「All of you」-4
「……か…、銀華…。」
耳元で柔らかな声が聞こえる。
私の好きな、少しだけ鼻にかかった甘い声だ。
まるで夢の中にいるようなふわりとした感覚に、どっぷりと溺れてしまいそうになる。
「ん……。」
「銀華、おーい、大丈夫か?」
「あ……え……?!」
「大丈夫か…?」
「え…?洋平…?」
「ずっと起きねーからさ。」
私は勢いよく身体を起こして、部屋の中をきょろきょろと見渡す。
既に窓の向こうでは日が暮れていて、時間の感覚がよくわからない。
「え…と……シロ…。」
「シロと志摩なら隣でゲームしてるけど…。」
私はまだ現状が把握出来ていないのか、頭を抱えて考え込みながらわけのわからぬことを口にした。
そう言えばシロと志摩と昼食を共にして、二人が眠いと言うから私までつられてしまったのだ。
「シマ〜頑張れ!いけー、そこだ!」
「あーんダメだよシロぉ〜、オレやっぱり下手だよぉー!」
襖の向こうでは確かにシロと志摩の賑やかな声が聞こえた。
これ程騒いでいたのにも拘らず、まったく目が覚めなかったとは…。
一体どれ程長い時間、眠ってしまっていたのだろう。
これ程のことは私にしては珍しく、洋平が「大丈夫か」と言った意味もわかる。
「すまぬ…私としたことが夕食の準備もせずに…。」
「いや、それはいいんだけど…大丈夫かと思って。」
「それはどのような…。」
「だってずっと起きねーからさ。シロと志摩も心配してたぞ?猫神様なんかあったのーって。」
あの二人…気付いていたのか…。
普段は勘が鈍いくせに、このような時だけ鋭いとは憎らしい。
しかもそれを洋平に言うなど、余計なことをしてくれたものだ。
何時もと何処か違うということが他の誰かにわかってしまうなど、私としたことがとんだ失態だ。
「で?大丈夫なのか?」
「な……離せ……っ。」
すぐ隣に二人がいると言うのに、洋平は突然私を抱き締めて来た。
海に行くと言って出掛けて道に迷って泊まりになった時もそうだった。
襖一枚隔てただけのところで、私達は身体を繋げてしまった。
あの時もそうだったが、洋平は時々大胆になることがある。
普段は皆にからかわれると誤魔化すのに、このような時だけは人が変わったようになるのだ。
「だって心配だろ。」
「よいからもう離せと言っている…っ。」
あぁ…駄目だ…。
いつもより強い花の香りが鼻腔を刺激して、そこから全身が麻痺していくようだ。
温かい腕と胸にもっときつく抱かれたいと、望んでしまいそうになる。
「シマ、もうちょっとそっち…。」
「えー?もう詰めれないよー。わっわっ、シロ押さないでー!」
私はこのまま何処かへ堕ちて行くのを止められなくなりそうだった。
しかしその時大きな四つの瞳にじっと見つめられていたお陰で、現実の世界へ戻って来ることが出来た。
「うわ!!シロっ、志摩っ!!」
「へへっ、バレた!だって気になって〜。な?シマ!」
「うんっ!えへへー、洋平くんと猫神様ラブラブなのー。」
「気になっても見ちゃダメだろー?」
「洋平すぐ隠すんだもんなー。けちー。へんたいー。」
「そうだよー!ずるーい!!」
一瞬にして離れてしまったその身体が恋しくて仕方がなかった。
離せと言っておきながら、離さないで欲しいなどと思ってしまった。
シロや志摩がどうとか関係なく、抱き締めて欲しいと…。
そのようなことを望むとは、私は本当にどうかしてしまったのかもしれない。
「銀華、今日はもう出前でも取ろうぜ?シロと志摩も食ってくだろ?」
「わーい!やったー!出前、出前ー♪」
「えへへ、やったねシロ!あ、隼人に連絡しなきゃー!」
洋平は何があっても、外へ食べに行くとは言わない。
私が出掛けるのが嫌だと、人前に出るのが嫌だと気遣ってのことだ。
今までもこうしてシロや志摩が来た時ごくたまにだが、食べ物を注文して届けてもらうことがあった。
「シロと志摩は何がいいんだ?」
「んーと、んーと…。オレはー…。」
「はいっ!ピザがいいですっ!!」
洋平の提案にすっかりご機嫌な二人は、部屋の中を動き回りながらはしゃいでいる。
その動きが面白くて、少しだけ穏やかな気分になった。
余計なことを言おうが何をしようが、二人を可愛いと思うことは変わらない。
心から憎いと思うことなど出来ないのだ。
「ピザかー…でもそれは銀華が…。」
「猫神様、ピザ嫌いなんですか〜?」
「あっ、じゃあ中華のやつにするー?エビ〜♪」
「わ、私のことはよい…っ!お前達の好きな物で良いのだ。」
「え…いいのか?」
「猫神様〜…。」
「お、俺なんでもいいですっ!」
「何でも良いと言っているだろう!余計な気遣いは要らぬ!」
私は何を苛々しているのだ…。
構って欲しいと思いながら実際に構われるとこのような憎まれ口を叩いて…。
これではシロや志摩を子供だと言う資格など何処にもない。
「う……。」
「ふぇ…猫神様ぁー…。」
「す、すまぬ…!ただ本当に私は何でも良いのだ…。」
「ごめんなさい猫神様〜!」
「お、俺もごめんなさいなのー!」
「あぁもう…今のは私が悪かったと言っているだろう…。それぐらいのことで泣くな…。」
あと少しで二人は本当に泣いてしまうところだった。
しかし二人が泣き虫で助かったかもしれない。
そうでなければ私は、一度言い出すと止まらなくなってしまうかもしれなかったからだ。
その後は結局志摩が言っていた物を注文し、数十分後にはそれらが家に届いた。
それは昼に食べた物と同様、私には馴染みのない物ばかりだった。
「うあん、エビ落としたー!」
「大丈夫だ、ちょっとなら落ちても食べれるって亮平が言ってたぞ!」
「兄貴の言うことなんか全部信じちゃダメだぞシロ…。ほら志摩、新しいの。」
「あぁシロ、お前は口に沢山付いているぞ…。」
早速口に運んでいた志摩が、上に乗った具をぼとりと落としてしまった。
慌ててシロがそれを拾って皿の上に戻すが、そのシロをよく見ると口の周りに欠片や液体やらが沢山付いてしまっている。
ただ物を食べるというだけでも二人がいるとこのように大騒ぎになってしまう。
「えへへー、洋平くんお父さんだー♪」
「んじゃ猫神様はお母さんだな!」
「お父さんはやめろって…。俺まだそんな歳じゃねーよ。」
「そ、そうだ…。私はお前達の親でも何でも…。ほら、志摩も付いて…。」
シロと志摩は私と洋平のことを親みたいだとよく言っている。
それはただ二人が手間をかけさせて、私達が世話を焼くからというだけだ。
そのように言われると、絶対になることが出来ない関係になれたような錯覚に陥ってしまうではないか。
婚姻を交わすことなど出来ないと言うのに、親にもなれないと言うのに…。
「銀華も付いてるぜ?」
「え……。」
「ははっ、しょうがないよな。こんなのほとんど食ったことないもんな?」
「な…何をす……っ!」
一瞬生まれてしまった嬉しさを打ち消すために、志摩の口に手を伸ばそうとして洋平に止められた。
洋平のもう片方の手は私の口元に近付き、指先が唇を撫でる。
心臓が飛び出しそうなほど驚いてしまった私は、それが余りに大きくて、拒否しようとしても動けなくなってしまった。
「ん?どうした?」
「な、何ということを……っ。」
「え…?だって付いてたし。」
「だ、だからと言ってそ、そのような…っ。」
「えー?でも銀華だって今志摩にしようとしてただろ?」
「そ、それとこれとは…っ!」
私は余程激しく動揺してしまっているのか、言葉すら美味く出て来ない状態だ。
たったこれだけのことでこのような反応をしてしまうとは、これではまるで生娘ではないか…。
若い娘でも子供でもない私が、なぜこのような羞恥を曝さなければならないのだ…。
「け、喧嘩はダメですっ!」
「そ、そうだっ!洋平っ、ダメなんだぞ!」
「喧嘩なんかしてないって。つーか何?俺が悪いのか??」
「すまぬ二人とも、今のは何でもない…。気にしないでくれぬか…。」
心配したシロと志摩が眉を思い切り下げて私達を見つめていた。
これ以上大袈裟にするのも煩わしくなるだけだから、ここは一つ何も無かったことにして、場を収めるしかなかった。
しかし本当は心臓の高鳴りが止まないぐらい、私はどうにかなってしまいそうだった。
その後は際立った騒ぎもなく、何とか夕食を終え、シロと志摩はそれぞれの家に戻ることとなった。
二人だけで帰らせるのは心配だからと送りに出掛けた洋平が、あと少し経てば帰って来る。
そして二人きりになって、先程のことを蒸し返されたらどうすればよいのだろう。
私の頭の中はそのことばかりが駆け巡って、一人きりの部屋がやけに落ち着かなかった。
「ただいまー…銀華?銀華っ、どうした?!」
どうしようもなくなった私は、肩を竦め自分で自分の身体を抱いて小さく床に丸まっていた。
普通に見れば具合でも悪いのかと思ってしまうのは当然だ。
洋平が焦って私の元へ駆け込んで来て、きつく抱き締める。
「やっぱりどこか悪いの…か……?!」
また花の香りが、私の鼻腔を刺激した。
いつもよりも甘くて強い、蜜を含んだ花の香りだ。
いつの間にか私はその香りに誘き寄せられるように、洋平を押し倒して唇を貪っていた。
「何か変…じゃねー?今日…。」
私はまるで、これから食べられてしまう虫の気分だった。
知らずに近付いて、己の身を死滅させてしまう、愚かな害虫だ。
何も考えていないようで奥で何かを含んでいるような洋平は、恐ろしい食虫植物なのかもしれない。
それとも恋というものがそうなのだろうか…それすら考える余裕がない程、もう何が何だかわからなくなってしまっていた。
「そんなに急かすなってば…。」
「あ………!」
服に掛けた私の手を洋平が掴み、今度は私が床に押し倒されてしまった。
一気に剥がされた胸元に洋平の頭が沈んだ時、解放された手を首に回した。
確かに私は変だ。
妙な夢を見てからと言うものの、己の中の何かが狂ってしまっている。
それを抑えるためなのか何なのかはわからないが、この時は淫らな欲望に勝つことが出来なかった。
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