「All of you」-12




来る時とはまったく逆の心持ちで、私は洋平と共に病院を後にした。
さすがに倒れた人間を歩かせるわけにもいかなくて、来た時同様舗道で車を止めそれに乗った。
なぜだか車内では私も洋平も黙ってしまい、その空気が何とも言えない程気恥ずかしかった。
まるで初めての恋に落ちて、その相手と一夜を共にするような…そんな新鮮で照れ臭い気分になってしまい、顔を上げることすら出来なかった。


「どうした?入れよ。」
「あぁ…すまぬ…。」

家に着いて玄関を開けた瞬間、私は思わず動きが止まってしまった。
今までの中では一番長い家出だったが、生きる時間の中にしてみればほんの一瞬だ。
たったそれだけの短い時間なのに、家の中を流れる空気や匂いが懐かしく思えた。
それは帰って来た、戻って来たのだ、ということを実感するのには十分過ぎる程だった。


「風呂でも沸かすか…。」
「お前は休んでいた方が…私がやるから…。」

洋平に促されて家の中へ入り、私は早速風呂を沸かそうと浴室へ向かった。
今までも家のことは私がしていたのだが、またそれが出来るのが嬉しかった。


「銀華…。」
「休んでいろと…。」
「うん…その前にさ…。」
「洋平…?」

浴室に入り浴槽に栓をして、風呂釜の開閉器に手を触れようとすると、背後から洋平の声が聞こえた。
休んでいろと言ったはずなのにわざわざやって来た理由は、はっきりと言わずとも何となくわかっていた。
私がどうしようかと迷っていると、浴槽に流れ込む湯の音が響く中、洋平の方からそれを切り出した。


「聞かせてくれないか…?お前のその…過去のこと…。」
「しかしそれは…。」
「話すのは嫌かもしんねーけど…お前の辛かったこと…、俺もわかりたいんだ…。」
「洋平…。」

それほどまでに私のことを思ってくれているのか…。
聞いて辛くなるのは洋平の方かもしれないのに、それでも聞きたいと言うのか…。
私もこのまま黙って過ごすことは出来ないと思ってはいたが、そのきっかけが掴めなかったのだ。
こうして私は、湯気が立ち上る浴室にしゃがみ込んだまま、初めて過去のことに関して口を開いた。








あれは100年程前のことだった。
私はとある町で生まれた、名もないただの野良猫だった。
産み落とされてすぐ後に母猫はどこかへ行ってしまい、一人きりになった。
近くには共に生まれたと思われる兄弟達がいたが、まだ目もはっきり開かぬまま、この世を去ってしまっていた。
小さな猫が生きていくには野良の世界は厳し過ぎるということを、私は生まれてすぐに知った。

それから大きくなるにつれ、野良の世界での縄張りだとか常識だとか言うものも、次第に身に付けて行った。
時には大きな猫に襲われたり喧嘩になることがあって、生傷が耐えない時期もあった。
そんな中でどの猫達より恐かったのは、人間だった。
この世を支配していると勘違いでもしているのか、大きな顔で歩く人間達には随分と酷い目に遭った。
道を歩いていて石をぶつけられたこともあれば、高い場所から落とされそうになったこともある。


「きったない猫だなぁ。」
「おーい、おまえ本当に猫かぁ?」
「ちゃんと鳴くか試してみようか!」

ある晴れた春の日、私は何時ものように町の人間達に囲まれていた。
このようなことはいつものことだ…何とか逃げるか耐えるか…。
そこで命を落としてもそれもまた運命だ、仕方がないと諦めることが出来る。
あの兄弟達を思えば、自分は長生きした方ではないか…。
そんな自暴自棄にも思える思いでいたところを、丁度通りがかった人間に助けられた。


「駄目じゃないかっ!可哀想だろう?」
「わっ、先生だ!逃げろー!」

その人間こそが、私の愛した与一だった。
私がこれまで戦って来た者達を一声で退かせたのを見た時は、何と素晴らしい人間なのかと思えて仕方がなかった。
世の悪を退治するような英雄に思えて、私は尊敬にも似た目で見ていたのだ。


「よしよし、もう大丈夫だぞ?」
「…にゃ……。」

与一は何の躊躇いもなく手を差し出して私を抱き上げ、頬を摺り寄せて来た。
下手をすれば人間の方が傷付けられると言うのに、何と勇気があることだろうと思った。
最初は不審に思っていた私もすぐ傍の笑顔が目に入ると、自然に身体を摺り寄せていた。
私はその時初めて、人間に甘えるということを覚えたのだった。


「お…来たな?」
「にゃー…。」

それからと言うものの、私は与一の元へ通い続けた。
与一は私を飼い猫にするつもりがあったのかはわからないが、私自身は飼い猫になるつもりはなかった。
それでも私が毎日のように通った理由はただ一つだった。


「美味いか?はは、くすぐったいぞ…。」

あの時見た笑顔が忘れられなかった。
もう一度…何度でも、毎日でも見ていたいと思った。
私を追い出すどころか受け入れてくれた与一に、私は恋をしてしまっていたのだ。


「お前…綺麗な猫だなぁ…。うーんそうだなぁ…。」

助けてもらった後私は無理矢理ぬるま湯の中に入れられ、汚れていた身体は元の毛色に戻った。
白色の中に混じる銀色と僅かな青みを帯びた己の身体が、太陽の下で光っていた光景を今でも思い出すことが出来る。
ちょうど咲き頃だった季節の花が私の身体に舞い落ちて、与一は目を細めて笑いながら私の身体を高く抱き上げたあの時のことを…。


「銀華…よし、銀華にしよう。お前の名前は銀華だ。」
「にゃうん…。」

初めて付けてもらった名前を呼ばれる度に、小さな心臓が大きく揺れるのがわかった。
しかし私は猫、与一は人間だ、この恋が叶うことなどない。
それをわかっていながら傍にいることは、とても辛いことだった。
そろそろ通うのはやめた方がいいのかもしれない、そう思い始めていた。
そんな時どこからか耳にしたのは、猫の神様の話だった。
本当がどうかもわからないその話を、私は信じたかったのかもしれない。
信じることで己の願いが叶うなら…そういった欲望にも似た願望を何が何でも叶えたかったのだ。
人間の姿になってこの気持ちだけでも伝えたい…そう思うといてもたってもいられなくなった。
気が付いた時には、話に聞いた神界とを繋ぐ場所へと来ていたのだ。


「なるほどな…助けてもらった礼が言いたいと言うわけだな。」
「はい…。」
「ではお前の願いを叶えてやろう。人間の姿にしてやるぞ。」
「本当ですか…!ありがとうございます…。」

猫の神様の話は、本当だったのだ。
私が事情を話すと、当時の猫神は快く頼みを聞いてくれた。
すぐにでも人間にしてやると言うことに喜びを隠せずにいると、急に猫神の顔が厳しくなった。


「しかし約束するのだぞ。」
「約束…?」
「礼を言って恩を返したら戻って来るのだ。決して人間として生きようなどと思うのではないぞ。流れに逆らうことをすればお前にそれが返って来るだろう。」
「…はい……。」

それは私にとって、辛い言葉だった。
礼を言うことは出来ても、それだけなのだから。
いや…初めからそれ以上を望んではいけないのだ。
種の違う者同士が共に生きて行くことなど出来るわけがない。
叶わないとわかっている恋を叶えようとしてはいけない。
ただ気持ちだけを言えたらそれで良い。
この時の私は本当に純粋にそう思い、猫神の話に頷いたのだった。

それからすぐに私は魔法をかけてもらい、人間の姿にしてもらった。
心臓を高鳴らせながら与一の元へ向かうと、やはり本人は驚きを隠せない様子だった。
それはそうだ…私とてそのような魔法の存在を信じられなかったのだから。


「本当に…?銀華なのか…?」
「信じてはくれないと思うが…。」
「すごいな…。」
「え……?」

驚くのは当然としても、驚いた後にどのような反応をされるのかが、正直に言うと恐かった。
気持ちが悪いと追い払われるか、馬鹿にするなと罵られるか…。
しかし与一が見せたのは、そのどちらでもなかった。


「そういうことってあるのか…。今嬉しい気持ちでいっぱいだ。」
「し、信じてくれるのか…?」
「あぁ…お前のその目は嘘を吐いているとは思えない。」
「与一……。」

同じ高さの目線で見る与一の笑顔は、天高く照らし出す太陽の光よりも眩しいと思った。
純粋で真っ直ぐで汚れなど知らない、その笑顔がもっと見たくなってしまった。
もっと傍にいて、ずっとその笑顔を見たい…。
この姿のままで傍にいたい…そう望んでしまった。
勿論それはいけないことだとわかっていたから、諦めるつもりでいた。
伝えることだけ伝えて、猫神に言われた通り後は元に戻るつもりだったのだ。





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