「ス ト イ シ ズ ム」【2】
「マ グ ネ テ ィ ズ ム」シリーズ 「さて…と。」

一つ溜め息を吐いて、デスクに載った書類を一枚ずつ片付けていく。
特に忙しいというわけでもない日はこうして溜まった書類を処理したり整理したりして、一日の大半を過ごしている。
訪ねて来た生徒が物凄く具合が悪く病院に連れて行ったりすることは頻繁にはなくて、
だいたいがここのベッドで休んで元気になるなり早退するなりに落ち着く。


「…井上先生?」

ふとカーテンで仕切られた奥から、自分を呼ぶ声がした。
あまりにも静かだと寝ている生徒がいることを、こうしてたまに忘れることもある。
この日もいつもと同じように、もしかして来た時よりも具合が悪くなったのかと心配になり、カーテンをゆっくり開けた。


「聞きたいことがあります。」
「どうした?何か変わった症状でも出て…。」
「症状…なのかな…。」
「先生でよければ言ってみてくれ。ただし医者じゃないから全部はわからないけど。」

カーテンの向こうのベッドには、男子生徒が一人ぽつんと横たわっていた。
被っていた布団を自ら捲って起き上がったその五十嵐という二年の男子生徒は、先程胸が苦しいと言ってここへ来た。
それなら病院へ行くことを勧めたが「ここにいれば大丈夫」だと少々理解し難いことを言って、さっさとベッドに横になってしまったのだった。


「ある人のことを見たり考えると、こうなるんです。」
「こうなるって…、さっきの…胸が苦しいってことか?」
「そうです。先生、どうしてかわかりますか。」
「そ…れは…。」

参ったな…。
こういうことに疎い高校生っていうのもまだいるもんなんだな…。
さすがにこの歳だったら初恋ぐらいは経験しているものと思っていたが…。
特に最近の若者はそういったことが早いなんてよく言われているんだ、知らない方が珍しいぐらいなのに。


「先生ならわかると思うんですけど。」
「……??なんだそれは。」
「先生も同じような立場だと思うから。」
「…どういう意味だ?」
「先生、僕でどうですか?僕じゃ相手になりませんか?」
「何を言っているんだ君は…。」

まったく、どこが疎い高校生だ。
自分の周りにいる人間の中で一番敏感と言っても過言ではないじゃないか。
五十嵐の口から次々零れる言葉に、心臓が跳ね上がる程の動揺を覚えた。


「僕と付き合ってみませんか。」
「き…、君は生徒…その前に男だろう?そんなことができるわけ…。」
「でも三崎先生も男ですよね。」
「な……!」

嘘だ…!!
絶対に誰にもそのことまではわかるまいと信じていたのに。
自分の心臓が激しく脈打つ音が、耳まで響いている。
だけどそれは紛れもない事実で、更に五十嵐の言葉が鋭い矢の如く突き刺さる。


「僕、よく見ると三崎先生に感じが似てませんか?」
「だとしたらどうだと言うんだ君は。」

思わず視線を向けたその顔は、確かに彼と系統は同じかもしれない。
いわゆる可愛い系だとか、女っぽい顔つきだとかいう系統だ。
だけどそれはあくまで似ているとかそういうことで、本人そのものなわけではないのだ。
それをただ感じが似ているからと言って付き合えとでも言うのか。
今時の高校生は一体何を考えているのか…。


「僕も失恋したんです。」
「だからどうしたって…。」
「僕のこと三崎先生だと思って抱いて下さい。僕もその人だと思って抱かれます。」
「馬鹿げたことを言うもんじゃない。」
「馬鹿げてますか?いい提案だと思ったんですけど。」
「馬鹿馬鹿しい案だ。今のは忘れてあげるから、二度とそんなことは考えないように。」

何がいい案だと言うんだ…。
人生や恋に疲れた大人が言うならまだしも…、いや大人だからと言って賛成はできないが、
こんな…まだ子供と言っていいぐらいの高校生がそんなことを口にするとは。
本当におかしい世の中になったものだと実感してしまう。


「先生、取引しませんか。」
「取引?」
「先生が僕と付き合ってくれるなら、ここで三崎先生を犯そうとしたことは黙っていてあげます。」
「…教師を脅す気か……?」
「脅しなんかじゃないですよ。どうします?」
「ふざけるな…!そんなことが通るとでも思っているのか君は!」

まさかそんなことまで知られてしまっているとは思わなかった。
それこそ彼との恋愛に悩んでいる頃、この保健室で彼を犯そうとしてしまった。
浅岡と彼がそういうことをしているとわかって、嫉妬でどうにも自分を止められなくなってしまったのだ。
あの時は彼に夢中で、みっともないことだがそれは事実だ。
すぐに浅岡が来てそれは未遂に終わったが、五十嵐もこの近くにいて見ていたとでも言うのだろうか。
思わず絶句しそうになった俺を見て満足気な顔をして、挙げ句の果てに調子に乗って取引だと…?
これを脅しではなく何と言う…?
しかしここで怯んでは大人として、教師として示しがつかない。
これは教師を馬鹿にして遊んでいるのだ。
こちらがどこまで冷静でいられるか、試しているのだ。
それ以外に、五十嵐がこんなことを言い出す理由がどこにある?


「たかがセックスですよ?先生は突っ込むだけでいいんだし。」
「君はどういう教育を…。」
「さぁ?性教育ならいくらでも先生がして下さい。僕はいつでもいいですよ。」
「…離せ……っ!」

襟首を掴まれて、ベッドの上の五十嵐と急接近した。
耳元で囁く艶めいたその声が、鼓膜まで届くだけでなく、鼻腔の奥から喉元を通り過ぎて心臓まで到達してしまう。
熱い息が耳の中の皮膚を刺激して、思わず五十嵐を振り払った。


「先生って、動揺した顔もカッコいいんですね。」
「………っ。」

面倒なことになってしまった。
これまで自分が触れずに避けて通ってきたものが音を立てて崩れていきそうだ。
まさかこんなところで躓くなんて…。
目上の人間を馬鹿にしているかナメているとしか思えない五十嵐の言葉に、本気で腹が立った。
その感情を露にするように、舌打ちしながらカーテンを閉めた。

これからの学校生活を、いや自分の人生までもが乱される、途轍もなく嫌な予感に襲われた。
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