「MY LOVELY CAT」-5
「こっ、虎太郎っ!!まだいるの?!いるんなら…。」
いるなら早く出て行って。
これ以上僕を混乱させないで欲しい。
絶対にそう言って追い出してやろうと思っていた。
ズカズカと廊下を進んでリビングへ辿り着くと、またしても僕の予定も調子も狂ってしまいそうになる。
「あっ、志季ーおかえりー。わー、おやついっぱいだ!!」
「おっ、おかえりじゃなくて…!何やってるの?!それ僕のカレーだよっ!」
「これずっと食ってみたかったんだー。志摩ってば俺が猫だからってくれないんだもんなぁ。」
「そうじゃなくて…。」
虎太郎は窮屈な服を脱ぎ捨て床に座って、僕がもらって来たカレーを食べていた。
しかも鍋に手を突っ込んで、辺りにカレーを散らかして…。
そりゃあ猫だったからスプーンなんて使ったこともないかもしれない。
だけどそれならそれで一言聞けばいいのに…。
僕が帰って来るのを待ってからだって出来るのに、どうしてこうも勝手なんだろう?!
「人間っていいよなぁ、こーんな美味いもん食ってるんだからな!」
「そうじゃなくって!!」
「あれー?志季どうしたんだ?具合でも悪いのか?」
「お…怒ってるんだよっ!!どうしてそうやって勝手なことばっかするのっ?!ここは僕の家だよっ!!ああもうこんなに汚くしてっ!」
何が具合が悪いのか、だよ…。
虎太郎がそういうことばっかりするから怒っているのもわからないの?
この間預かった時にいっぱい散らかしたから怒ったのも忘れているし。
だから猫なんか嫌いなんだ。
僕の気持ちなんかちっともわからないじゃないか。
僕が迷惑だっていうのもわからないで、自分勝手し放題で…。
「志季ー、ごめん…。」
「あ、謝るぐらいなら最初っからしないでよっ。」
「うん、ごめんなさいー…。」
「そ、そんな顔したって許してあげな……。」
それで怒られるとすぐに落ち込んだ振りをするんだ。
そうすれば許してもらえるとでも思っているんだから、そこだけは頭がいい。
まるで怒った方が悪いみたいにして、泣きそうな顔なんかしちゃって。
今までは僕が怒ってもそんな顔をしなかったのに、今になって素直になるなんてずるい。
猫なんて…虎太郎なんてずるいよ…。
「っていうか…なんで僕なの…?」
虎太郎は僕のことを嫌いで、何かと突っ掛かって来ていた。
それなのに人間になりたいと言ってどうして僕なんかを頼って来たのか、僕にはわからなかった。
好きだとか何だとかわけのわからないことを言っていたけれど、とても本気だなんて思えない。
だって僕は人間で、虎太郎は猫なんだから。
「志摩も隼人も本当に虎太郎のこと忘れてるんだよ…それでも人間になりたいって言うの?」
大好きな飼い主の記憶から自分がいなくなってまで人間になりたい理由は何なんだろう。
別に猫のままでも十分じゃないか。
可愛がられて甘やかされて、それでいいはずなのに。
どうしてそこまでして人間なんかになりたいのか、僕には理解不能だ。
「うん、なりたい。」
「だからどうしてって…。」
「だって俺ー、志季と一緒にいたいんだ…。」
「だからどうして僕なのって…!」
虎太郎はしゅんとしたまま、ぼそぼそと口を開いた。
これじゃあ話が全然進まない。
いい加減になんとかして元に戻ってもらわないと困る。
虎太郎がおとなしくなっている今がチャンスかもしれない。
このまま僕が強く言えば志摩や隼人みたいに何も言えなくなるはず…。
「だって俺、志季のこと好きだもん。」
「……え?」
「もーっ、さっきも言っただろー?!何回も言ったぞ!俺、志季のこと好きなんだってば!」
「な、何言ってるのっ?!僕は人間なんだよっ?虎太郎は猫で…。」
「うんっ、だから俺人間になって志季と一緒にいたいんだ!」
「バ……バカじゃないのっ?!そんなこと普通考えないよっ、バカっ!!虎太郎のバーカ!!」
僕は虎太郎の真剣な告白に動揺してしまっていた。
僕の口から出て来るのは「バカ」だとか虎太郎を罵る言葉ばかりで、自分でもどうしていいのかわからなくなっていた。
真っ直ぐに見つめてくる虎太郎と目を合わすことも出来なくて、なぜだか息が苦しくなる。
「志季ー、俺のこと人間にして?交尾して欲しいんだ。」
「バッ、バカなこと言わないでよっ!す、好きでもない人とそんなこと出来るわけないでしょっ!」
「えー?志季は俺のこと嫌いなのか?」
「きっ、きら……わかんないよそんなのっ!!わかんないったらわかんない!!」
好きとか嫌いとか、僕はそんなことを考えたこともなかった。
猫を恋愛対象に考える方がおかしいんだから。
だけど本当に憎くて大嫌いですぐに出て行って欲しければ、僕は「大嫌い」と言うことが出来たはずだ。
どうして僕はこの時になってハッキリ言うことが出来なかったんだろう…。
そんなことをしたら虎太郎は調子に乗って居座るということぐらいわかっていたのに、どうして…。
「んじゃあやっぱりもうちょっと待つことにする!」
「待つって…。」
「志季が俺のこと好きになるの待つ!それで絶対交尾する!!それもさっき言ったのに、志季って結構頭悪いんだなー。」
「こ…虎太郎には言われなくないよっ!!それに待っても僕は……。」
ほらやっぱりそうだ。
虎太郎はバカで単純だから、僕の言うことをそのまま受け取ってしまう。
僕が嫌いだと言えないのをいいことに、待つだなんて無駄なこと…。
そんなことをされても僕は虎太郎なんか好きにならない。
そんな常識で考えられないことを僕がするわけがないんだ。
「うん、暫くはこれで我慢するっ。」
「え……?あ…んん───…っ!!」
「志季可愛いー、ちゅーすると真っ赤だ♪あっ、服だ!これ着てもいいのか?」
「ななな…な……!!」
二度目のキスは、確かなものだった。
相手は猫でもなくて、頬にするものでもなかった。
僕の唇を塞いだその唇は明らかに人間のもので、僕にとってはこれこそが初めてのキスだったのかもしれない。
「志季ありがとう、好きだぞ!早く交尾しような!」
「な…、な…、何するの───…っ!!」
僕のことなんか気にもせずに買い物袋を漁っている虎太郎を、僕は何度も叩いた。
さすがにもうキスはして来なかったけれど、全然気にもしないで、懲りていないみたいだ。
僕はそんな虎太郎とは反対に、心臓がバクバクいってどうしようかと思った。
初めてのキスの余韻が離れなくて、全身が熱い。
たった一度のキスでその相手を好きになるなんてバカな話があるわけがない。
僕は虎太郎なんか好きになるつもりなんかないし、待っていても好きになんかなってやらない。
今のは恋愛のドキドキとか好きだとかそういうのではなくて、びっくりしただけ…それだけだと思いたかった。
その後の虎太郎の態度も、僕にとっては理解不能としか言い様がなかった。
お風呂に入る時はもちろん、トイレまでついて来られた時は僕も激怒した。
いくら猫だったからわからないと言っても、僕にとっては迷惑極まりない。
志摩や隼人が忘れているから、仕方なく置いてやっているだけなんだから。
僕に頼ったりされても困るのにやめようとしない虎太郎に、僕の調子は狂いっ放しだ。
「ちょっとっ、何勝手に入ってんの?!ここは僕のベッド!!」
「うん、俺寒いの嫌いなんだー…。」
お風呂を済ませて暫くして、僕はそろそろ寝ようとベッドに潜り込んだ。
当たり前のような顔をして虎太郎はそこに入って来たけれど、寒いのが嫌いなんてことは僕の知ったことではない。
「もうっ、向こうに行ってってば!」
「やだー、志季、お願い!この間も一緒に寝ただろー?」
「そ、それは猫だった時のことでしょ?!今は違うじゃないっ。」
「何にもしないから!」
「あっ、当たり前でしょ!!何言ってんのもうっ!!」
「うん、俺ちゃんと待ってるんだもんな!」
僕がいくら怒っても、虎太郎にはほとんど効き目なんかないみたいだ。
追い出そうとしても嫌だなんて我儘を言って無理矢理通そうとするんだから。
どちらかが譲らなければ延々と続いて寝ることだって出来なくなる。
それならば僕が大人になって譲るしかないじゃないか。
「あんまりくっ付かないでよっ、さ、触ったりしたら許さないんだからっ!!」
「うん、わかった!へへー志季、ありがと!」
「ふんっ、お礼なんか言われても嬉しくなんかないんだからねっ。」
「うん、おやすみー志季。」
すぐにヘラヘラするのは、飼い主の志摩に似たのかもしれない。
僕が怒っても動じないのは、もう一人の飼い主の隼人に似たのかもしれない。
そんな二人と離れてまで僕を選んだ虎太郎の気持ちが、僕にはわからないままだった。
そしてスヤスヤと寝息を立てて眠る虎太郎の隣で、僕がいつまでも眠ることが出来なかった理由も、この時はまだわからなかった。
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