「All of you」-11
「どこに行ってたんだよもう…。」
「し…志摩の……志摩の処…へ……。」
「心配したんだからな…。」
「あ…あぁ……。」
あの時…家を出る前の言い争いの時よりも遥かに強い力で、私の頬は打たれていた。
私は一瞬何が起こったのかわからずに呆けたまま、洋平の質問になぜだか素直に答えてしまった。
扉の傍ではがたんという音が聞こえて、おそらくシロの恋人もこのような事態になるとは予想をしていなかったのだろう。
慌てて洋平を止めに入ろうとしたところで、私の身体はぎゅっと抱き締められていた。
「よかった…ちゃんと生きてて…。」
「そ、それは私の台詞だ……。」
消毒薬の匂いに紛れた洋平の身体は、今までにないぐらい温かく感じた。
私よりも少しだけ広くて厚みのこのある胸の中に、飛び込みたかった。
いつまでも包まれていたいと思うような安心感のあるこの腕に、抱き締められたかった。
「あのよ…俺もう帰るぞ?」
「あ…兄貴…!ごめん、忘れてた…!」
「忘れてたじゃねぇよまったく!人騒がせもいい加減にしろよな!」
「ご、ごめんって…!」
「つぅかんなデカい身体して栄養不足でぶっ倒れるなんて、笑わせんなよな。初めて聞いたぞんなの。恥ずかしいったらありゃしねぇ。」
「そ、それは言うなって…!!」
後ろで見ていたシロの恋人が言った言葉を聞いて、私はまた呆けてしまった。
栄養不足…?
確かにこの身体でそれは余りにも不似合いだ。
「んじゃあな。後はイチャイチャするなり何なり勝手にやってくれ。」
「あ、兄貴…!ごめん…!あと…、ありがとう!」
「礼なら今度たっぷり返してもらうから気にすんな。」
「か…返すのかよ…。」
シロの恋人は最後までそんなことを言って、部屋を去って行った。
それに対してぶつぶつと文句を呟く洋平が何だか可愛らしく思えて、可笑しくなってしまった。
「あー…その…栄養不足って言うのはな…。」
「いや…い、今のは忘れるから気にするな…。」
「わ、笑うなよ…!大変だったんだからな…!」
「洋平……?」
気まずくて、なのに穏やかな妙な空気が流れたかと思うと、洋平は頭を掻きながら私から離れ布団に伏せてしまった。
その腕が恋しくて堪らない私は、追い掛けるように必死で掴んだ。
「お前が出て行ってから食べるもんもねーし食欲もねーし…。お前の作ったご飯とか弁当とか思い出して泣きそうになって…。夜は眠れねーし、お陰で仕事中居眠りするし、お客さんの注文は間違えるし、発注ミスはするし…もう散々だった。」
「洋平…。」
「こんなになったの初めてだったんだよ…っ。健康だけが取り柄だった俺が倒れるなんて情けねぇ…っ!超カッコ悪ぃ!」
「よ、洋平……っ!」
私はどうすれば良いのだ…。
お前にここまで思われて、私はその恩をどう返せば良いのだ…?
私はこれからもお前の傍にいても良いと言うのか…?
あのような酷いことをした私を許すと言うのか…?
「でも銀華は絶対怒ってると思ったから迎えに行くのも恐かったし…っていうかどこにいるかもわかんなかったし…。」
「すまぬ…、すまぬ…っ。」
「それに自分から言ったのに折れることは出来なかったんだ…。どうしてもわかってもらいたくて…。なのに倒れるなんてホント情けねぇ…最悪だよな…。」
「すまぬ…洋平、すまなかった…っ。」
今度は自分から洋平の腕の中に飛び込んで、その温かさを全身で感じた。
洋平は情けなくなどないし、最悪でもない。
情けないのは、最悪なのは、倒れるまでにさせてしまった私だ…。
「ごめん…さっきの…痛かっただろ…?なんかつい高ぶっちゃって…。」
「痛くなどない…。」
「嘘吐くなよ…こんな真っ赤に腫れてんだぞ…?せっかく綺麗な顔なのに…ごめんな…?」
「良いのだ…。」
私のこの顔などどうなっても良い。
それ以前に私は綺麗でも何でもないのだ。
いくら顔が綺麗と言われようが、この心の中は実に醜い。
その醜い心も含めて私の全てを受け入れてくれたのは洋平だったのに…私は本当に何ということをしてしまったのだろう。
「一回は一回だから返していいよ。」
「もう良い…っ、そのようなことが出来るわけが…。」
「でもあの時返しただろ?」
「それは…。」
「俺も言い過ぎたから当然のことだ。今もやり過ぎたし…。」
「洋平…。」
お前も後悔していたのだな…。
私と同じように、あの時のことを悔やんでどうすれば良いのか迷っていたのだな…。
先程の言葉だけでは信じられなかった事実も、こうして抱き合うことで真実味を帯びて来る。
「ほら…。」
「………っ。」
洋平に誘導されるように、私は掴まれた手を天井の方に振り翳した。
しかし同じような痛みを洋平に与えることなど出来るわけがなかった。
そのようなことをしなくとも、洋平は私以上に痛み苦しんだはずなのだから。
「え……?ぎ、銀華…っ?」
「…洋平……っ、すまぬ……っ、本当にすまなかった……っ。」
私は目の前にある洋平の頬に、何度も繰り返し唇を寄せた。
自分でもこのような恥ずかしい行為がよくも出来たとは思うのだが、この時は夢中だったのだ。
洋平が私を許してくれたこと、私を思っていてくれたこと、すべてにおいて喜びや嬉しさや愛しさを感じて堪らなかった。
「初めてじゃねー…?お前からしてくれたの…。」
「す…すまぬ…。」
「そんな真っ赤になるなよ…こっちまで恥ずかしくなるだろ…。」
「すまぬ……。しかし洋平…っ。」
頬に触れていた唇を一度離して、その恥ずかしいことを言う唇を塞いでしまいたい。
そこから熱を分かち合って、溶け合いたい。
夢の中にいるようなあの甘い時間をもう一度…いや、何度でも味わいたい。
それは私の中で再びはっきりと芽生えた、欲望と言うものだった。
「お前が欲しい…お前が好きなのだ…。」
洋平が何かを言う前に、私はとうとうその唇を塞いでしまった。
激しく絡み合う舌に紛れて注ぐ唾液が洋平の口内に溢れ出し、下に置いてある枕まで濡らしてしまう。
ずっとこの時を待っていたのだ…。
再び洋平と抱き合えるこの瞬間を、私は望んでいた。
諦めるなどと言うのは嘘だ…。
それが出来るのならば、最初から好きになどなるものか…。
「銀華…、帰ろう…?な…?」
「え……。」
一瞬唇が離れた隙に、洋平の言葉によって私は現実世界に引き戻された。
気が付くと私は洋平の上に乗り、布団を剥がそうと手を掛けてしまっていた。
「ここでするのもいいけどさ…。ほら、聞こえちゃうだろ?」
「な……!」
「せっかくだから家に帰ってゆっくりしたいじゃん?銀華の声も聞きたいし…。」
「ば…ばかも……っ。」
私は何ということをしてしまっていたのだ…。
己の欲望に任せてこのような公共の場で行為に移ろうとしていただなんて…。
洋平に言われなければそのまま続けてしまっていたのかと思うと、今更ながら恥ずかしくて顔から炎でも出てしまいそうだった。
「な?帰ろう?」
「し…しかしお前は倒れたのだろう…?ここにいなくても良いのか…?」
「あー、点滴してもう帰っていいって言われてたんだよなー…。それを兄貴が心配だからって自分ちに連れて行こうとして、シロしか鍵持ってないから待ってろとかわけわかんねーこと言うから…。」
「そ、そうか……。」
私は洋平に顔を向けることが出来なくなってしまった。
今までしていたことを考えると矛盾しているが、少し冷静になればこれだから困るのだ。
あれ程素直になろうと思っていても、すぐには実現出来ないのが自分でも悔しかった。
「銀華…その…、帰って来てくれるんだよな…?」
「洋平…?」
自信がなくて不安げな声に振り向いた私は、その声と同様の表情を浮かべた洋平を見た。
身体は大きいのにそれではまるで小さな動物ではないか…。
そういうところが子供のようで、単純で、私は好きなのだ…。
「なぁ頼む…帰って来てくれよ…。」
「それは私が頼むことだろう…?」
「そっか…よかった、帰って来てくれるんだな…。」
「も、もう離せ……っ。」
扉の近くで後ろから抱き締められた私の心臓は、高鳴りを始めていた。
胸の前で組まれた洋平の腕が熱くて、今にも溶けてしまいそうだ。
「何だよ…離せとか言うなよ…。」
「だ…駄目なのだ…っ。」
「え…?何?」
「離さないと…今すぐ抱いて欲しいと思ってしまうから…っ、だから駄目なのだ…っ、離せ…っ。」
洋平はすぐに私を解放し、置いてあった荷物を取りに寝台の方まで戻った。
そして再び扉の傍まで来たところで取っ手に掛けた私の手を包むように自分の手を重ねた。
私は震える手を上からぎゅっと握られて、ゆっくりとその扉を開ける。
そこは勿論病院の廊下だったが、私は新たな道へ踏み出したような気分で、洋平と共に歩き出した。
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