方が無理だけれど、あんなことを言わなくても…そう思うのは俺の我儘なのだろうか。
それならばまったく関係のない話でもした方がいいのだろうか…。
「俺さぁ、どうやらマゾみたいなんだよね。」
「は……?」
沈黙を破ったのは彼の方だった。
今までのやりとりなんかぶっ飛んでしまうぐらい、それは過激で突拍子もない台詞で。
「さっきみたいに叩かれるとさ、なんか気持ちよくなっちゃうんだよね。」
「あ…あの…?」
俺にはわからない。
どうしてこんな時にそんな話をするのかわからないんだ。
彼の考えることや発する言葉の意図は、出会ってからどれだけ時間が過ぎてもわからないままだ。
「綺麗な顔に傷が付くのがいいんだってさ。自分で綺麗だなんて全っ然思わないけど。」
「あの…それは…。」
「俺、結構バカなんだよね。結構っていうかかなりかな?夢中になっちゃうの。」
「そんな…。」
俺が彼に出会った時も、まず思ったのは綺麗な顔だということだった。
夏生に似ていると思ったのは、その端整な顔立ちと色の白さからだった。
彼はもしかして、そう言われるのが嫌だと言うことなのだろうか?
「ホントにバカだって。恋愛ばっかりになるからね、俺。」
「それは…。」
彼の言う「夢中」や「ばっかり」がどの程度なのかはわからない。
だけど彼が自分で言っている通り、普通よりそうなのはわかったような気がした。
だから初めて会った日、あの家に違和感を覚えたのだ。
冷蔵庫に何があるか、水があるかどうかもわからない、生活感のない部屋と彼自身に。
聞いてみなければはっきりとはわからないけれど、あの時恋人と別れてそんなに経っていなかったのではないだろうか。
それで生活することも忘れてしまっていたのではないだろうか。
様々な憶測をしてしまう俺の中を今占めているのは、明らかに目の前にいる彼だった。
「あのさ、言っていい?」
「はい…。」
彼は後ろポケットから煙草を取り出すと、自分が咥える前に俺にも一本差し出した。
俺は黙ってそれを受け取り、自分の口に運ぶ。
もう二年もやめていたのに。
祖母にももう吸わないと宣言したのに。
夏生とのことがあってもうやめようと決意して、実行だって出来ていたのに…。
なぜだか俺は彼の手を無視することが出来なかった。
無視をしてしまったら、彼が酷く悲しい顔をしそうな気がしたから。
「俺、千秋のこと好きだよ。」
「は……?!…げほっ、ごほっ、げほっ!!」
「え?何?大丈夫?!」
「何って…げほっ、だって突然そんな…!」
さっきの台詞とまったく関係がないじゃないか。
まさかここでそう来るなんて思う奴なんていないだろう?
久し振りだったせいもあって、俺は思い切り煙を吸い込んで咽せてしまった。
「あの時さぁ…、腕を掴まれた時…。」
咽せ続ける俺の背中を彼の細い手が撫でる。
その手の温度は服を通してもわかるぐらいで、想像以上に高かった。
耳元にかかる吐息も、時々触れる髪の毛の先までも熱い。
夏生とは…全然違う温度だ。
彼と夏生は別人なんだ…。
「もっと、って思った。もっと俺の手を掴んで欲しいって。」
「直さん…。」
「俺の腕を掴んで離さないで、愛して欲しいって思った。」
「あの、俺…俺は……。」
俺は心の奥底から動揺した。
大きく揺れるあの波に飲み込まれて、また溺れそうになる。
あまりにも真っ直ぐな彼の言葉と瞳に、一気に堕ちていきそうだ。
「俺はその夏生じゃない。俺を見てよ、千秋。」
「あ……。」
堕ちてもいい。
飲み込まれてもいい。
溺れてもいい。
溺れ続けても…。
ぎゅっと手を掴まれた瞬間、そう思ってしまった。
その強さも何もかもが違う。
彼の言う通り、彼は夏生ではない。
直さんは直さんであって、他の誰でもないのに。
俺が望んでいたものは、夏生の代わりなんかじゃなかったはずだ。
一年前に奇跡的に会えた時、夏生も言っていた。
…お願いだから、俺のことを引き摺らないでくれ。
この先ちゃんと好きな人、作ってくれよな。
俺がいなくなったのは、お前のせいでもなんでもないんだから。
そう言っていたじゃないか。
あの時きっと夏生は、俺がこうなっているのをわかっていてそう言ったのだ。
忘れないことと、引き摺ることは違う。
俺は忘れないと言ったし、夏生も忘れないでくれと言った。
だけどそれはそのことだけに囚われて他をすべて犠牲にすることなんかではなかった。
俺は夏生がいなくなっても生きていかなければいけない。
その生きていく上で夏生に囚われるのではなく、思い出にすればいいのだ。
思い出にすることは、忘れることなんかじゃない。
むしろ忘れないように思い出にするのだ。
その思い出を胸にしまいながらも、俺は俺でこの世界で生きていけばいい。
時々夏生のことを思い出しながら懐かしさに浸ればいい。
彼を引っ叩く前に感じた不思議な感覚はこれだ。
あれは俺の中で、夏生が思い出に変わった瞬間だったのだ。
「千秋が好きなんだ。」
俺はなんて酷いことをしてしまったのだろう。
彼の向こうに夏生を見て、その理想を勝手に押し付けた。
俺の綺麗な理想に犯されるのが彼は嫌だったのだ。
だからあんなに顔に似合わないことを言ったりした。
俺の期待を裏切るように彼は意外なことをやってのけた。
しかもそれは俺が勝手に意外だと思っていただけで、彼自身は普段通りだったに違いない。
彼が必死で俺に送っていた「俺を見て」という合図だったんじゃないか。
「ごめんなさい…。あの俺、すみませんでした…!」
「何?突然。」
「酷いことして本当にすみません…。」
「謝るぐらいならさ…。」
俺はこの時初めて、彼の行動を予想することが出来た。
頬に触れた熱い手と熱い視線が俺に容赦なく向かって来る。
重なった唇から俺のすべてを吸い取られてしまいそうで、クラクラと激しい眩暈がした。
「俺はそんなに綺麗じゃないよ。普通にセックスもするし、男のもんしゃぶるのも好きだし。淫乱だってよく言われる。」
「そんなこと自分で言わないで下さいよ…。」
「これが俺なんだよ、千秋。」
「直さん…。」
もう彼の言葉の意図だとかを考えるのはやめようと思った。
考える必要はもうないと思ったし、考える余裕もなかったのだ。
俺は一度離れてしまったその唇が欲しくて堪らなかった。
平気でそんなことを言ってしまうその唇をどうにかして塞ぎたくて仕方がなかった。
彼の身体をもう一度掻き抱きたくて。
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