「ス ト イ シ ズ ム」【5】
「マ グ ネ テ ィ ズ ム」シリーズ 自宅に戻るとタイミング良くというか悪くというか、電話が鳴った。
表示された電話番号を見て取る気を一瞬失くしたが、取らなければそれはそれで面倒だと思い、仕方なく取った。


「あぁ、わかってるよ、忘れてないって。」

電話は思った通り、父親からだった。
病院勤務の父親は時間が不規則で、こうして変な時間に突然電話してくることが多い。
この日はまだましな方で、いつもは自分が出られない時間に掛けて来て留守電にメッセージが入っていることがほとんどだった。
電話の向こうの声は疲れ切った様子で、多分大きなオペが終わって一段落して病院から掛けているんだろう。
忘れていないかと念押ししたのは、同じく病院勤務の兄の結婚式のことだった。
優秀で期待されていた兄は、その期待通り父と同じく医者の道に進んだ。
自分はと言えば、そんな不規則な生活が嫌だったからという理由でこの仕事を選んだ。
自分の手に人の命を預かることも自信がなかった。
早い話が、それも面倒なことに巻き込まれたくないということだった。

父親は大病院の教授で、当然息子も将来を期待された外科医といえばいくらでも寄って来る女はいる。
加えて兄は性格も文句の付け所がないほどよかった。
自分が医者にならないと言った時に父親と大喧嘩になって庇ってくれたのは兄だったし、その実家を出る時に加勢してくれたのも兄だった。
お陰であまり確執を残さず実家を出られたし、こうして今でも電話で連絡を取り合ったりもしている。
自分としては万々歳な結果だった。

ただ一つ、万々歳ではないことは最近のあれだ。
保健医になんかなったせいで、あの五十嵐と出会ってしまったことだ。
おまけに一人で家にいる時に、そのことを考える時間が長くなった。
考えたくなくても、あの五十嵐の言動や行動が脳内に蘇ってしまうのだ。
今日のこともそうだった。
「もう終わった」そう思って楽になったかと思えば、一人になると思い出して仕方がない。
当の五十嵐自身のほうが終わったと思っていたら、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。


「……チッ…。」

それがいい思い出ならよかった。
だけど思い出すのは腹が立つことばかりで、その悔しさに何度も舌打ちをした。
抱いてくれと言っておきながら、いざ抱こうとすると拒む。
それなら最初から言うな、最初から誘うな。
こんなに人を振り回して…。
一体何が目的だったのか、わけがわからない。
今ここに五十嵐がいたら、問い質してやりたい。
会いたくないのに問い質したいだなんて、矛盾もいいところだ。


「疲れたな…。」

ぼそりと呟いて、大きなソファへ横たわった。
実家を出る時、過保護な兄と母親がインテリアはいい物を一通り揃えてくれた。
しかも今の仕事で暮らすのには豪華過ぎるこのマンションを、父親は購入して与えた。
言ってみれば、医者にはならなくとも息子を手元に置いておきたかったんだろう。
あの家から逃げられないように。
籠の鳥と同じだ、そう思うと自嘲したくなった。
そうして深呼吸をして天井を見たまま、いつの間にか寝てしまっていた。






ソファで寝てしまったせいか、翌朝は身体のあちこちが痛いまま学校へ向かった。
普段は自分の車で通勤していたが、そんなに遠い距離でもないので、電車通勤にすることもあった。
その車も父親がマンションと同時に買い与えたものだった。
今日はその身体が痛いせいで、家を出る寸前に電車で行くことに決めた。
いつもより早い時間に学校に着いてしまうと、 自分の仕事場である保健室の鍵を開けて入った。

今日もまた長い一日が始まる。
具合の悪い生徒や怪我をした生徒が来ては手当てをする。
時々女生徒と世間話をして、そして何事もなく終わる。
そう望んでいたのは自分だったのに、この物足りなさは何だろう。

コンコン、と小さくドアをノックする音が聞こえた。
もしかして…と嫌な予感を振り切って返事をすると、予想したのとは違う人が入って来た。


「おはようございます、井上先生。」
「三崎先生…、どうしたんですか?こんなに朝早く。」
「ちょっと…先生にお話があって…。」
「はぁ…。どうぞ、その辺に椅子あるんで。」

「ありがとうございます」と小さく呟いて、彼は自分のデスクの傍に座った。
こんなに近くにいても最近ドキドキもしなくなったのは、もう彼に対して恋心もほとんどなくなってきたということなのだろう。
この場所で無理矢理犯そうとまでしたのに。
そこまで好きだったのに人の気持ちは変わるものだと、身をもってわかった感じがした。


「先生に話していいのか迷ったんですけど…。」
「はい。」

話というのは恋人である浅岡の話だろうか。
それとも自分に対してのことだろうか。
それはないな…と思いながら、彼の話に耳を傾けた。


「五十嵐のことなんですけど…。」
「え…。」
「昨日の午後、授業が終わって…、僕に言って来たんです。」
「何を……?」

心臓が勢いよく跳ね上がる。
昨日の午後というと…五十嵐にキスをして身体に触れた後だ。
この動揺をなんとか彼に気付かれないようにしなければ。
額から冷や汗まで出そうになっていたのに、何事もなかったように話の続きを促した。


「先生はいいですね、あの人に思われて、羨ましいです、って…。」
「そんなことを言ったんですか。」
「僕と浅岡のことを…知っていたみたいで。バラすとかは言わなかったんですけど。」
「まぁ教師を脅すなんてしないでしょう普通は。」

その普通はしない脅しに遭っていたのはこの自分だ。
彼とのことを皆にバラすと言われて、抱けと言われて。
散々振り回されてようやく終わったと思ったら、今度は彼の口からその名前が出るとは…。


「先生は浅岡のクラスって知ってました?」
「あぁ、えっと…すいません…。」
「F組なんですよ。」
「え…!っていうことは…。」
「しかも五十嵐は出席番号が浅岡の後ろで、新学期は…席替えの前は後ろに座っていたんです。」
「そうなんですか…。」

絡まっていた心の中の糸が、少しずつ解けていくような気がした。
五十嵐が言っていたことが解けて、今度は綺麗な結び目を作って行く。
ある人のことを見たり考えると胸が痛くなると言ったことも。
よく見ると三崎先生に感じが似ていないかと言って誘って来たことも。
自分も失恋をしたと言ったことも。
そして彼に言った台詞も。
色々なことを脳内で結びつけて行くと、おのずと答えは出て来る。


「僕はどうしたらいいんでしょう…。」
「どうもしなくていいと思いますよ、五十嵐が浅岡を好きでも浅岡は先生が好きなんだから。」
「でも…、僕は…。」
「先生、大丈夫ですよ。失恋したぐらいじゃ参りませんって、今時の高校生は。」

三崎という人間は本当に優しい人なのだと思う。
そんなことは放っておけばいいのに、自分のことのように心配をして。
あの五十嵐の言動をいちいち気にしていたら、身が持たないのに。


「だけど先生、なんで俺に…?」
「あ、すいません…。井上先生は五十嵐と仲が良いのかと思って。」
「仲が良いって…。そんなことないですけど…。」
「昨日も五十嵐のことを聞いて来たでしょう?浅岡にも聞いたらよく保健室の近くで見かけるって言ってたんで。」

心臓の動きが速度を上げた。
その五十嵐にとんでもないことを言われ、振り回されていたことを知られてはいないだろうか。
昨日の彼の授業の前に、ここでしたことまで知られていたら…。
もしかして五十嵐がここに来る時、わざと浅岡に見つかるようにしていたとか…。
しかしこれだと、五十嵐が彼と浅岡を壊すことにはならない。
五十嵐は一体何が目的だ…?
綺麗に結ばれていっていた糸が、また絡まり始めてしまった。


「あの…、井上先生…?」
「あ、あぁ…すいません、ぼうっとして。」
「本当に大丈夫なんでしょうか…。」
「当たり前ですよ、三崎先生が気にすることはないですよ。」

彼はいまいち腑に落ちない様子で、溜め息を吐きながら頷いた。
この人にはできれば苦しんで欲しくない。
それは自分なりの気遣いだった。


「俺の方からなんとかしておきますから、心配しないで下さい。」
「はい…、ありがとうございます井上先生。」

どうしてこんな台詞が出たのかわからない。
なんとかする、そんな面倒なことは御免だったのに。
彼のためでもあるけれど、一番は自分のためかもしれないと思った。
この糸を綺麗に結ぶため、これ以上五十嵐のことで悩まないため。
それしかないと思っていたのに、自分の中で五十嵐に対する別の感情が既に生まれていることに、この時はまだ気付かなかった。
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