「MY LOVELY CAT」-11
虎太郎がここへ来た時、絶対に思い通りにはならないという自信が僕にはあった。
だってまさか猫相手に恋だの愛だの…それ以前に僕は恋愛なんてものを信じていなかったんだから。
それがまさか一週間やそこらの短い期間で覆されるなんて、夢にも思っていなかった。
絆されたわけじゃなく、同情しているわけじゃなく…僕の心の中に虎太郎への恋愛感情が住み着いてしまったのは明らかだ。
そして好きになったからには、両思いになりたいと思うのは当然のことだった。
虎太郎は僕のことを好きだと言ってくれて、もちろん僕だって出来ればそうなりたいと思っている。
だけどどうやってそれを伝えたらいいのかが、僕にはわからない。
この歳になるまで、本気で恋なんかしたことがなかったからだ。
それにこの先のことを考えると…いつか虎太郎が僕から離れて行ってしまうかもしれないと思うと恐かった。
僕のお父さんとお母さんがそうだったように、最初はよくてもそんな日が来るかもしれない。
今はしつこいぐらいに言ってくれている「好き」という言葉も、言ってくれなくなる日が来るかもしれない。
まして僕は男で虎太郎も雄…つまりは男同士なんだから、時間が経ってから別れてしまった場合のリスクが大き過ぎる。
それを考えると僕はどうしても、虎太郎に思いを告げる勇気が湧かなかった。
「志季ー?志ー季ぃー?」
「え……?!な、何…っ?!」
「志季ー聞こえないのかー?志季ー、俺喉渇いちゃって…。」
「きっ、聞こえてるよっ!!っていうかお風呂に入るって言ったでしょ…!!」
暫く床にしゃがみ込んでいた僕の後ろで、虎太郎がドンドンとドアを叩いている。
その衝動で揺れているドアよりも、きっと僕の心臓の方が物凄い音を立てているに違いない。
ドアを挟んでいるのに虎太郎がすぐ傍にいるような気がして、全身が熱くなる。
「喉渇いたんだー、ジュースくれ!」
「そ、そんなの自分でやれば…っ?!」
「えー?でもよくわかんないし…。」
「も…もうっ!!」
僕がこんなに悩んでいる時に呑気にジュースだなんて…。
どこまで僕に甘えて僕を頼りにすれば気が済むんだろう。
別にそれが嫌だったわけじゃないし、逆に好きな相手になら頼られて嬉しいはずだ。
だけど虎太郎が今僕の胸の内にあるこの苦悩にまったく気付いていないということに、腹が立ってしまったのだ。
「あっ、志季…。」
「いい加減にしてよもう!それぐらい自分で出来るようになりなよ!」
「ご、ごめん…。」
「僕はお風呂に入るって言ったでしょ?どうしてそうやって我儘ばっかり言うの?!」
僕が虎太郎に言い放っているのは、完全に八つ当たりというものだった。
自分の気持ちに気が付いて、どうしていいのかわからなくて、どうにかして欲しいのにしてくれない虎太郎へ対しての八つ当たり以外何物でもない。
それも自分でどうにかしなければいけないのに、責任転嫁もいいところだ。
そして言い出したら止まらなくなるのは、僕の悪い癖だ。
そこまで言う必要なんかないのに、自分の弱さを誤魔化すためだけに人を傷付けてしまう。
「志季ぃー…ごめんさない…。」
「まったくもうっ!今度そういうことしたらその首輪取っちゃうからねっ?!」
「志季…。」
「そんなに迷惑かけるなら虎太郎なんか猫に戻っちゃえばいいんだっ!!」
しまった…、弾みでもそれだけは言っちゃいけなかった…。
あんなに虎太郎が一生懸命になって守っていた首輪のことだけは、言わないでおこうと思っていたのに…。
気が付いた時にはもう遅くて、僕の口からはその言葉達が全部出てしまった後だった。
「いいよ。」
「え………?!」
「首輪、取ってもいいよ。」
「な、何言ってんの…っ?!」
僕には絶対的な自信があった。
虎太郎はまたしゅんとして、それだけは嫌だと縋ってくるんだという、自信過剰にも思えるものが胸の奥に潜んでいた。
お願いだからやめて、と言って僕に甘えてくるんだって…。
そしたら僕は仕方がないな、なんて言って、また虎太郎は調子に乗ってニコニコと笑うんだって…。
それでまたいつも通りになれば、もしかしたら好きだということを言えるかもしれない。
だけど実際僕の目の前にいるのは、寂しそうに笑う虎太郎だった。
「俺、今日ホントに嬉しかったんだー。志季と一緒に出掛けて、エビフライもいっぱい食べて…。」
「何…?何言ってんの…?」
「最初はこの姿になれるとも思ってなかったし…だからもう十分だって思わなきゃいけないのかもしれないな。俺…、志季の言う通り我儘だった。」
「何それ…。」
何言ってんの?
ねぇ、虎太郎ってばどうしちゃったの?
いつもみたいにしつこく言い寄って来てよ。
お願いだからって、ぎゅっと抱き付いて無理矢理キスでもすればいいでしょ…?
今なら嫌がらずに受け入てあげられるかもしれないんだよ?
「でもそんなに簡単じゃないんだよなー。へへっ、人間ってやっぱり難しいな!」
「…カじゃないの……。」
「志季?また怒って…。」
「バカじゃないの!!冗談と本気の区別もつかないなんて!!そんなんじゃ人間になるなんて無理だよ!」
そんなに人間の言うことをいちいち信じて、いつか騙されたって知らないんだから。
そうならないためには僕が傍にいて、僕が守ってやるしかないんだ。
だから早く人間になって、虎太郎も僕の傍から離れないで。
僕はちゃんとそこまで言わなければいけなかったのに、また虎太郎を振り切って、ドアを勢いよく閉めてしまった。
ドアの向こうでは虎太郎が頭を下げて謝っている姿が見えるような気がして、罪悪感でいっぱいになった。
言葉が足りないっていうのはまさにこのことで、お風呂から上がった僕は死ぬ程後悔することになる。
「虎太郎ー?さっさとお風呂入ってよ、ガス代がもったいな……。」
タオルで髪を拭きながらバスルームから出ると、そこには何の気配もなかった。
名前を呼んでも、いつもみたいにはしゃいで寄って来る虎太郎はどこにもいなかった。
「虎太郎……?どこ…?」
もしかしたら僕に怒られて、どこかに隠れているのかもしれない。
そして僕のことを驚かそうとしているのかもしれない。
そんな悪戯をしたら余計怒られるということをまだわかっていないんだから。
一体何度言えばわかるんだろう…。
きっと何度言ってもわからないんだろうな…、虎太郎はバカだから。
「こた……う…っ、ふぇ…、虎太郎のバカあぁ〜…。」
本当にバカだよ、虎太郎は。
あれほど冗談だって言ったのに…本気じゃないって言ったのに…。
どうして僕の言うことをわかってくれなかったの?
もう少ししたらちゃんと「好き」だって言えるかもしれなかったのに、どうして待っていてくれなかったの?
バカだよ…、虎太郎は世界一バカだよ…!!
「う…うぅっ、うえぇっ、う…うああぁぁん!!バカぁー…!バカあぁー…っ!!」
僕は床にぽつんと置かれた赤い首輪を握り締めて、大声を上げて泣いてしまった。
虎太郎が世界一のバカなら、僕はきっと宇宙一のバカだ。
もう会えなくなるなら、ちゃんと言えばよかったんだ。
恥ずかしいとか信用出来ないとか恐いとか、そんな意地はさっさと捨ててしまえばよかったんだ。
それが出来なかった僕は、虎太郎なんかよりずっとずっとバカなんだ。
「やだよ…っ、やだよぉっ、虎太郎…っ、やだぁー…っ!」
虎太郎に会えなくなるなんて、絶対に嫌だ。
虎太郎が僕のことを忘れてしまうなんて、絶対に嫌だ。
こんなに好きにさせておいて何もなかったかのようにこの先暮らせだなんて、ひど過ぎるにも程がある。
そんなことどう頑張ったって出来るわけがないのに…。
「うっ…ひっく…っ、なんで…っ?あれ…?」
僕は虎太郎がいなくなったことが悲しくて、すっかり忘れてしまっていた。
しゃくり上げながら握り締めた首輪は僅かに温かいような気がして、まだここに虎太郎がいるような気分にさえなってくるのだ。
そうだ、僕はちゃんと虎太郎のことを覚えているじゃないか…。
「虎太郎…?何…?変だよ…っ?」
だってあの時虎太郎は、僕もこのことを忘れるって言ったんだ。
つまり虎太郎は魔法がかかる前のことを消されて、同じように僕の記憶からも虎太郎のことを消されるということだ。
それなのに僕はちゃんと覚えている。
虎太郎が突然ここに来たあの瞬間から、突然いなくなる今の今までを…。
何度も繰り返される「好き」という言葉も、抱き付いて来た腕の温度も、上の乗られた時の重みも、キスの感触も…。
虎太郎に関わることの全てを覚えているからこそ、僕は今こうして泣いてしまっているんだ。
「そうだよ…、虎太郎、変だよ…っ。」
それにもし猫に戻ったとして、その先はどうなるんだろう?
戻ったからって、何もいなくなる必要なんかないのに、どうして虎太郎は姿を消してしまったんだろう?
僕に何も言わずに突然いなくなるなんて、何かあったのかもしれない。
誰かに連れ去られてしまったのかもしれない。
「………っ。」
猫の姿なら、まだそんなに遠くには行っていないはずだ。
誰かに連れ去られたとしても、どこかに何か手がかりが残っているかもしれない。
見つけることだけでも出来たら、なんとかなるかもしれないんだ。
猫の神様がどうとか言っていたけれど、その神様にお願いをするとか…色々な方法が考えられる。
「虎太郎…っ!」
僕はあれだけバカにしていた「魔法」という非現実的なものに、すっかり縋ってしまっていた。
溺れる者は藁をも掴む…そんなことわざが今の僕には一番ぴったりだ。
そこまでして僕は、虎太郎を離したくなかった。
初めての恋がこんなにも辛くて苦しいものになるなんて、思ってもみなかった。
それも全部自分がしたことで、僕が悪いんだ。
本当はもっと早くに気付けばよかったけれど、今そんなことを言っても仕方がない。
それよりも今は、可能性がある限り、諦めずに探し求めるしかないんだ。
僕は泣いた跡を隠すためにゴシゴシと目を擦って、パジャマのまま家を飛び出した。
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