「MY LOVELY CAT2」-3




「ただいまー、志季!志季ぃー?志ぃー季ぃー?!」

それから数十分後、虎太郎は呑気な声を出して戻って来た。
玄関を開けた瞬間から僕の名前を呼んで、返事がないとしつこく呼び続けて…バカの一つ覚えというやつだ。
そんな風にされると余計に返事をしたくなくなる。


「志季ーっ、志季ってばー!」

いつもならだいたい僕は、これぐらいのところで返事をしていただろう。
しつこい、うるさい、聞こえてる、そんな文句を言いながら。
だけどこの時ばかりはどうしても、そんな気になれなかった。
志摩は虎太郎にとって元飼い主だったわけだし、今でも慕う思いが続いているのはわかる。
もちろんそこに恋愛感情というものが存在しないこともわかってはいる。
そして志摩も虎太郎をそんな目では見ていないということも。
だって志摩はあんなにも隼人に夢中で、虎太郎だって僕に……いや、僕にはそう言う自信がない。
虎太郎が僕だけを見ていてくれている自信が、はっきり言って今はほとんどない。
だからと言ってそう思ってしまうのは、虎太郎のせいでも志摩のせいでもない。
これは僕の心の中の問題で、こんな醜い感情を抱く自分が悪いんだ。


「志季ー…あれ…?なんだ、いるなら返事してくれよー。」
「別にそんなのいちいちしなくたって…。」
「志季?どうしたんだ?」
「べ…別にどうもしないよ…。」

自分が悪いとわかっているのに、どうして僕は虎太郎のせいにしたくなってしまうんだろう。
何も気付かずにヘラヘラ笑いながら部屋に入って来た虎太郎がなぜだか許せなくて、苛々して…。
さっき志摩に対してしてしまった八つ当たりと同じことを、虎太郎にまでしようとしている。


「えー?でも…。」
「ホントに何でもないってば…。」
「志季、ちゃんとこっち見てくれよ、志季ぃ?志季ー、志季っ?」
「う…うるさいっ!!虎太郎は志摩と遊んでればいいでしょっ!僕なんか放っておいてよっ!!」

それでも頑張って我慢はしたつもりだった。
だけどどうしてもこのまま知らん振りをすることが出来なかった。
僕の名前を呼ぶ虎太郎の口が、ことあるごとに志摩の名前を出すことに。
鈍感でバカな虎太郎が、僕の気持ちも考えずにベタベタ引っ付いてくることに腹が立ってしまった。


「志季ぃ、やきもちか?」
「は……はああぁ?!な…っ、なななっ、何言ってんの!!バッババババカじゃないのっ!!」
「えー、でも志摩がそう言ってた…。志季はやきもち妬いて怒って帰っちゃったって。」
「なっ、ななな何勝手なこと…そそっ、そんなわけないでしょっ!!」

僕は一瞬呆気に取られた後、頭にカーッと血が昇ってしまった。
どうしてそんなことをいけしゃあしゃあと言えるんだろう。
顔色一つも変えずに、そんな恥ずかしいことが言えるんだろう。
自分で見なくてもはっきりとわかるぐらい、顔が真っ赤になっている僕がバカみたいじゃないか…!
気付いて欲しいと思いながら実際に気付かれてしまうと、こんなにも恥ずかしいものだったなんて思わなかった。


「大丈夫だ!俺が好きなのは志季だぞ!俺が交尾したいのは志季だけだっ!」
「バッ、バカっ!!違うって言ってるでしょっ!!ただちょっとお腹が痛かっただけ!!」

今一番意識してしまっている言葉…「交尾」が虎太郎の口から出て、僕の羞恥心は頂点に達してしまった。
これ以上この会話を続けていたら、僕は墓穴を掘ってしまう。
それなら適当に嘘を言って誤魔化せばいいと思った。
そうすればこの話は終わって、僕はこれ以上恥をかかずに済むのだから。


「お腹?」
「そ…そうだよっ!!返事しなかったのもそれで……ちょ、ちょっとっ!ななな何するの…っ!!」
「だって志季病気なんだろっ!布団に運んでやるんだっ!」
「い…いいってば…!!お、下ろして…虎太郎っ、下ろしてってば…!」

嘘なんて吐いてもろくなことにならない。
真っ直ぐな虎太郎にはそんなものは通用しない。
僕は今まで嫌と言うほど身に滲みてわかって来たと言うのに、また誤魔化そうとしてしまった。
結局会話を続けても続けていなくても、墓穴を掘ることに変わりはなかったというわけだ。


「やだっ!おとなしくしてろってば!」
「い…いいって言ってるのに…。」
「ダメっ!志季が死んだら俺泣く!志季が死ぬのなんかやだからな!」
「か…勝手に殺さないでよもう……。」

間近で見る虎太郎の顔は、いつもと違っていた。
僕を守ろうとして必死になっているその顔が男らしくて、何と言うか…カッコ良い、なんて思ってしまった。
腹痛で、しかも仮病なんだから死ぬわけなんかないのに、バカみたいに僕のことを心配している。
そう思うと急に虎太郎が愛しくなってしまって、僕は暴れるのをやめた。


「志季っ、何か欲しいものあるか?ジュースとかおやつとか…。」
「お、お腹が痛いって言ったでしょ……。」
「あっ!そっか!そうだった!!」
「バカじゃないの…。」

ベッドに下ろされた僕は、そのまま布団へ潜り込んで虎太郎に背を向けた。
頭の悪い虎太郎のバカな台詞なんかもうどうでもよくて、またドキドキが止まらなくなってしまったから。
顔を見たら僕は、それこそどうにかなってしまうと思ったからだ。
そういう意味では、強ちこれは仮病というわけでもないのかもしれないと思った。








「…うーん……。」

結局僕は自分で吐いた嘘のために寝込む羽目になって、おまけにまんまとぐっすり眠ってしまっていた。
自分の身体が押さえ付けられるような重さに苦しくなって気が付くと、そこには虎太郎の頭が乗っかっている。
既に部屋の中は薄暗くなっていて、窓の向こうではちょうど夕方を知らせる音楽が響いていた。


「虎太郎…。」

大丈夫だと言っても傍から離れることを嫌がってきかなかった虎太郎まで、いつの間にか眠ってしまったらしい。
あれだけ大騒ぎをしておいて、人の上で堂々と居眠りだなんて…。
床にぺたんと座ったまま僕の上に上半身を預けてスヤスヤと気持ちのよさそうな寝息をたてて、可笑しいったらありゃしない。


「虎太郎、虎太郎ってば…起きて…。」
「うーん…志季ぃ〜、死んじゃやだ…。」

だから死なないって言っているじゃないか。
僕の言うことを一から百まで信じるなんて、それじゃあダメだって何度も言ったじゃないか。
勝手に騒いで勝手に疲れて勝手にそんなところで寝て、どうしてやること成すこと全部が単純でバカなんだろう。
そして僕はそんな虎太郎のことが、どうしてこんなにも好きなんだろう…。


「虎太郎ってば!起きてって言ってるでしょっ!」
「…わあぁ!!し、志季…?」
「もうっ、人の上で寝ないでよねっ!重いんだからっ!」
「し、志季……!志季いいいいぃ───…っ!!」

僕は危うく惚気そうになるところを何とか振り切って、虎太郎の耳元で大きな声を出した。
突然のことに驚いて目を覚ました虎太郎は、起き上がるなり叫びながら僕にしがみ付いて来た。


「なっ、ななな何っ!!わっ、ちょ…何っ?何なのっ?!」
「やったー、よかったー!志季が生き返ったー!よかったああぁー!」
「ぼ…僕は死んでないよっ!勝手に殺さないでってさっきも…。」
「よかったー…よかったー!俺、一人になるかと思ったんだ、志季がいなくなったらどうしようって…志季ぃ〜… 。」

そんなに心配してたの…?
僕のこと…僕がいなくなったら困るって、そんなに思ってたの…?
半ベソをかいてしまうほど、本気で心配してたって言うの…?
どうして虎太郎はそこまで僕のことを好きなんだろう。
こんな僕をどうしてそこまで必要としてくれるんだろう。
腹痛なんてまったくの嘘なのに……!!


「こ、虎太……。」
「あっ、そうだ!志摩に頼んでご飯もらって来る!」
「こ、虎太郎…っ、あの……。」
「へ?どうしたんだ志季?あっ、そうか!腹痛だったんだな!」

そうだよ…、すぐに僕の言ったことを忘れるんだから。
腹痛だからご飯なんかいらないって、さっきも言ったでしょ?
何回も同じことを言わせないでよ…そう言えば誤魔化せる。
僕がどうして虎太郎の服を引っ張って引き止めたのか、本当の理由を知られずに済むのに…。


「…だ……。」
「志季?まだ腹痛い……。」
「や…やだ……。」
「え…?」
「…かな…で……っ。」
「志季……?」

なのに僕は、自らそれを破ってしまった。
誤魔化してでも嘘を吐いてでも、自分の本心を知られたくなかった僕が、わざわざ自分から墓穴を掘りに行ってしまったのだ。
そんな必要もないのに、この後恥ずかしくなって後悔するのはわかっているのに。
僕は虎太郎の服を掴んだまま、離せなくなってしまった。


「やだ…っ、いかないで……っ!」

僕の意外な発言に、虎太郎は大きな目をめいっぱい開いて丸くしていた。
いつもみたいにあからさまに喜んで抱き付いてくれれば、まだ引き返せたかもしれない。
何を調子に乗っているんだ、そう言ってすぐにいつもの僕に戻っていたと思う。
だけど虎太郎はそんな風にはならなかった。
初めて見るような真っ直ぐで澄んだ視線が痛くて、でもどうしようもなく好きで、気が付くと僕は自らその胸に飛び込んでしまっていた。






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