「MY LOVELY CAT」-8




僕は一体、何をやっているんだろう…。
いくら虎太郎に早く「出て行け」と言わなければいけないからって、学校を早退したりして…。
今までそんなことをしたことがない僕が、どうして虎太郎のためにそんなことまでしてしまったんだろう。
それにこの胸の苦しさは、家に近付けば近付くほど、治まるどころかひどくなっていくみたいだ。


「お前も好きなのかー?んじゃーこれやる!」
「みゃう〜ん♪」

……え?!
早足でマンションの前に来た時、どこからか聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。
僕が今一番会いたくないのに、会わなければならない奴の声だ。
だけど家にいるはずのそいつが、どうしてこんなところに…。
まさか…。
僕の額には焦りと動揺で冷や汗が滲み始め、急いでその声のする方に駆け寄った。


「こっ、こここ虎太郎……っ?!」
「…ん?あー!志季ぃー!志季だー♪」
「な、何やってんの?!あー!!み、耳…っ、し、尻尾も…っ!!」
「こいつに俺のおやつあげたんだ。可愛いだろ?」

虎太郎はマンションの脇にある庭にゴロゴロと寝転がって、小さな猫とじゃれ合っていた。
部屋から持って来たのか、おやつの魚肉ソーセージをあげている。
服は着ていたものの、耳はもちろん出しっ放し、苦しいと言って昨日ズボンに開けた穴からは尻尾が飛び出している。
こんなところを見られたら、大騒ぎになるじゃないか。
人間の世界のことをまったくわからないくせに、勝手なことをして…。
だから僕は何も知らない奴って言うのが嫌なんだ。
そういう奴に巻き込まれて面倒なことになるのは嫌だって、何度も言っているのに…。
それすらもわからないほどバカな虎太郎に対して、僕はどうしたらいいのだろう。


「ちょ…っ、そんな呑気なこと言ってる場合じゃな……わぁっ!!」
「俺、日なたぼっこ大好きなんだー。志季もおいでよ!」
「なっ、ななな何すんのっ!!は、離し……っ。」
「ほら、ぽかぽかして気持ちいいー…。」

僕は虎太郎に腕を引っ張られ、庭の上にダイブしてしまった。
おまけに虎太郎が上に乗っかって、とても危険な状態だ。
早く連れて家の中に入らなければいけないのに…。
誰かに見られる前に、無理矢理でもここから連れて行かなければいけないのに…。
僕の気持ちなんかお構いなしに虎太郎がそういうことをするからいけないんだ。
だから僕は調子が狂って、怒ることも罵ることも出来なくなってしまう。


「いい加減に…。」
「今日いい天気だよなぁー。見て、志季。」
「え…?」
「きれーな青空。気持ちいいー…。」

そういえば、空なんか見たのはいつ振りだったっけ…。
物凄く小さい頃にお母さんとお父さんと手を繋いで公園に行った時以来かもしれないけれど、小さ過ぎたためにほとんど覚えていない。
虎太郎の指が差すのは雲ひとつない青空で、僕は多分、こんなに綺麗な空の色は初めて見たような気がする。
だいたい今までは空なんか見る暇もなく、心に余裕もなかった。
つまらない毎日をただ消化するだけで、楽しいことなんか何もなかった。


「へへっ、志季〜…。」

ぼんやりと昔を思い出しながら虎太郎に抱き締められて、僕は文句も言えなくなっていた。
空が綺麗で、僕の上にある虎太郎の身体が温かくて、気持ちがいい。
近くでさっきの小さな猫が、ソーセージをむしゃむしゃと食べる音だけが聞こえる。


「志季…。」
「え……?んう?!ん──…っ、んん───…っ!」
「志季好き、志季が大好きなんだ…。」
「ちょ……んっ、ん………!!」

僕は油断してしまっていたせいか、迫って来る虎太郎の唇に気付かなかった。
柔らかくて熱い唇が僕の唇に重なって、身体が熱くなる。
舌を絡まされ注がれる唾液が、唇の端から零れ落ちて僕の顎まで濡らす。
全身の力が抜けて、抵抗することすらままならない。
今までにないぐらい激しいキスは、僕のすべてを溶かしていく。
こんなことをするなんて許せないはずなのに、僕はいつの間にか虎太郎の背中に手まで回してしまっていた。


「志季…。」
「え…?あ…?ちょ……ダ、ダメええぇ!!!」
「わあぁっ!!」
「ななな何して…っ、何てことするのっ!!」

僕は一瞬、どこか別の世界に行ってしまっていた。
現実離れしたそこで、虎太郎に酔ってしまっていたのかもしれない。
虎太郎の手が制服の間に滑り込んで来たことで、僕はやっとそこから脱出することが出来た。
上に乗っていた虎太郎の胸を押し退け、僕よりも大きな身体を思い切り突き飛ばした。


「何って…交尾だけど…。」
「バ、バカじゃないのっ!しないって言ったでしょ!」
「えー?でも志季気持ちよさそうにしてたからいいのかと思って…。」
「ちょ…調子に乗らないでよっ!僕のどこが気持ちよさそうだったって言うの?!いい加減なこと言わないでよもう!!」

僕はとても、嘘吐きだ…。
本当は一瞬だけ、気持ちいいと思ってしまったのに、それを認めたくなかった。
初めてした時とは何かが違うキスに、溺れそうになってしまったから。
本当に突き飛ばしたかったのは虎太郎じゃなくて、そんな自分に対してなのかもしれない。
このまま虎太郎の思い通りになってしまうわけにはいかないと、自分自身に喝を入れたかったのだと思う。


「でもー…。」
「でもも何もないっ!まったくもう…。」
「志季ぃ〜…。」
「どうして…?」
「え…?」
「どうしてなの…?」

バカみたい。
やるだけやって、そんな顔をして落ち込んで。
怒られるようなことだってわかっているなら、そんなことをしなければいいのに。
違う…虎太郎はわかっていないんだ。
飼い主の志摩にバカなところはそっくりで、それがわざとじゃないところまでそっくりだから、僕は本気で怒ることが出来ないんだ。
バカみたいなのも、虎太郎じゃなくて僕だということ…?


「どうして?ねぇどうして僕が好きなの?どこがいいの?どうして僕なんか…!」

どうして僕みたいな奴を好きになったりするんだろう。
だいたい、猫だった時だって僕と虎太郎は仲が悪かったはずなんだ。
あんなに僕に突っ掛かって来たくせに、今更好きだなんて言われても困る。


「志季って意地悪で性格が悪くてすぐ怒るしやなことばっかり言うし…志摩をいじめるし俺のこと睨むし…。」
「よっ、余計なお世話だよっ!!」
「でもそれって、寂しいからじゃないのかって…。そうやって気を惹こうとしてるのかなって思ったら可愛くて…それで好きだなーって思った。」
「ううううるさいよっ!!そ、そんなことしてないよっ!」

どうして僕が虎太郎にそこまで言われなきゃいけないんだ。
今まで誰も言えなかったことを平気な顔をしてズバズバと言って…。
お父さんにだって言われたことなんかなかった。
志摩も隼人も、そこまでは言うことが出来なかった。
学校の皆も陰でコソコソ悪口を言うだけで、誰も僕に向かってくれたことなんかなかった…。


「でも志季は寂しいんだっ!!俺にはわかるんだ!!」
「か、勝手なこと言わないでよ!虎太郎に何がわかるって言うの?!」
「だって初めて志季と二人になった時…俺、猫だったけど見てた!志季が寂しそうな顔して落ち込んでご飯食べなかったの見てたんだっ!」
「そ、そんなことしてないっ!!」
「してた!!それに俺に優しくしてくれた!俺、猫だったけどちゃんと覚えてるんだからなっ!!」
「や、優しくなんかしたつもりないっ!虎太郎が勝手に思ってるだけでしょ!!」

どうしよう…どうしよう…!!
バカのくせに…猫のくせに全部見透かしていただなんて…!!
僕は言葉にもしていないし、表情だけで虎太郎にわかるはずなんかないと思っていた。
だって猫が人間の気持ちをわかるわけがないって…それは僕の間違いだったということ?!


「俺、志季のこと諦めないからな!志季のこと好きだからな!志季は絶対寂しいはずなんだ。」
「そ、そんなことないってさっきから言ってるじゃない…。」
「だから俺が寂しくないように一緒にいたいんだ。志季のこと、俺が幸せにしたいんだっ。」
「バカじゃないのもう…!」

何が幸せにする、だよ…。
猫が人間に向かってそんな言葉を言うのなんて、初めて聞いたよ…。
何をどうやって僕を幸せにするって言うの?


「でも志季…。」
「うるさいもう!勝手にすればいいでしょ?!」
「え?いいのか?じゃあ交尾…。」
「それとこれとは別!!僕はただ…うちにいたければ気が済むまでいればって言ってるの!変な誤解しないでよっ。」

出て行かせるつもりで早退までして来たって言うのに、僕は本当に何をやっているんだろう。
そんなことをして本当に虎太郎と交尾…なんてことになったらどうするつもりなんだ。
自らその可能性を高めて、面倒なことに関わって、後悔するかもしれないのに…。


「出来るもんならやってみれば?幸せになってできっこないんだから!」

僕の止まらなくなって、ついにはそんなことまで口走ってしまった。
それでもし本当に幸せにされたら…僕は虎太郎に一生頭が上がらないだろう。
志摩や隼人にも、もう何も言えなくなるし、顔向けも出来なくなるかもしれない。
それでもそんなことを言ってしまったのは、少しだけ嬉しかったから。
本当の僕を見ていてくれた人(人じゃないけど…)がいて、本当に少しだけだけど、嬉しかったから…。


「うんっ!俺頑張る!志季ー、好きだぞ!」

誰か答えを知っているのなら、僕に教えて欲しい。
僕の選択は正しかったのか、間違っていたのか。
僕はただ絆されているだけなのかどうなのか。
本当は心を鬼にして、ちゃんと「出て行け」と言うべきだったのか…。

それからずっと続いているこの胸の苦しさの意味を、教えて欲しいと思った。





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