「MY LOVELY CAT2」-7
「う……ひ…っく……。」
志摩のところを飛び出してからどれぐらいの時間が経ったのか、僕はようやく落ち着きを取り戻そうとしていた。
虎太郎と志摩を傷付けるようなことを言ってしまった…。
一番言ってはいけないことを言ってしまったのだから、僕が虎太郎に叩かれるのは当然のことだった。
誰かに叩かれたなんて、僕にとっては生まれて初めてのことだった。
物心ついてからお父さんにも叩かれたことがなくて、それどころか怒られたことだってほとんどなかったのに…。
「いた……。」
虎太郎はよほど思い切り叩いたのか、僕の頬は時間が経つごとにヒリヒリと痛みを増していった。
きっと鏡を見たら真っ赤に腫れてしまっているだろう。
明日になったら痣になってしまっているかもしれない。
だけど僕があんなに泣いてしまったのは、こうして今も悲しい思いが止まらないのは、別に頬が痛かったからではない。
叩かれたことが悔しかったわけでもないし、叩いた虎太郎に対して腹が立ったわけでもない。
「う……っく……。」
元々僕達は性格が合わなかった上に、人間と猫なんだ。
そんな二人が恋に落ちること自体、常識的には考えられないことだった。
そんな二人が上手くいくこと自体、無理だったのかもしれない。
僕はこの恋が終わってしまうかもしれないということがただ悲しかった。
志摩を侮辱するようなことを言ってしまったことに、激しい後悔だけが残っていた。
もう取り返しがつかないところまで来て、自分がどれだけ醜くて嫌な人間なのかわかってしまった。
それから自分がどれだけ虎太郎を好きなのかわかってしまった。
いくら勉強が出来たって、そういう大事なことがわからなければ、人間としては最低だ。
「志季ー…?志季ー、いるー?志季ー?」
僕が玄関で再び涙を流していると、玄関のドアの向こうで弱々しい志摩の声が聞こえた。
それじゃあインターフォンが付いている意味がないといつも言っているのに、こんな時までバカなんだから。
だけど志摩よりももっとバカなのは僕だ。
僕はそんな自分を認めて、反省をしなければならない。
もしかしたら今なら間に合うかもしれない。
志摩に謝ることも、虎太郎の心を取り戻すことも…。
「な…、なぁに……?」
「よかったー…、いたー!」
「べ、別に…僕はどこにも行かないよ…っ。」
「あの…、開けてもらってもいいですか…?」
だって僕には、もう行く場所なんてどこにもないんだ。
確かに僕には、志摩や隼人とは違って、一応家族というものが…お父さんのいる家があるし、どこにいるかはわからないけれどお母さんだってこの世に存在する。
だけどそんなものは、ただ血の繋がりがあるというだけだ。
僕は今までお父さんの言うことをきちんと聞いて、文句さえ言わなければいいと思っていた。
そうやって僕は自分の望むものを与えてもらって好き放題に生きて来たつもりだったし、もちろんこの先もそうやって生きていくつもりだった。
そのことに違和感を覚えたのは、志摩や隼人と出会ってからだ。
そしてその二人の飼っていた猫…虎太郎に出会って、恋というものを知ってからだ。
自分の思い通りにいかなくて苛々したり、嫌なことばかり言って困らせたり…。
僕の奥に眠っていた本心みたいなものを曝け出したら、お父さんにはしたことのないことばかりしてしまった。
そんな僕の嫌なところも何もかもを受け入れてくれた人達に出会ってしまったから。
僕はそんな皆の方が、お父さんやお母さんよりよほど家族なんじゃないか?と思ってしまった。
だから僕には、もう行くところがない。
こんな僕を受け入れて、大事にしてくれる、ここが僕の居場所なんだと思ってしまったから…。
「どうぞ…。」
「あ、ありがと…。お邪魔しますです…。」
「何それ…変な日本語…。」
「う……ごめんなさい…。」
僕がドアを開けると、志摩は珍しく遠慮がちに家の中に入って来た。
お互いまだ何も話してはいないけれど、気まずい空気が漂っている。
僕は志摩がどんなことを言い出すのか、正直言って物凄く恐かった。
虎太郎がもう僕のことを嫌いになったとか言われたら、僕は志摩の目の前で泣いてしまうかもしれない。
そんな恐怖を隠すために志摩にきついことを言おうとしても、なかなか声に力が入らない。
「ぼ、僕の情けない姿でも見に来たの…?」
「志季…!」
「ど、どうせバカだと思ってるんでしょ…?こんなことで泣いてさ…。」
「そ、そんなこと…。」
それでも僕には、志摩に弱いところを見せたくない気持ちがまだ残っていたらしい。
志摩の顔を見てしまうと、口から出て来るのはひねくれた言葉ばかりだ。
「僕のことムカついてるんでしょ?あんな酷いこと言ったもんね、仕返しってところでしょ。」
「そ、そんなことないです…!」
「嘘なんか吐かなくてもいいってば…!どうせ僕は嫌な奴なんだよっ!志摩だってあんなこと言われて怒ったでしょ!」
「ち、違うもん…っ!」
「何が違うのっ?!意味わかんないんだけど…!」
「違うもん…っ!志季はあんなこと…本当は思ってないもんっ!志季は嫌な奴なんかじゃないもん…!本当にそうだったらそんなに泣いてないはずだもん…!!」
バカみたい…。
普段はあんなに頭が悪いのに、どうしてこういう時だけ鋭いの…?
僕は嫌な奴だって言っているのに、どうして肯定してくれないの…?
そんなことを言われたら、僕はどうすればいいの?
このままずっとここにいたいって、また皆で賑やかな時間を過ごして、また毎日のように皆でご飯を食べたいって思っちゃうじゃないか…!
すぐに元に戻れるかもしれないって、調子に乗っちゃうじゃないか…!
「ふ…ふんっ、わかったようなことばっかり…。あんなに邪魔者扱いしてたくせに…。」
「あ、あの…志季…!俺…、俺ね、最初は志季のこと…そういう扱いしてたかもしれない…。そういう風に見えちゃったのも言い訳しない…。」
「ほら、やっぱりそうじゃない。」
「でもあの…それは苦手っていうか…、突然お兄さんだって言われて混乱してたのもあるし…色々意地悪なこともされてどうしてだろうって、悲しかったのもあって…。」
「お兄さんっていうのは嘘だったじゃない、やっぱり嫌な奴ってこと…。」
「でも俺…志季のこと嫌いとか思ったことないよ…?心の奥底から憎いとか、そんなこと思ったことない…!」
「え……。」
「志季は本当は優しい人だって思ってるし…。ここにいてくれないと困る…俺だけじゃないよ?隼人だってきっとそうだよ…!」
バカみたい…バカみたい…!
僕が言って欲しかったことを、そんなにも簡単に真っ直ぐに言うなんて…!
もうダメだと思っていたのに、嬉しくなっちゃうじゃないか…!!
「な、何それ…。本当は、ってことは普段は優しくない奴なんじゃない…。」
「あっ!そ、どうじゃなくてあの…!」
「それに…仮に志摩や隼人がそう思ってても、虎太郎は僕のこと…僕のことなんかもう…。」
「あっ!そうだ、虎太郎…!虎太郎ってばさっき大変だったんだよー!」
自分から名前を出しておきながら、僕は志摩の口から次に出る言葉に、また襲ってくる恐怖感を拭えなかった。
だけどいつかはこのことを話さなければいけない。
そのために志摩だってここへやって来たんだから。
「わかってるよ…僕のこと怒ってたんでしょ、もう嫌だって言ってたんでしょ…。」
「そうじゃなくて…すっごい泣いて大変だったんだよー!」
「………は?!」
「志季にひどいことしたー嫌われたーって言って大泣きしちゃって…!」
「な、泣いた…?それって虎太郎じゃなくて志摩じゃないの…?っていうか泣いたのは僕だよ…?」
「あの、お、俺も泣いちゃったけど虎太郎が…。手が痛いって…でも志季はもっと痛かっただろうって…。志季ごめんなさいーって言いながらずっと泣いてて…。」
虎太郎が泣いた…?!
僕を叩いて、その手が痛くて、僕のことを心配して…?
僕に嫌われるかと思って…?
あんな大きな身体で、どう見ても立派な大人の虎太郎が、大泣きした…?!
僕は志摩から伝えられた事実をすぐには受け入れられずに、暫く呆然としてしまった。
「バカみたい…し、志摩の前でそんなところ…。あ、あんなデカい身体でさ…それじゃあ子供と一緒じゃない。」
「し、志季…そんな…!」
「泣きたいんだったら僕の前で泣けばいいのに…!なんで志摩なの?!ずるいよっ、どうして僕にはそういうところ見せないの…?ずるい…、ずるいよ…っ!!」
「し、志季…?」
「だいたいっ!!嫌われたって思ってるなら、反省してるならどうしてここに来ないのっ?!ちゃんと謝りに来ればいいでしょっ!!志摩も志摩だよっ、何一人でのこのこ来てんのっ?!虎太郎連れて来てよっ!!」
「志季…っ!あのそれは…!」
やっと受け入れたと思えば、僕はまたいつもの僕に戻ってしまっていた。
志摩に八つ当たりをして、醜い感情剥き出しで突っ掛かってしまったのだ。
でも僕の言っていることは無茶苦茶だけど、決して間違ってはいない。
だってそんなに泣いたのが本当なら、その本人がここにいるべきじゃないか…。
「何っ?何か言い訳でも…っていうか嘘なんじゃ…。」
「あの…!お、俺…黙っててって言われたんだけど…!」
「だから何っ?!もたもたしてないでさっさと言えばいいでしょっ!」
「こ、虎太郎…面接に行ってて…!」
「………はぁ?!」
「どこか働けるところはないかって相談されたの…。でも俺よくわかんなくって、シロに相談して…。そしたらシロが働いてるケーキ屋さんがちょうどアルバイト募集してるからって…。」
「な、何それ…。」
「志季にはちゃんと決まってから言うんだって、内緒にしててって頼まれたの…。期待させて決まらなかったら志季に申し訳ないからって…。だ、黙っててごめんね…!!」
虎太郎が面接…?
アルバイト…?
ケーキ屋さんで働く…?
虎太郎は猫なんだよ…そんなことが出来るわけがないじゃない…!
一体何を考えてるの…?!
「あの、ケーキ屋さんはシロが猫だったってことは知ってて…。それでシロから紹介してもらったの…。」
「ふ…ふぅん……。」
「虎太郎、志季のために頑張るって張り切ってたから…だから俺も黙ってようって…。」
「な、何それ…。あ…あんなバレバレだったくせに…。」
違う…虎太郎は何もおかしなことはしていない。
あの時僕があんなことを言ってしまったからだ。
───そうだよっ!だいたいっ、今だって生活出来てるのは僕のお父さんが働いてるからなんだからねっ!
虎太郎がうちにいるのだって言い訳して仕送り多く送ってもらってるんだから!
お父さんは僕の我儘を何でも聞いてくれるから助かってるんだからねっ?
虎太郎はただ家にいるだけで何も知らないかもしれないけどそういうことなの!!───
僕が大学に進学することを知って、少しだけ揉めた時のあの言葉だ。
あれを虎太郎は真に受けてしまったのだ。
あれほどあの後ちゃんと言ったのに…!
別にそれが悪いわけじゃない、今のは僕が言い過ぎたって、悪かったって言ったのに…!
どこまで僕の言葉を丸々鵜呑みにするの…?!
どこまで僕のことだけしか考えられない単細胞な奴なんだろう…!!
「志季…、あの、ホントにごめ……し、志季…っ?!」
「こ…たろの……バカぁ…っ!」
「し、志季っ?どうしたのっ?志季っ、志季っ?!」
「バカだよ…っ!絶対虎太郎はバカなんだ…っ!バカ……う…ふぇ……っ、ひっく……!」
僕は自分が思っている以上に虎太郎を好きなことにさっき気が付いたけれど、それ以上に虎太郎が僕を思っていることにたった今気が付いてしまった。
バカだと思いながらもバカなことをしてくれたことが嬉しくて、虎太郎に対する気持ちが涙と一緒に溢れて止まらなかった。
今すぐ虎太郎に会いたい、そんな思いでいっぱいで、志摩の目の前だということも忘れて泣き崩れてしまった。
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