「マ グ ネ テ ィ ズ ム」【5】
「マ グ ネ テ ィ ズ ム」シリーズ 夜に書いた手紙を朝読むと恥ずかしい、なんていうのはよくある事例だ。
たとえば字にしなくても、夜に決意したことを朝になるとできなくなるということもあることだ、と僕は思った。
あれほど強く思ったことでも、実際学校に来てみれば何をどうしたらいいのかさっぱりわからない。
井上のことも、顔を合わせたらどんな態度を取ればいいのか…。


「…どうしよう……。」

僕の口からはそんな言葉ばかりが出てくるだけだ。
なるようにしかならないというのは何か行動を起こした後のことで、今何もしていない自分はその手前で止まっている状態だ。
そんなうじうじした考えのまま昼休みに入って、いつものように物理室へ向かった。
食欲なんかはないけれど、とりあえずで買って来たパンを持って誰もいない物理室の扉に手を掛けた。
その瞬間、自分の手の上に誰かの手が重なった。
「誰か」なんて、今の僕にとっては一人しかいない。
僕は額に冷や汗を滲ませながら、その手と一緒に物理室の扉を開いた。


「きょ、今日も…食べないの?せ、先生いらないからあげるよ。」

僕はすっかり忘れてしまっていた。
決意の的の浅岡がここに来るということを。
あんまりそのことばかりに気を取られてこんなことまで忘れるなんて、重症もいいところだ。
言葉を発する自分の唇がカタカタと震えている。
掌はもう汗でびっしょりで持っているパンの袋が滑り落ちそうだ。


「あ、浅岡、食べないと…、か、身体に悪いと思うよ…。」

本当は浅岡の身体の心配などできる状態ではなかった。
それでも僕はなんとかしてこの場を治めることを考える。
違う、そんなんじゃダメだ…。
そうやって逃げていても何も始まらないじゃないか。
行動を起こさなければなるようにもならないじゃないか…!


「どうせ僕のあげた物なんか…、い、いらないよね…。」
「先生…?」

進まなきゃと思うのに、僕の口から出てくる言葉は卑屈な言葉だ。
まるで子供が誰かに構ってもらいたい時に拗ねたような言葉。
いい大人が何をやっているのかと思っても、一度発してしまうと止まらなくなってしまう。
ようやく開いた浅岡の口から心配したような表情が覗えて、それに安心する自分までいる。


「浅岡は誰にも開かないんだもんね…。」
「先生、何言ってるんですか。」

浅岡を責めるようなことを言って、僕は臆病な自分を消そうとしている。
僕はなんて卑怯な人間なんだろう…。
浅岡は何も悪くないのに…。
どこまで自分は汚いんだと心の中では自分を責めながらも、僕の口は止まらない。


「僕なんか視界にも入ってないんだ…。」
「先生、本当に何言ってるんですか。」

冷たく放つ言葉が突き刺さる。
距離を示す言葉遣いで、興味がないと暗に言って。
それでも好きな場合は一体どうしたら…。
諦めていたはずなのに、本人を目の前にするとどうしても欲が出てきてしまうのが人間の悲しい性だ。


「だったらあんなこと…、し…しなきゃいいのに…。」
「あんなこと?」
「セックス…教えてなんて…、興味半分であんなこと…っ。」
「興味半分?」

抱かれた時のことを思い出して、僕は全身が熱くなった。
それと同時に、自分の身体が抱き締められる感覚に陥った。
感覚なんかじゃない、本当に抱き締められている…?
浅岡はどうしてこんなこと…?


「ふざけんなよ。」
「な…、ふざけてるのはあさお…っ、んん…っ!」

怒りに震えた浅岡の唇が、僕の唇に重なった。
息もできないぐらいの激しいキスは流れていた時間を止める。
唾液が口の端から零れているのか、生温かい感触が皮膚を伝っている。
一瞬にして僕の身体は灼熱の温度になる。


「興味半分で教師犯すバカがどこにいるんだよ。」
「だって…それじゃ…っ、浅岡っ、くるし…っ、ぅんっ。」
「俺が苦しんだ分苦しめばいいんだ。」
「浅岡…っ、やだっ、あさお…っ、あ…っ!」

羽織っていた白衣を引き千切られる勢いで脱がされた。
ネクタイを外されて、シャツの間から浅岡の手が忍び込む。
指先が胸の中心を探り当ててきつく摘まれると、苦しい中で僕の口から快感の声が漏れる。


「待って…っ!浅岡っ、おねが…っ、あ…っ!」
「嫌だって言ったらどうすんの?」

これだ…。
僕が好きな、浅岡の瞳。
突き放すような口調で、意地の悪いことを言うその唇。
冷たいのに、その奥が熱い浅岡の視線。
浅岡を作り出している何もかもが愛しい。
僕は待っていた。
授業中の浅岡のあの視線が自分だけを見つめるのを。
今、二人しかいない密室で浅岡が僕だけを見ている…。
その事実に僕はクラクラと激しい眩暈を覚えた。


「好きだ。」

僕の耳元で浅岡がはっきりと言った。
視界がグラリと歪んで、僕はまた膝から崩れ落ちた。
それはずっと求めていた言葉だった。
浅岡と出会ってから、あの視線に気付いてから、抱かれてからずっと欲しかった…。


「好きでもないのに男とセックスしたいって思うかよ。」
「でも…。」
「あんた結構バカだな、あんなあからさまだったのに。」
「浅岡…。」

初めて見る浅岡の笑顔に、僕はひどく動揺してしまった。
それはいつもとは違う、年相応の浅岡だった。
決して思い切りのいい笑顔ではないけれど、僅かに上がった唇に喜びを覚えた。


「気付かなかったのか?」
「うん…。」
「嫌がらせされてるとでも思ってたのかよ?」
「わ…わからないけど…。」
「よく考えてみろよ。俺があんたを見てなきゃあんたが俺を見てることに気付くわけないだろ?」
「そうだね…。うん…そうか…。」

そういうことだとはまったく思わなかった。
物理室で会った時もセックスの最中も、甘い言葉の欠片もなかったから。
逆にどう考えてもマイナスと思える言葉しか言われていなかったから、考えたこともなかった。
まさか浅岡が、僕のことを好きだからあんなことを言ったなんて…。


「先生?」
「腰……抜けたみたい…。」

あまりにも想像していなかっただけに、僕は立てなくなってしまった。
最初は心配した浅岡も、それを言うと途端に声まで上げて笑ってしまった。
そんなに笑わなくてもと思って泣きたくなったけれど、浅岡の笑顔が見れたからいい。
好きだと言ってくれたから、それでいい。


「そういうところが好きなんだけど。」
「えっ、ど、どういう…?」
「教えない。」
「何それ…、ずるいよ浅岡…。」

浅岡は本当にずるい。
今まで好きだということを黙ってたんだから。
でもそれは僕も同じで、僕達は無駄に行き違っていたのかもしれない。
それならばこれからその隙間を埋めていけたらいいと思った。


「先生、どうする?」
「な、何が…?」
「とぼけるなよ、続きに決まってるだろ。どうする?する?しない?どっちだよ。」
「そ…そんな……。」

誘うような浅岡の言葉が、僕の心臓を跳ね上げる。
教師だということ、相手は生徒だということ、ここは学校だということ。
そんな理性を示す思いと共に、まったく逆の思いも僕の中に棲んでいるのは明らかだ。
浅岡を好きだということ、好きな相手と繋がりたいということ…。
欲望が僕の理性を掻き消そうとしている。
ダメだと言い聞かせても止まることなんかできないのは、自分が一番わかっていた。


「浅岡、好き…っ。」

僕は震える腰をなんとか持ち上げて、膝立ちで浅岡にしがみ付いた。
自ら仕掛けたキスが欲望に火を点けて、今激しく燃え上がろうとしていた。
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