「神様は恋に夢中」-4
「アオギー、朝だよー?アオギ、朝なの!」
「んぁー…?」
やっと眠りに就いたかと思った時には、既に夜も明けてしまっていた。
愛しい声が耳元で響き、小さな手が俺の身体を激しく揺り動かしている。
台所の方からは、米が炊ける甘い匂いと、卵が焼ける香ばしい匂いが漂って来る。
「アオギ、眠いの?」
「んー…そうだなぁー…。」
いつもと変わらない朝だ。
隣にシマがいて、台所には桃太がいて、洗濯場か風呂場には紅丸がいて…。
そんないつもの朝なのに、俺だけが違う。
俺の心の中だけ不安定なまま、朝を迎えてしまった。
夢だったらいい、朝起きたら嘘だった、そう願っても無駄だった。
俺の頭の中にはしっかりと、昨日の記憶が残ってしまっていたのだから。
「青城様ぁー、そろそろ起きてくれませんかー?」
「だって。アオギ、起きるの!」
「あー、しょうがねぇなぁー…。」
いつまでこんな朝が続くのだろう。
いつまで俺はここにいられるのだろう。
いつまでシマは、俺の傍にいるのだろう。
いつまで俺達は…。
いつまで…?
考えたくなくても、俺の中で「期限」というものが生まれ始めていた。
「早くして下さいね。お客さんも待ってるんですから。」
「は?客…?こんな朝っぱらから誰だ?お前の友達でも来てるのか?」
「何言ってるんですか、青城様にですよ!」
「俺に…?」
嫌な予感がした。
ここへ客なんて来るのは、相当珍しいことだった。
それもこんな朝早くから、俺にだなんて、いい予感が一つもしない。
「今一緒に朝ご飯を食べてたところなんですよ〜。」
「あっ、青城様…!おはようございます、僕あの…。」
「お前は…。」
いつもの食卓にもう一匹、見慣れない姿があった。
昨日大猫神のところで会って俺を出迎え送ってくれた、あの小さな猫だ。
「昨日は名前も言わずにすみません。僕、瑠璃って言います。あの…。」
「あ、朝からどうしたんだ…?忘れ物でも届けに…。」
「あっ、違うんです。実は大猫神様から手紙を届けて欲しいって言われて…。」
「ちょ、ちょっとこっちに来てくれ…!」
俺はその瑠璃とやらの腕を強引に引っ張り、皆のいる場所を離れた。
大猫神という名前を聞いた瞬間、先程から抱いていた嫌な予感が、一気に膨れ上がったからだ。
「あ、あのぅ…、青城様…。」
「それを読めばいいんだな?」
「あっ、は、はいっ!大猫神様から手紙を預かって…、それであの…。」
「…………。」
俺はしっかりと封のされた手紙を受け取ると、勢いよくびりりと破いた。
膨れ上がった嫌な予感は的中したようで、暫くの間言葉が出て来なかった。
瑠璃もただおろおろとするだけで、俺に何も言えずにいた。
だってそうだろう?
昨日の今日で、「決意は出来たのか」なんて言われたら。
それをわざわざ手紙になんかして、こんな小さな猫に届けさせたりなんかして。
俺が欲しいと言った「少し」という時間は、たった一晩なのか?
早くしろ、そう言っているとしか思えない。
俺が迷って悩んで、どうすればいいのかわからなくなっているのをわかっていながらこんなことをして…嫌がらせにも程がある。
「それであの…、へ、返事を…。」
張り詰めた空気の中、先に言葉を発したのは瑠璃の方だった。
小さな身体を小刻みに震わせて、強張る俺の顔を覗き込んで来る。
名前と同じ深い青色の大きな目が、何かを訴えかけているようだった。
「僕…、返事をもらわないと帰れないんです…。」
「そうか…。」
「だからあの…。」
「わかった。すまんがもう少しだけ待ってくれんか?」
「は、はいっ!よろしくお願いします…!」
「ん、そんじゃあ飯に戻るか。腹も減ったしなぁ。」
「あっ、僕ちょっと…手洗い場はどこですか?」
「そこの角を曲がったところだ。冷めないうちに戻って来るんだぞ。」
瑠璃はこの手紙の内容を、だいたいわかっていたのだろう。
扉の向こうで話が聞こえていたと言っていたから。
そのことも気付いていながら、大猫神は瑠璃に頼んだのかもしれない。
そうすれば早く決断をするとでも思って…俺から逃げ道をなくすために。
「もーっ、アオギ遅いー!」
「あぁ、すまんすまん。」
「僕もうすっごくお腹が減ったの!アオギ、早くー。」
「ん、わかったわかった。」
食卓では腹を空かせたシマが、椅子に座って足をバタバタさせながら、俺を待っていた。
桃太や紅丸はほとんど朝食を平らげていたけれど、シマの前の皿は手つかずのままだ。
いつも俺に食べさせてもらっているのだから、当然と言えば当然だ。
だけどもし、俺がここからいなくなったら…?
俺じゃない誰かがここに来ることになって、シマが単なる従猫として生きていかなければならなくなったら…?
考えたくなかったけれど、そういうところまで来てしまったのかもしれない。
「桃、あれを持って来い。」
「あれ…?な、何ですかあれって…。」
「わざわざ買って来たんだろう?ほら、シマにゃんこ用の…。」
「あ…、は、はい…!」
俺は桃太に、シマ用のスプーンとフォークを持って来るように言った。
慌てて食器棚に取りに行く桃太をよそに、シマ本人は何のことだかわからずにきょとんとしている。
戻って来た桃太に猫の形をしたそれを手渡されても、どうすればいいのかわからないらしい。
「よし、シマにゃんこ、今日から練習しような?」
「練習…するの?」
「もう赤ちゃんじゃない、だろ?」
「うんっ!赤ちゃんじゃないよ!練習するー。」
シマは最初、戸惑っていた。
シマだけじゃない、桃太も紅丸も、俺の行動に首を傾げていた。
昨日まではそんなことはしなくていい、俺が全部やるんだと言っていたのが、朝になって180度変わっていたら、誰でもそうなるだろう。
だけどシマが自分のことをするのは、シマ自身も桃太も紅丸も、望んでいたことだ。
そこまで深くは考えたりはせず、すぐに俺の行動を受け入れたようだった。
「アオギ、僕いっぱい練習して頑張る!」
「ん、えらいなーシマにゃんこはー、よちよち。」
ボロボロと零しながら一生懸命食べ物を口に運ぶシマの手を、優しく掴んで手伝ってやりたかった。
べったりと汚した口の周りを、隅々まで舐めてやりたかった。
やっぱりそんなことはしなくていいと、スプーンもフォークも取り上げてしまいたかった。
瑠璃が戻って来て願望が叶わなくなった俺は、ただシマを褒めて頭を撫でることしか出来なかった。
「離れがあるから、そこを使うといい。布団だとか必要な物は後で桃に持って行くように言ってある。」
「はい、ありがとうございます…。」
滅多に客の来ない家だから、離れを使うことも滅多になくても、掃除だけはきちんとしてあった。
それは銀華がここにいた頃から、桃太と紅丸が言い付けられていたことらしい。
こういう時に役に立つものだな…なんて、どうでもいいことで感心してしまった。
「それから風呂は…。」
「あの…青城様、僕…ごめんなさい…。」
「……?どうして謝る?」
「だ、だって突然押し掛けたりして…返事をもらわないと帰れないなんて言って…。迷惑かけてごめんなさい…。」
それは確かに、迷惑な話だった。
桃太や紅丸にいつあの話がバレてしまうか、ビクビクしなければならない。
瑠璃は自分から内容を話すことはないだろうけれど、この場所に瑠璃がいることは、どう考えても自然なことではない。
そのうち桃太や紅丸が、俺に隠れて問い質したりするかもしれない。
事実を知れば、シマにだって話してしまうだろう。
だけどそれは、別に瑠璃が悪いわけではない。
悪いわけではないからこそ、どこに当たっていいのかわからないからこそ、俺のモヤモヤした気持ちはどんどん溜まっていくばかりだ。
「お前が謝る必要はないだろう?お前は何も悪くない、頼まれて来ただけだろう?」
「でも…。あっ、あの…大猫神様も悪いお方じゃないんです…!青城様にはひどいことをしているのかもしれませんけど、悪いお方じゃあ…!」
「安心しろ、大猫神が悪いなんても思ってないから。」
「そ、そうですか…。」
それなら一体、誰が悪い?
誰が悪いなんてことはないかもしれないけれど、強いて言うなら俺だろう。
俺は今まで、自分のしてきたことが悪いことだなんて思ってはいない。
だけどそれが悪いことだと言う奴もいる、ただそれだけのことだ。
ただそれだけのことが、こんなにも自分を苦しめることになるなんて…。
「あー、アオギいたー!早く遊ぼー?」
「シマ…。」
シマはまだ、何も気付いていない。
どこもおかしいなんて思っていない。
それはいつまで通用するのだろう。
この無邪気な笑顔が、いつまで見られるのだろう。
「期限」は少しずつ、確かに迫って来ていた。
「すまんがちょっと仕事が溜まっていてな…。」
「えー…そうなの?」
「この瑠璃と遊んでろ、な?」
「わかった、瑠璃ちゃんと遊ぶ!あっち行こー?」
「いつまで」なんて、わかっていたのだ。
瑠璃が手紙を渡しに来た時から、覚悟を決めなければいけないことぐらい、わかっていた。
もう自分ではどうすることも出来ないことぐらい、この話が出た時から気付いていた。
気付いていながら、何とか出来るんじゃないか…そう思ってしまった。
神様の俺なら何とか出来るんだと、この立場に甘んじて、自信過剰になっていた。
「仕方ねぇ…か……。」
俺の完敗だ。
元々この話に勝ち負けがあるわけでもないけれど、こんなにも手も足も出ないのは初めてだった。
俺は生まれて初めて、何も出来ない自分、というのを味わった。
シマと出会うまで適当にやってきた俺への罰なんじゃないか…そうも思った。
「桃太、紅丸…。」
俺は机の引き出しの奥から、引継書と書かれた紙を探し出した。
それは名前の通り、猫神達が別の場所へ行く時に、次の担当になる者に渡すものだ。
何という名前の従猫がいて、どんな性格か、何が好きか、どこまで修業をしたか…出来るだけわかりやすく書いてやる。
そうすれば別の猫神が来ても、従猫達の戸惑いは最小限に抑えられ、時間がかからずに打ち解けることが出来るというわけだ。
「シマ…。」
俺はその従猫の一覧に、桃太と紅丸、そしてシマの名前を書いた。
俺がいなくなった後のシマは、当然普通の従猫として生きていかなければならない。
「桃太と紅丸は…えぇと、どこまでだったか…。」
魔法の本をパラパラと捲りながら、俺は桃太と紅丸の修業についてを書いた。
二人はいつも一緒で、わからないところがあればお互い教え合っていた。
それでもわからなければ俺に聞きに来ていたけれど、肝心の俺がいい加減なものだから、よくブーブーと文句を言っていた。
「シマはまだ1冊目の…猫の世界についての説明でいいか…。」
僕も魔法の修業をする、シマは何度かそんなことを言っていた。
もちろん俺がそんなことをしなくてもいいと言ったから、今まで何もさせたことはなかった。
だけどこの世界がどんなものなのかぐらいは、もう十分わかっているだろう。
「あー…、まずは桃太は…。」
修業に関しては、すぐに書き終えることが出来た。
その後それぞれの性格やら何やら細かい部分を書く時になって、俺の手はピタリと止まってしまった。
「桃太は…。」
桃太は少し臆病だけれど、穏やかで優しくて、ピリピリした空気を和ませてくれる。
紅丸は素直じゃないところがあるけれど、勇気があって雄らしくて、従猫の中では一番頼りになる。
シマはまだ小さいから甘えん坊だけれど、実は頑固なところがあって、一度決めたことはやり通す強い心の持ち主だ。
「違う…。」
違う。
こんな紙一枚に書けるほど、薄っぺらいものではない。
銀華がいなくなって俺が来て、シマを連れて来て…。
それは年月にしたら大した長さではないのかもしれない。
だけどこんな紙切れなんかにすべてを書き切れないほど、俺は桃太のことも紅丸のことも、シマのことも……。
「くっ…そ……。」
今まで何度か担当の区域を変わった俺にとっては、こんな書類は何てことのない物だった。
旅立つ当日に手を付けても、すぐに書き終えてしまうぐらい、簡単なものだった。
それが全然書けないなんて、こんなに筆が重く感じることなんて、一度もなかった。
「青城様ぁー、そろそろお昼ですよー。」
「あぁ、今行く…。」
気が付けばもう、そんな時間になっていた。
引継書を何度も書き直したせいで、足元のごみ箱は紙くずでいっぱいになっていた。
桃太の呑気な声が聞こえて来ても、俺は返事をするのが精一杯だった。
「瑠璃ちゃん、後でまたゲームしよ!アオギに買ってもらった新しいのがあるのー。」
「うん、しよ!げーむ、面白いねぇー?」
シマと瑠璃は歳が近いせいなのか、すっかり仲良くなっていた。
瑠璃の方がシマより大きいけれど、初めて出来た友達のような感覚なのかもしれない。
「アオギもお仕事終わったら一緒に遊ぼうね?」
「あぁ、そうだな。じゃあ頑張って仕事しないとな。」
仕事が終わるということは、俺が決意をすること。
ここからいなくなる準備を始めることだ。
そんなことは微塵も知らないまま、笑顔でボロボロと食べ物を零しまくるシマに、俺はやっぱり手を貸すことも出来なかった。
「あーあ…ったく…。」
昼食後、俺は庭にゴロリと寝転がり、ぼんやりと空を眺めていた。
いつまでもこうしていられるなんて思ってはいないけれど、すぐには手が付かなかったのだ。
頑張って仕事するなんて言ってしまって、頑張ったら終わりじゃないか。
出来ることなら、頑張りたくない、終わらせたくないのに…。
「あー!青城様ぁ、またサボってるんですかー?」
「桃…。」
「まだ仕事終わってないって言ってたじゃないですかーもう!」
「あぁ…そうだったな…。」
こんな風に桃太に怒られるのも、あと少しなのか…。
この後紅丸もやって来て、二匹で一緒になって俺を部屋へと追いやることも、もうなくなるのか…。
そして部屋に戻ると、シマが傍でおとなしく遊んでいることも…。
俺らしくもない寂しさが、胸の中を過ぎる。
「そうだったなって…もう!お部屋の掃除しちゃっていいですか?青城様が仕事終わるの待ってたのに…。」
「あー、そうだなぁ…。もうちょっとしたら戻るけどな。」
「ちゃんともうちょっとで戻って来て下さいよー!」
「ん、わかったわかった。」
俺は再び空を眺めながら、あの引継書のことを考えていた。
自分の納得がいく中身を書けるのかどうか…。
書き終わってから、桃太と紅丸にきちんと上手く話せるかどうか…。
それからシマのことも…。
掃除をしに行った桃太が、ごみ箱の中からあの引継書を見つけてしまうことなんて、まるで考えもせずに。
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