「ス ト イ シ ズ ム」【3】
「マ グ ネ テ ィ ズ ム」シリーズ
今思えば、五十嵐という生徒は初めて会った時から少し変わっていた。
漆黒に近い艶やかな髪に同じく漆黒に近い瞳の色で、
幼さの残る顔の造りなのにどこか大人びた表情が窺えることがあった。
男にしては長めの睫毛と、艶があって血色のいい唇が、なぜか妙な色香を漂わせていた。
初めて会ったのは約二年前。
自分がこの学校に保健医として就任し、五十嵐がこの高校に入学して来た4月だった。
一階にある保健室からはちょうど中庭の桜の木が見えるのだが、その場所に五十嵐は一人で佇んでいた。
とは言えもう4月も半ばを過ぎていて、桜の花はすべて散ってしまっていた。
ぼうっとしながらその木を眺める生徒がいることに気付くと、具合でも悪いのかと職業柄声を掛けたのだった。
「大丈夫です、桜を見ていたんです。」
微かに笑みを浮かべながらそんなことを言う五十嵐に「それは大丈夫ではないだろう」そう思ったのがまず初めだった。
特に熱もないようだったし本人はしっかり立っていたので、あまり関わらないほうがいいと判断してすぐにその場を後にした。
自分が去った後も、暫く五十嵐はそこに佇んでいたけれど。
それから何度か、具合が悪いと言って保健室に来たことはあった。
その時記憶する限りでは、そこまでおかしなことは言わなかったはずだ。
一体あの春に出会った時に言った言葉は、なんだったのだろう…。
聞けば五十嵐は学年でも成績はトップを誇るらしい。
学年で一位はもちろんのこと、全国のテストでも上位に入ることが度々あり、「あの生徒は素晴らしい」という話を教師の間で時々耳にした。
なるほど頭のいい人間というのはどこか変わっているという話はよく聞く話だ。
そう思ってそれをこじつけのように自分を納得させていた。
今回のことも、五十嵐の考えた遊びか何かに違いない。
勉強に疲れたかあるいは勉強に飽きたか、何か他の遊びをしたかったのだろうと思った。
そうでなければ、あんなことを言うはずがない。
男が男に、仮にも教師に向かって抱いてくれだの何だのと。
そう思わなければやってられないというのも事実だ。
生徒一人の言動にいちいち反応していたらきりがないのだ。
あれから三日が過ぎて、五十嵐とは一度も顔を合わせていなかった。
やはり何かの遊びだったのだろうと思い、内心ホッとしている自分がいた。
書類整理を終えて太陽が空の真上に来た頃、授業の終了を告げるチャイムが校内に響いた。
昼休みも他の教師に用がない限りは、ほとんど保健室で過ごす。
具合の悪い生徒が来ることもよくあるから、常に対応できるようにしているのだ。
それにここにはソファもベッドもあるし、何より他の教師がいないのがいい。
第二の自宅と言うのは言い過ぎかもしれないが、誰もいない時はかなり寛ぐことができる。
この日は4時限目の時点で保健室には生徒は誰もいなかった。
具合の悪い人間の手助けをするのが自分の仕事ではあるのだが、健康に越したことはない。
ちょうど小腹も空いていたので、校内にある購買まで昼食を買いに出向くことにした。
長年愛用しているダークブラウンの長財布を白衣のポケットに突っ込み、今日は何を食べようか、そんなことを考えながら歩いている時だった。
「井上先生…。」
「三崎先生…。」
向こうから歩いて来る人が、自分が好きだった人だということは、遠目でもすぐにわかった。
長い廊下の窓から差し込む日射しに揺れる白衣の大きさや、透けるような髪の色や俯き加減な姿勢。
諦めるには酷な職場だとも思った。
だけどもう絶対にこの人を手に入れることは出来ないということはわかっている。
「あの…、井上先生、この間はすみませ…。」
「謝らないで下さいよ。」
「あ、でも僕…。」
「謝られると俺、惨めじゃないですか。」
浅岡でないとダメだと告げられたあの日から、彼とは一度も会話という会話をしていなかった。
あの後の最初の会話でこんな風に彼が謝ってくるのは、想像が出来ていたことだった。
実際謝られるとやはり惨めな思いになるものだが、彼が気を遣わないように優しく笑いかけながら答えた。
「あっ、ごめんなさ…。」
「また謝ってますよ?」
本当に可愛い人だと思う。
この人が自分の恋人だったなら、精一杯甘やかして可愛がるのに。
それでも彼はその自分とは逆の、冷たく酷い態度を取る浅岡を選んだ。
それほどまでに浅岡という生徒には魅力があったのだろう。
それならもう酷でも惨めでも、諦める以外他はない。
「あ…、先生、二年…確かF組って先生担当してましたよね…?」
「えぇ、あの…確かに僕が担当しているクラスですけど…。」
「そのF組には五十嵐っていう生徒が……いますよね…?」
「はい、とてもできる生徒ですよ。時々こっちがびっくりするような質問してきたり。あ、五十嵐がどうかしたんですか?」
とてもできる、それは他の教師が言っていたのと同じだ。
彼に対しては特に妙な態度は取っていないということだろう。
できる生徒がいるのは、彼のような一生懸命な教師にとってはやり甲斐があるものだ。
「いえ…あの、三崎先生、今日って空いてます?よかったらご飯でも…。」
「えっと…、ごめんなさい今日はその…。あの…。」
「浅岡ですか?」
「いやっ、あの…!ご、ごめんなさい……っ!」
自分と三つしか歳が違わないのに、彼のこの初々しさには驚いてしまう。
その歳で今まで恋人がいなかったわけでもないだろうに、まるで初めての恋をしている少年みたいだ。
これも浅岡がさせている表情なのだと思うと、少しだけ胸が痛んだ。
「いえいえ、また今度誘わせて下さいね。」
「すみません…。」
真っ赤になって下を向いて謝る彼に罪などはない。
それにこんなに浅岡が好きだと見せつけられたなら、すぐにでも諦められるような気さえするのだ。
いや、諦めてはいるけれど完全に振り切る勇気がないだけだ。
それができたら、今よりもっと、ずっと楽になれるはずだ。
まずはその第一歩というわけではないが、少しだけ冗談めいたことでも言えるようになろうと思った。
「先生、夢中なのはいいですけど、バレないように気をつけて下さいね?」
「……は、はいっ、すみません…っ!」
真っ赤な彼の耳の傍に唇を近付け、からかうように小さな声で言った。
彼は慌てたようにまた謝って、最後に「ありがとうございます」と言った。
これでいい、これできっと忘れられる。
忘れなければいけないのだ。
出来なかった勇気を、心に決めて歩き出した。
「先生、可哀想ですね。それなら僕が付き合いますよ、食事。」
保健室に帰ると、最も会いたくない人物の声が奥から聞こえた。
よりによってこんな時にどうして…。
なぜ五十嵐は俺の神経を逆撫でするようなことをわざわざするんだ?
購買で買って来たパンを、その怒りにまかせてデスクに叩き付けるようにして置いた。
「君は盗聴が趣味なのか?」
「聞こえただけです。」
「屁理屈はやめたほうがいい。」
「本当のことです、僕は通りかかっただけですから。」
ああ言えばこう言うというのはこのことだ。
最近の子供というのは質が悪すぎる。
何よりもまず、ベッドに座った五十嵐の態度の大きさが気に入らない。
「ここは具合が悪い生徒が来るところだ。」
「具合悪いですよ、僕。」
「嘘を吐くな、そんなにいい顔色で。」
「先生、僕の顔そんなに見ててくれたんですか?」
五十嵐という人間と話しているととても苛々する。
何を言っても揚げ足を取るようにして返してくるし、その見つめてくる視線の熱さが痛くて全身に鳥肌が立ちそうだ。
「先生、僕付き合いますよ。食事の後も、朝まででも。」
「………っ。」
その人を馬鹿にしたような口調が気に食わない。
その人を馬鹿にしたような、だけど熱い視線が鬱陶しい。
もう傍に来ないでくれ、関わらないでくれ。
一体何が目的だと言うんだ、五十嵐という人間は…。
「もしかして恐いんですか?」
「…何がだ。」
「本気になってしまった…、ん……っ?!」
「いい加減にしろ。」
その台詞を最後まで五十嵐には言わせなかった。
恐いんですか、だと?
恐いなんてことがあるわけがない。
本気になってしまったら、だと?
本気になんかなるわけがない。
恐いかどうか、本気になるかどうかを試したかったせいだ。
それ以外に理由なんかない。
今、五十嵐に激しいキスなんかしてしまっているの理由なんてものは。
一度してしまうとまるで何かに火が点いたように、五十嵐の唇を貪っていた。
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