「MY LOVELY CAT」-7
「あっ、志季おかえりー♪」
自分のところに帰れば帰ったで、今度は虎太郎が笑顔で出迎える。
能天気ですぐにデレデレするのは、やっぱり飼い主の志摩に似たのかもしれない。
「ほ、ほらっ、ご飯っ。」
「うんっ!ありがと!」
僕はご飯を叩き付けるようにテーブルに置いて、温めたカレーを差し出した。
初めて使うスプーンに悪戦苦闘しながらも、虎太郎は嬉しそうにそれを平らげた。
僕はそんな虎太郎とは逆に、食欲がまったく湧かなくて、何も食べずに学校へ行く準備を済ませた。
「それとこれ…、ひ、昼ご飯だよっ。」
「え?あれ?あれ?」
「な、何…?」
「うーん、でもこれって志季のじゃないのか?志摩にいつももらってたのと似てる。」
僕はお弁当を袋ごと虎太郎に渡した。
ここに越して来てからと言うもの、頼んでもいないのに志摩が作ってくれる昼ご飯だ。
初めは迷惑だと思っていた僕だったけれど、今は当たり前のようにそれを毎日学校へ持って行っていた。
「別にっ、僕は学校でパンとか買うからいいよ。」
「ふーん…。」
「な、何なの…?」
「へへっ、志季優しいんだな!俺のためにこれくれるんだもんな!」
「どっ、どうしてそういう…!僕はただ…っ、腹減ったーなんて暴れて家の中めちゃめちゃにされたら困るからだよっ!!」
「えー?そうなのか?なぁーんだ…。」
一体どこをどうすればそういう考えに結び付くのだろう。
虎太郎の頭の中がどういう思考回路になっているのか見てみたいぐらいだ。
しかもそれを平然と言ったりして、恥ずかしいとか思わないんだろうか。
言われたこっちの方が恥ずかしくなってしまうじゃないか。
「いい?トイレはわかってるでしょうね?服は脱いじゃダメだからねっ?お弁当は昼になったら食べるんだからねっ?あと家の中を…。」
「へへー。」
「な、何笑ってんの?!ちゃんと今言ったこと守ってよ?!」
「なんか嬉しいなーと思ってー。」
僕は玄関に座って靴を履きながら、自分が留守の間のことを虎太郎にしっかりと言い聞かせた。
最初にちゃんと言っておかないと、酷いことになったら困るのは僕だ。
さすがにトイレは昨日教えたから大丈夫だとして、家の中で走り回って散らかされたりなんかしたら片付けるのは僕なんだ。
なのに虎太郎はそんな僕の話を真剣に聞こうともせずに、ニコニコ笑っている。
「は…?何言ってんの?ふざけてないで話を…。」
「志季と俺、なんだっけ…しんこん…?どーせー?してるみたいだ!」
「な、何が同棲だよっ!!そっちが勝手に来たんでしょ?!と、とにかくおとなしくしててよっ?!」
「はーい!行ってらっしゃい志季ー!」
僕が怒鳴ってみても、虎太郎にはまったくと言っていいほど効き目がないみたいだ。
笑顔で「行ってらっしゃい」なんて、それこそ新婚か同棲みたいだ。
そうやって丸め込もうとしたって無駄なんだから。
僕はただ、虎太郎が元に戻るまで置いてやっているだけだ。
猫に戻ったら、すぐに隣に返してやるんだ。
志摩や隼人に向かって文句や嫌味たっぷりに、熨斗でも付けて返してやるんだから。
「志季ー、行ってらっしゃーい!」
僕は虎太郎の方を振り向かずに、玄関を出た。
振り向いてしまったら、負けそうな気がしたんだ。
真っ直ぐな虎太郎の笑顔と言葉に飲み込まれて、僕が僕でなくなってしまう気がしたから。
僕は一体、どうしたいんだろう。
虎太郎を追い出したいはずなのに、時間が経つにつれて言えなくなってしまっている。
もしかしたら言わなくてもいいか…なんて思ってしまているのかもしれない。
だって志摩も隼人も虎太郎のことを忘れて、今外に出て行っても誰も虎太郎のことを知らないから。
あんなに二人に可愛がってもらっていた虎太郎が突然一人ぼっちになったら…なんて考えてしまうんだ。
一人ぼっちの寂しさは、僕は少しはわかっているつもりだ。
お母さんが家を出て行って、毎日一人で家にいたから。
それでも僕の場合、お父さんはちゃんと存在していた。
ただ仕事が忙しくて余り家にいなかった…それだけの話だ。
お母さんにしたって僕のことを忘れたわけでもなく、捨てたわけではない。
それに比べて、自分の存在を忘れられるっていうのはどれだけ大きなことだろう。
大好きだった人達の記憶から自分が消えてしまうなんて…考えただけでも恐い。
そこまでして虎太郎は人間になりたかった。
そこまでの覚悟を決めて、魔法をかけてもらった…。
「……なみ…。」
僕はそんな虎太郎に何をすればいいんだろう。
勝手に来ただけなのに、何かしなければいけない気分になっているだなんて…。
それは虎太郎の罠に嵌ってしまったということ?
このまま僕は虎太郎に……?
「…なみっ、小南っ!」
「え……?」
「いくら進路が決まっているからと言って授業を聞かないのは感心しないんだがな。」
「あ……。」
気が付くと僕は、教室の中でクラス全員に見られていた。
目の前には嫌味たっぷりの口調で僕を見つめる数学教師が、授業で使う棒を持って机を突いている。
まずい…授業中だったんだ…。
しかも受験前で皆がピリピリしている時に、僕は何をやっているんだ…!
「随分と余裕のようだから、この問題は小南に答えてもらおうか。」
「あの…僕は…。」
僕の通う高校は、この辺りでも有名な進学校だ。
進路が決まった生徒が貼り出される紙には、有名大学が名を連ねる。
自分で言うのもなんだけれどクラスでも成績トップの僕は早々に推薦で合格をして、後は何事もなく高校生活が終わるのを待つだけだった。
それに比べてこれからの人達は今が追い込みだって言うのに、授業を中断されたらたまったもんじゃない。
それでなくても僕はクラスではあまり好かれてはいない。
性格が悪いとか我儘だとか冷たいとか友達がいないとか…どこからともなく聞こえてくるのだ。
そんな僕が授業を止めたら、陰で散々言われるのは容易に想像が付く。
「もしかしてわからないわけじゃないだろうな?君ともあろう生徒がこんな簡単な問題が解けないとなると…。」
「僕…帰ります…。」
「な、何を言っているんだ小南…?」
「僕帰りますっ!具合が悪いので早退しますっ!」
「こらっ、待ちなさい小南…っ!」
「僕は帰ります…っ!」
だけどそんなことはどうでもよかった。
この時僕の頭の中にあったのは、そんなことよりも家の中のことだった。
家の中にいる、虎太郎のこと…。
このまま黙っていたら、僕は虎太郎に流されてしまう。
流されて毎朝キスなんて…エッチなんて…、そんなことは絶対に出来ない。
一分一秒でも早く、僕は虎太郎に言わなければいけない。
すぐに出て行って、僕はもう関係がないから勝手にしてと、どうしても言わなければいけないんだ。
「だってそうしなきゃ……っ。」
そうしなきゃ…何…?!
僕は今…何を考えた…?
そうしなきゃどうなるって…?!
「な……っ。」
教室を飛び出した僕を、誰も追って来ることはなかった。
どうせ僕なんか、あの教室ではそんな存在だ。
教室だけじゃない、どこに行っても僕はそうなんだ。
志摩や隼人は構ってくれるけれど、所詮二人は恋人同士だ。
僕はその中に入ることは出来ないし、二人がそうじゃないと言っても僕が入れない場所がある。
それなのに虎太郎が……。
「何これ……っ。」
虎太郎が容赦もなく好きだ好きだって言うからいけないんだ。
僕の中に遠慮もしないでズカズカと踏み込んで来たりするからだ。
だから僕は今、こんなにも息が苦しくて、胸が苦しくて…こんな風になったのは、生まれて初めてだった。
虎太郎に言われたことを考えて、虎太郎の笑顔を思い浮かべるだけでどうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう?
志摩や隼人に構われた時とは違う初めての感覚に僕は戸惑いながら、真っ直ぐに家を目指した。
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