「神様は恋に夢中」-5




その日は夜明けから、どんよりとした雲が空を支配していた。
瑠璃が来て3日目、いつもはほとんど桃太か紅丸の大きな声で目が覚めるのに、不思議なことにその日に限っては自ら目を覚ました。
隣でまだスヤスヤと寝息を立てて眠るシマの体温と重みが、何だかやけに熱く重く感じる。
何かが起こりそうな日というのは、こういう些細なところがいつもと違っていたのかもしれない。


「ん……、え…青城様…?」
「悪いな、寝ているところ。」
「あ…いえ、ごめんなさい、今ちゃんと…。」
「あぁいい、そのままでいいから。」

俺はシマを起こさないように布団を出て、桃太や紅丸に気付かれないように、瑠璃のいる離れへと向かった。
シマと同じくぐっすりと眠っていた瑠璃は、目をゴシゴシと擦りながら必死で身体を起こそうとしていた。


「返事を書いた。大猫神に渡してくれるか?」
「あ、青城様…。」

悩みに悩んでも、もうどうしようもないことはどうしようもないのだ。
俺の決意を待っていても、「その時」はいつかやって来る。
何をどうあがいても、「頑張ってする」と言った仕事を終わらせなければいけない。
3日もかかったけれど、終わってみればあっという間だった。
思い出に浸ることも、寂しさに溺れることもできなかった。
桃太や紅丸、そして一番大事なシマに話すこともできなかった。
猫神の仕事というのは、そういうものなのかもしれない。
決められたことをきちんと最後までして、後に問題が起きないようにして、次の場所へと立ち去っていく。
当たり前にできていたことができなくなったのは、全部俺のせいだ。


「どうした?帰れるんだぞ?返事をもらえれば、帰れるんだろう?嬉しくないのか?」
「だ、だって青城様…、青城様はあの子…シマにゃんと離れちゃうんですよ?」
「そ…れは…、まぁ、そりゃあ寂しくないと言ったら嘘にはなるが…。」
「この間大猫神様と話してたのって、シマにゃんのことですよね…?」
「いや、だからそれは違うと…。」
「ごめんなさい、僕、あの時失礼なこと言いました…。」

瑠璃はあの時、自分と同じような従猫が俺のところにもいるのではないかと聞いてきた。
猫神の傍で世話をして、魔法の勉強をして、褒美だと言われてその身体を捧げて…。
猫神様はみんなのもので、みんなに優しくしてくれる。
みんなに平等に、ご褒美をくれる。
それが幸せなんだと、瑠璃は言っていた。


「青城様のことを話すシマにゃんは、とっても幸せそうでした…。」
「え……?」
「遊んでる時のシマにゃんは、青城様のことばかり話してて…。青城様が大好きで、青城様に愛されて、何ていうか…僕とは違ってて…。」
「瑠璃…。」
「本当は僕も思っていたんです。みんなに優しい大猫神様が、自分だけのものになればいいなぁって。心のどこかで思ってて…でもそれが正しいかどうかわからなくて…。」
「それは…。」

まだシマとそれほど変わらない瑠璃は、初めて恋というものを知ったようだった。
誰かを好きで、一人占めしたい。
その誰かに、自分だけを愛して欲しい。
心の奥底に潜んでいた願望が溢れて、どうしていいのかわからないみたいだった。


「僕はシマにゃんが、羨ましいです。」
「そうか…。」
「そんなシマにゃんと離れて、青城様は平気なんですか?寂しくないわけないんじゃないですか?」
「瑠璃、お前は返事ももらいに来たんだろう?そんな心配はするな。」

瑠璃の言う通りだ。
寂しくないわけがない。
平気なわけがあるもんか。
今すぐにシマの元へ行って抱き締めて、もう離さないと大声で叫びたいぐらいだ。
そんなことは俺が一番よくわかっている。
だけど仕方がないだろう…?
自分の要求が通らないことだって、生きていれば何度もあるはずだ。
そうやって諦めるしか、方法がないじゃないか。


「でも…!」
「もう決まったことだ。」

俺は瑠璃を宥めることで、自分を宥めたかったのだと思う。
抑え切れない気持ちを何とかして閉じ込めて、決意が揺らがないようにしたかったのだと思う。
そんな俺の苦しみを解き放ったのは、俺が今まで生活を共にした、従猫達だった。


「勝手に決めないでください…!」
「も、桃……?!いって…!!」

突然瑠璃のいる離れの扉が開いて、桃太はずんずんと俺の元まで歩み寄ってきた。
後ろにはもちろん、黙って見守る紅丸の姿もある。
呆気に取られる俺を桃太はキッと睨みつけ、手に持っていた物を俺の顔目がけて投げ付けた。


「これは…何ですか…?引継書なんて、ぼく達何も聞いてませんよ?!」
「これ…、こんなものどこから…。」
「昨日青城様の部屋を掃除してて見つけました。自分で捨てたのに、覚えてないんですか?」
「お、覚えてはいるが…。」
「何も言って来ないってことは、黙っていなくなるつもりだったんですか?!」
「いや、それは後でちゃんと話そうと思ってだな…。」
「後で話すとかじゃなくて…!そうじゃなくて、どうしてぼく達に何の相談もしてくれなかったんですかっ?!」
「それは…相談することでもないだろう、こういうことは…。」

桃太の勢いは、止まらない様子だった。
ここは俺が冷静にならないと、収拾がつかなくなる。
俺が言っていることに間違いはない。
その場所をいなくなる時に従猫達にいちいち相談なんてしていたら、きりがない。
大猫神から異動を言われれば、その通りに動くのが俺達猫神の使命だ。
俺は今までそうやって来たし、他の猫神だってそうだ。
残された従猫達だって、大猫神からの指令だとわかれば、仕方がないと諦めるのが普通だ。


「だいたいっ、シマにゃんのことはどうするんですか?!シマにゃんが知ったらどうなるかって考えたんですかっ?!」
「あー、シマなぁ…。」
「シマにゃん絶対泣きますよ?どうするんですかっ?!」
「あー…そうだな、記憶全部消して猫に戻してやるか…?」

知って悲しむぐらいなら、知らない方がいい。
知ってしまったなら、その事実を消してやればいい。
シマに悲しみを与えたくなくて咄嗟に出た言葉だったが、それは逆に桃の怒りに火を点けてしまったようだ。
容赦なく飛んで来た掌を避けきれなくて、頬でバシン!という大きな音を立てた。


「い、いってぇ…!神様に向かって何するんだ…っ!俺は猫神様だぞっ?!お前達の魔法の師匠だぞ…っ?!」
「それ…青城様、いつも言ってましたよね、ぼく達は青城様のことを神様だと認めてないとか…。」
「え…、あ、あぁ…。」
「青城様がそうなんじゃないですか…?!青城様がぼく達のことを従猫だと認めてないんですよっ!だってこんなに信用してくれてないんだから!!」
「も、桃…。」
「ぼくは許しませんよ…、何も言わずにいなくなるなんて…。そんな…自分でシマにゃんを連れて来ておいて、いなくなるから元に戻すだなんて…!魔法は自分勝手なことに使うものじゃないって銀華様は言ってましたっ!」

またそこで銀華かよ…。
何かあれば銀華銀華って、いつまでもいなくなった神様のことを崇めて…。
お前達の中で銀華という存在が大き過ぎるから、俺のことを神様だと認めてないんだろう?
そう言ってやりたかったけれど、言葉が出て来なかった。
大粒の涙を零しながらまくし立てる桃太は、もうここにはいない銀華のことを思って言ったように見えなかったから。


「そんなの…神様じゃない…っ。」
「も、桃…、ちょっと落ち着いてだな…。」
「も、もっといっぱい魔法を教えてもらいたかったのに…っ。」
「あっ、桃っ!ちょっと待て…!」

そんなの、神様じゃない。
泣きながら投げ付けられたその言葉は、神様としてやって来たこれまでを全否定されたような気分だった。
いつもの冗談混じりで言われるのとは、わけが違う。
この問題に直面してから神様失格だとは何度も思ったけれど、本当にそうだと決定付けられたみたいだ。


「おれもお前を許さないからな…。」
「紅…。」
「桃をあんなに泣かせて、絶対許さない…。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、俺の話も聞いてくれよ…な?」

走って去ってしまった桃太を追いかけようとする俺を、それまで黙って見ていた紅丸が止めた。
桃太とは違う静かな怒りを秘めた従猫に、神様の俺が一瞬怯みそうになる。
言い訳なんてするつもりはない。
ただ俺の話を少しだけ聞いて欲しい。
どうしてこんなことになったのか、どれだけ俺が悩んだか、どうしてどうにもならないのか…。
いや、それがもう言い訳にしか聞こえないのかもしれないな…。


「あ、あの…っ、ご、ごめんなさい僕…っ!こんなことになるなんて…っ!」
「瑠璃…。これは俺の問題だ。お前が泣くことはないんだぞ…?」

俺達のやり取りを聞いていた瑠璃が、突然足元で泣き崩れた。
自分のせいではないとわかっていても、目の前でこんなところを見てしまったら、責任を感じてしまうのだろう。
小さな猫が背負うには、この任務は大き過ぎだ。


「こんな…っ、緑葉さんだってみんなをバラバラにしたかったわけじゃ…っ。」
「は……?何でそこで緑葉が出て来るんだ…?」

確かに俺を失脚させようとして、大猫神に余計なことを言ったのは緑葉に間違いはない。
俺に痛い目を見せて、俺を遠くへ行かせれば、緑葉の目的は果たされることになる。
だけどどうして突然そんなことをしたのかなんて、考えたこともなかった。
緑葉が俺を陥れようとした理由って、一体何なんだ…?


「緑葉さん…最近ずっと…、その…ご、ご褒美をもらってなくて…っ。」
「褒美…、あぁ、あのじじ…いや、大猫神は小さいのが好みだからな。そろそろ飽きて来たんじゃないかと思っていたが…本当だったのか?」
「前に僕がご褒美をもらってるの…っ、ずっと扉の向こうで見てて…っ、その後言われたんです…っ。」
「な、何を…?」

瑠璃はいいね、大猫神様にいっぱいご褒美もらって。
だけどそんなの、今だけだよ。
そのうち成長して背も大きくなって年齢を重ねたら、ご褒美なんかもらえなくなるんだ。
だからね、今のうちに慣れておいた方がいいよ。
いつ捨てられてもいいように、他の猫に触られる練習をしておいた方がいいよ…。


「げ……!も、もしかして瑠璃は緑葉に…。」
「どこかへ連れて行かれそうになって逃げました…。」
「そ、そうかそれならよかっ…いや、よくはないか…。」
「それであの、仲間の猫達に相談したら、みんなも言われたことがあるって…。」

それならぼくも言われたよ。
あっ、僕も言われた!
ぼくも言われて、知らない場所に連れて行かれたの!
緑葉さん、知らない猫神様にご褒美もらってたよ!
あー、それ僕も聞いた!相手は昔の知り合いの猫神様って言ってたよ!
だから大猫神様は、緑葉さんにご褒美をあげないことにしたんじゃないの?


「何だそりゃ…?自業自得じゃないか…。浮気が原因でフラれたってことだろ?」
「それで僕…っ、思い出したんです…。あの時青城様に言われたこと…同じことを緑葉さんも言ってたなぁって…。」
「俺に言われたことって…。自分だけのものになればいいとかってやつか…?」
「はい、緑葉さんも言ってました…。大猫神様のことが好きなら、一人占めしたいって思うのが当然だって…。瑠璃は思わないなら、もうご褒美なんていらないんじゃないのって意地悪なことも言われて…。」

靄で見えないものが、だんだんと見えてきたような気がした。
その見えたものが事実なら、俺はとんでもなく他人事に振り回されていたことになる。


「念のため聞くけど…そのことは全部大猫神は知ってるんだよな…?」
「え…?あ…、は、はい…。緑葉さんが他の猫神様にご褒美をもらってるみたいですって他の子も言ってたし…ごめんなさい、僕も言っちゃいました…。」
「それで?」
「放っておけって…。青城様が来たのは、そのすぐ後です。あの時のご褒美の後、緑葉さんは青城様のことを聞いてきたんです…。青城は何をしに来たの?って。」
「緑葉は本当に何も知らなかったってことか…?」
「大猫神様に何を言われたかわかる?って。でも僕は、もしかして緑葉さんのせいで青城様が異動を言われたんじゃないかって思ったんです…その、知り合いの猫神様っていうのが、青城様じゃないかと思って…、だから知らない振りをしました…。」
「ぶはは!なるほどな!そうか、そういうことか!」
「あ、青城様っ?!何か僕おかしなことを言いましたか…?!」

緑葉は大猫神を一人占めしたかった。
続々と現れる小さな猫達になんか、渡したくなかった。
役職にも就かず、魔法の勉強もせず、傍にいるのは、大猫神のたった一人になりたいから。
それは緑葉の態度を見ていればわかるが、予想外だったのは大猫神の方だ。


「おかしいも何も…あのじじい、あの顔で本気かよ…!」
「か、顔…?あの、それはどういう…?」
「瑠璃、さっきの返事はなしだ。明日まで待ってくれ。大猫神のところへ行くぞ。」
「えっ?!は、はい…!わ、わかりました…!」

緑葉が大猫神を一人占めしたいように、大猫神も緑葉を一人占めしたかったなんて…。
浮気をされて腹が立ったまではいいとして、その相手を俺だと誤解しているなんて…。
もちろん俺の推測が正しければの話だが、それ以外にこの問題の発端がないのだ。
それが事実だとして、正しい方向へ進んだ場合、瑠璃は大猫神に捨てられることになるかもしれない。
今事実を告げるのは酷なことだと悟った俺は、何とか言葉を濁して瑠璃の疑問を振り切った。


「紅、この間銀華のところからもらってきた茶があっただろう?」
「は?茶?ちょ…、おれの話はまだ…。」
「話は後だ。茶を入れてくれ。眠気もぶっ飛ぶぐらい濃いやつを頼む。」
「お、おいっ、何だよそれ!意味がわかんないぞ…!」

そうとなれば、方法はある。
諦めかけていたものがまた手に入るなら、俺は何だってする。
意味がわからなくても何でもいい。
この俺をここまで悩ませたんだから、それなりの方法で乗り越えてみせる。
俺は呆然と立ち尽くす紅丸と瑠璃を置いて、自分の部屋へ戻り、まだ薄暗い中机に向かった。






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