「All of you」-13




私が恩を返すと言っても、与一は何も望まなかった。
しかしそれでは私は帰れなくなるからと、それならばと提案したのが、家のことをすることだった。
勿論私はそのようなことをしたことがなかったが、一度説明をしてもらうとすぐに覚え、日を追う毎に何でも出来るようになっていった。
独り身の与一にとってはそれが有り難かったのか、毎日喜んで私の作る飯を食べてくれた。
それが暫く続いて、そろそろ戻らなければいけないと思い始めていた頃だった。


「それは本当か…?」
「そうだ…。私はそれを伝えたかったのだ…。」
「そうか…。」
「今まで世話になった…有り難いと思っている…。」

月明かりが恐ろしい程空を照らしている夜、私はとうとう与一に自分の思いを告げてしまった。
そしてすぐにその場を立ち去ろうとしたのだ。
もう思い残すことは何もない、後は猫に戻って、猫としての道を歩むだけだ。
そう思ったのも束の間、予想もしていなかった与一の言葉に、一気にその決心が消え失せてしまった。


「待ってくれないか…!」
「与一…私はもう行かなければ…。」
「これからも傍にいてくれないか…?」
「え……。」
「銀華、これからも傍にいてくれ。ずっと傍にいてくれないか…?お前と一緒にいたいんだ…。」
「与一……っ。」

初めて開かされる私の身体は、酷く強張ってしまっていた。
与一はそんな私に対して呆れるでもなく笑うでもなく、ゆっくりと溶かしていってくれた。
月明かりだけの薄暗い部屋の中で繋がった時は、生まれて初めての激しい痛みに気を失いそうになった。


「あ……は……っ!く……ふ……ッ!!」
「銀華…愛している…。ずっと傍にいてくれ…っ。」
「はあぁ…ッ、うっく…っ!わた…も…っ、私もだ……っ!!」
「銀華…っ、銀華……銀……っ!」

やがて訪れた快感は、私の身体をまるで別の物のように変えてしまった。
おかしくなりそうな中で耳元で囁かれる与一の声が心地良くて、何時までもそうしていたい気分だった。
本当に私は心から与一を愛していたし、与一も私のことを愛してくれていた。
これ以上ない幸せに溺れて、いけないことをしたという罪の意識なども忘れるぐらいだったのだ。

しかし罪を犯してまで手に入れた幸せと言うものは、そう長くは続かなかった。
与一と暮らし始めて約一年で、その幸せは終わりを遂げることとなる。


「銀華……。」
「与一…っ、今薬を…っ。」

当時の流行り病で亡くなる者は少なくなく、与一もまたそれにかかってしまったのだ。
なけなしの金で買った薬はもうほとんど残っていなく、それどころか食料まで底が尽きようとしていた。
与一は今で言う子供達に勉強を教える職に就いていたのだが、給料は最低限暮らしていけるような程しか貰っていなかった。
私には言わなかったが、経営者側から厳しい状況で金が払えないと言われても、与一は何の文句も言わなかったのだ。
私は陰でそれを知り、自分もどこかで働くと何度も言ったのだが、与一は決してそれを了承することはなかった。
銀華は何もしなくていい、傍にいてくれればいいんだ…口癖のように言っていたことに甘えてしまっていたことを今更ながら悔やんだ。
あの時反対を振り切ってでも働くことをすれば、薬も買えたかもしれない。
食料だって手に入ったかもしれない。
医者に診せることだって出来たかもしれないと。


「銀華…ありがとうなぁ…。本当に幸せだった…。」
「嫌だ…行くな……っ。」
「本当なんだ…銀華、本当に幸せだったんだ…。お前には悪いことをしたと…無理矢理引き止めて…っ。だがすまない…愛している…。」
「もう良い…何も話すな…っ。」

意識が薄れていく中で、最期まで与一は真っ直ぐだった。
この一年言えなかった私に対する謝罪の言葉を、命が尽き果てるその時になってうわ言のように口にした。
悪いのは私だ…悪いことをしたのは私なのに、与一はずっとその思いを抱えていたのだ。
これ程までに良い人間を連れて行くなど、私が信じて当てにした「神」というものは本当は存在しないのかもしれないと思った。


「銀華、愛している…銀……愛して……。」
「与一…?与一…っ?!─────…っ!!」

微かな声が完全に途切れた時、目の前が真っ暗になった。
思い切り声を上げて泣いてしまいたいのに、唇が動かなかった。
ただ次第に冷えていく与一の身体に触れながら、私は涙が枯れるまで泣き続けたのだった。

愛していると言ったではないか…。
ずっと傍にいると…言ったではないか…。
私を一人にして逝ってしまうとは…酷過ぎるではないか…。
私を置いていくなどと…やはり人間は酷い生き物だ…!
そのような人間というものなど、二度と信用するものか…。
所詮私達猫とは違う種だ、捨てようと思えば簡単に捨てられる。
与一も私を捨てたくなって、自らの命を落としたのかもしれない。
そのような馬鹿なことをしてまで、私のことが鬱陶しくなっていたのかもしれない。
そうだ…私は捨てられたのだ…。

そんな酷く有り得ないことを考えるしか、与一を忘れる方法などなかったのだ。
すぐに後を追うことを考えたが、私には出来なかった。
目の前で命が尽きていくあの苦しみを見ていたら、自らそのようなことをするのが恐くなってしまった。
所詮誰も己が一番大事だと言うことだ…。
誰かのために生きるとか死ぬとかなどと、考えるだけ馬鹿らしい。
甘く温かい思い出は、すべて封印してしまおう。
そうしなければ私はこの先生きてはいけなくなるだろう。
どのような罰でも受ける覚悟で神界へ向かうと、猫神は呆れたように笑いながら私を出迎えた。


「だから言っただろう…。流れに反することをすれば罰が当たるのは当然だ。」
「申し訳…ありません…。」
「お前のその目…初めて見た時からすべてわかっていたのだ。」
「そう…ですか…。」
「あれは恋をしている目だとな…その人間を思う情熱が目に現れていたのだ。愚かなものだな…。」
「申し訳ありませんでした…。」

私はただ猫神の前で跪いて頭を土の上に付けて、謝ることしか出来なかった。
それでもこの存在を消されたりせずに済んだのだから、まだよかったのかもしれない。
しかしこの時は、この先に想像を絶するような地獄が待っているとは思わなかった。


「どうだ、修業をしてみないか?」
「修業…?」
「お前のその目、気に入ったぞ。強い志を持っているのがわかる。修業を積んで神になってはみないか。」
「し、しかし私は罪を犯した…。」
「ふ……これは罰だ、わからないか…?忘れることが出来ぬまま、お前はここで生きるのだ。」
「はい……わかりました……。」

その時から私は、神になるための修業に明け暮れた。
修業で知り合った別の猫神や、修業する者の中でも上の立場の者…幾人かと身体を繋げたことはあった。
しかしそれはあくまで己の立場を守るため…あの燃え上がるような感情など微塵も湧かなかった。
私が本当に心から愛して、身体を預けたのは与一ただ一人だった。
そのような虚しいことをしているうちに、私は神として認められる程の術を習得することが出来た。
まさか当時の猫神も私が本当に神になれるとは思わなかったのか、少なからず動揺している様子だった。


「よくやったな銀華…これからは神として生きていくのだぞ。」
「はい…。」
「長年耐えた甲斐があったな…これでお前の罪も晴れることだろう…。」
「はい…ありがとうございます…。」

私は永遠とも言える命をもらった代わりに、永遠に感情を失くしたまま生きていく道を歩むこととなった。
それは猫神が言った通り、あの悲しみを永遠に忘れられない、辛く長いものだった。


「銀華さまぁー、お風呂がわきましたー。」
「銀華さまーぼくも桃と一緒に頑張りました!」
「そうか…ありがとうな、桃、紅。」

それでも何十年も経てば、完全には無くならなくとも、記憶は次第に薄れていくものだった。
神という職が向いていたせいもあったのか、いつの間にか私は何事もなく平穏な暮らしをすることが出来ていた。
従猫として私が拾った桃も紅も私の言うことを聞き、私に尽くしてくれた。
私は桃と紅に囲まれ、このままずっと過ごしていければいいと思っていた。
勿論それはただ感情を殺していたせいだと言うことはわかっていたが、それで辛い思いが少なくなるのならばそちらの方が楽だった。


「銀華さま、今度はあの魔法を教えて下さい!」
「あー、ずるーい、ぼくもー!」
「わかったわかった…ほら桃も紅も今夜は遅い、もう寝るのだ。」

暗い闇が訪れる度に、寂しい気持ちになったりもした。
一人で眠りに就くのは寂しくて冷たくて、寝付けないこともあったのは事実だ。
しかしそのような夜を乗り越え、私は神を全うしようと懸命に生きて来た。
桃や紅に魔法を教え、掟や常識を教え、役に立つような神に育てて行くのが私の使命なのだと心に決めていた。
もう二度とあのような…私のような愚かな猫を世に出さないために。








「そこまで大した話でもなかっただ……よ…洋平…っ?!」
「た…っ、大したことあるだろ……っ。」
「お、お前…、な、泣いているのか…?」
「だって辛いじゃんか…っ、俺…まさかそんなになんて思ってなくって…っ。ごめん…嫌なこと聞いて…っ。ホントごめんな…っ?」

一通り話を終えて顔を上げると、なんとそこには、大粒の涙を流している洋平がいた。
私は余りにも驚いて動揺してしまい、洋平の頬を拭おうとする手が震えてしまった。


「馬鹿だな…。」
「何だよ…、どうせバカだよ…っ。」
「お前は馬鹿だ…私のためになど泣く奴があるか…。」
「俺…っ、銀華…俺な……俺……っ。」

お前は本当に馬鹿だ。
他人の過去の話を聞いて嫌な思いをするどころか、涙を流すなどと…。
人が良いと言うか何と言うか…何をどうやってもお前に敵う奴などいないではないか。
他人のためにそのような綺麗な涙を流すお前以上に素晴らしい奴など、この世に誰一人としていない…。


「洋平……っんう!よう……んんっ!」
「俺…俺は絶対しないから…。」
「は……苦し……っ、んう……っ!」
「そりゃいつかは死ぬけど…絶対お前を置いていかない。ずっと傍にいる。離れないから…っ。」
「洋平…っ、ん…!は……っんん……!」
「俺…最初にそう言ったよな…?あれ…、変わってないからな…?信じてくれよ…銀華…っ。」

溜めていたお湯は既に浴槽から溢れ出し、座っていた私と洋平を服ごと濡らしていた。
湯気でよく見えない中でする激しい口づけは熱くて、どうにかなってしまいそうだ。


「は…ぁ…っ、んん…っん…!」
「好きなんだ…すっげぇ好きなんだって…銀華…っ。」
「洋平…っ、私もだ…っ、私もお前を…。」
「愛してるんだ…ホントだから…銀華…、銀華……っ。」

私もお前を愛している。
お前に出会った時、長年閉じていた自分の心というものを開いてもらったような気がした。
もう恋などしない、溺れることなどないと思っていた私を、お前はこんなにも夢中にさせてしまった。
過去のことなどどうでもよくなるぐらい、洋平という人間に溺れてしまった。
それ程までに深い思いだったことを忘れそうになってしまったのは、本当に私が悪かった。
一度でも洋平のことを疑い、信じることを忘れてしまったのは、完全に私が悪かったのだ。
そしてもう駄目だと、終わりだと思ってしまっていた。
しかしお前は私を許してくれ、また愛してくれた。
私はもう…これ以上望むことなど何もない。
洋平、お前がいてくれれば…それ以上に幸せなことなどないのだ…。


「銀華……好きだよ…。」

お湯の音に混じって耳元で聞こえる洋平の声が、魔法のように私を溶かしていく。
私に魔法をかけられるのはあの猫神でもない、この洋平ただ一人だ。
私は洋平の言葉に答えるようにきつくしがみ付き、湯気で湿った柔らかな髪をくしゃくしゃに撫で回し、唇が首筋へと下りて来るのを待った。





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