「fragile」-5
それから三日が過ぎてしまった。
後悔だけが大きくなっていくだけで、結局のところ俺は何もしていなかった。
少しサイズが小さいけれど服は兄から借りてなんとかなったし、食べるものにも困らず、
案外何も持って来なくても人の家で生きていけることを知った。
そんな感心をしている場合じゃないのは重々承知はしているのだけれど。
「お前いつまでいる気だよ…。」
日も暮れて、ご飯時になって帰って来た兄がぼそりと言う。
いくら兄弟でもそろそろ苛ついているのだろう。
煙草をふかす兄の顔がまともに見れない。
「お前のせいでシロまで出て行っちまったじゃねぇか。」
「出て行ったってわけじゃ…。」
「バカお前、お前に遠慮してシマんとこ行ったんだからな。」
「ご、ごめん…、ホントごめんって…。」
俺がここに来て、銀華とまずい状況にあることをシロは悟ったようだ。
志摩のところへ泊まりに行く、なんて明るく出掛けて行ったけれど、卑屈になる俺にどう接していいのかわからなくなってしまったのだ。
シロにまで迷惑をかけて、ますます俺の立場は悪くなっていく。
「お前って本っ当にバカだよなぁ…。」
「な、なんだよそれ…、んなしみじみ言うなよ…。」
そんなこと改めて言われなくても俺が一番よくわかっている。
しかも本当に、なんてわざと強調して。
これ以上俺を落ち込ませてどうするって言うんだ。
別に慰めて欲しいわけでもないし、最終的には俺自身がなんとかしなければいけないのだけれど
。
「お前、子供ってどうやって出来るか知ってるか?」
「は?ちょ…、バカにし過ぎだろそれ!」
「いやー、俺はてっきりそれも知らねぇのかと思ってよ。」
「なんだよそれ、ムカつくな、それぐらい知ってるっての。」
「んじゃ男と男がセックスして子供が出来るかどうかわかるか?」
「出来るわけねーだろ…。何言ってるんだよ今更…。」
いくらなんでも常識なことばかり兄が訊いて来る。
俺をからかって遊びたいのか、ムカついた勢いで出て行かせようとしているのか。
こういう時というのはどこまでも疑うことばかりしか出来ない。
俺だって男とセックスしてるんだから子供が出来ないことぐらいわかる。
今時小学生だって普通に知っているような気がする。
「ぷ…くくっ、やっぱお前本物のバカだ!」
「は?!失礼だな!いくら兄貴でも許さね…。」
「だって可笑しいだろ!そんならなんで今俺らがいるんだよ?!」
「え…!!」
兄は突然吹き出したかと思うと、大声で笑う。
そんなに爆笑されるほどバカだとは思っていなかったから、正直腹が立った。
だけど笑いながら言われた言葉に、俺の心は大きく動揺する。
「あいつがそのひいじいさんの親父だかと…って疑ってたんだろ?」
「そ、そうだけど…。」
この家に来てだいたいのことを俺は兄に話した。
何も言わずに話だけ聞いて、その後も相談みたいなこともすることはなかった。
「あいつとそのじいさんがデキてたら俺ら生まれてねぇだろうが!このバカが。」
「え…、あ…あれ…、そ、そうか?でも…。」
「ついでに、そのじいさんが逝く時は正真正銘奥さんが看取ったらしいぜ。」
「あ…、う、嘘だろ…!!」
「嘘じゃねぇよ、ばばあにわざわざ電話して訊いてやったんだからな。」
「う、うわ…、マジかよー…!えぇ?!うわ、嘘だろ…!」
これはもう…、俺はバカだと笑われても仕方がない。
俺が聞いた銀華の過去では、あいつが看取ったことになっていた。
それを置いて行かれた、捨てられたと誤解して…。
そうだ、ずっと傍にいたのに、みたいに言ってた…。
ということは、当然俺達がここにいるはずもないわけで…。
「まぁ100パーセント別人だろうな。」
「うっわー…、俺何やってんだろ…。」
「だから落ち着けった何回も言っただろうが!それを一人で飛躍しやがってバカ弟が!」
「だからごめんって言ってるだろ!んなバカバカ言うなよムカつく!」
「俺に言われなきゃ気付かなかっただろうがよ、感謝しやがれ!」
「だ、誰も頼んでなんかねーよ!」
嘘だ。
ちゃんと認めているんだ、俺がバカなせいで勝手に飛躍して思い込んでいたこと。
本当はちゃんとごめんって思ってる。
教えてくれてありがとうって思ってる。
ただあまりにも自分が情けなくて、反抗的になっているだけだ。
そんな子供っぽいのも、兄はわかった上で言っているんだろうけれど。
「わかったらさっさと行け!帰れ!そんでちゃんと謝れ!」
「そんな邪魔者扱いしなくたっていいだろー…謝るったって簡単じゃないんだからな…。」
「あ・の・なぁ〜、邪魔者だろ?!お前のせいでシロと何日ヤってねぇと思ってるんだ?ああ?!」
「わ、わかったごめん…、すぐ行くから…!わっ、シロ!!」
超不機嫌な兄に、俺は襟首を掴まれて責められた。
身体の大きさは関係なしに、昔から喧嘩で勝ったことはない。
言い合いになっても殴り合いになっても、俺はこの兄に勝てなかった。
本当に強いのもあるだろうし、根っから嫌いになったこともなかったからだ。
そんな昔みたいな喧嘩になろうとしていた時、玄関が開いてそこにシロが立っていた。
「う…、亮平…っ。」
「バカ、違うこれは…!こいつが…!」
「そ、そうそう、ただの取っ組み合いってやつで…!!」
「オレの知らないところで亮平と洋平やらしいことしてたんだ…!!うっうっ、亮平と洋平恋人だったんだ…!」
「違うってシロ!てめ退きやがれっ!つぅかお前のせいでめちゃくちゃじゃねぇかよ!」
「ご、ごめん!!ホントごめん!!」
半泣きになったシロを追い掛ける兄に心の奥底から悪いと思いながら、俺は言われた通り銀華のところへ戻ることにした。
シロのすぐに見たままを信じてしまうところが可愛いんだろうな…兄的には。
後でちゃんとシロにも謝ろう。
「う…そ…どこ行ったんだよ…?」
走って家まで帰ると、そこに銀華の姿はなかった。
渡した鍵できちんと玄関も閉めて、中もいつも通り綺麗だった。
そういえば、最初あいつの荷物なんてものは何もなかった。
それからだんだん花も増えて、服とか食器とか生活するものが増えて…。
静まり返った部屋に、今になって二人の生活感を感じても、肝心の銀華がいない。
そりゃあそうだ、あんなに酷いことを言って俺は出て行ったわけだし…。
「でも…。」
でも、もしまだ間に合うなら…いや間に合って欲しい。
結果的に別れることになっても、自分の気持ちを伝えないのは嫌だ。
出来れば別れたくなんかないけれど、俺は言える立場じゃない。
銀華がここにいないとなれば…、賭けみたいにして俺は再び走り出した。
「ぎ、銀華…?いるのか…?」
恋人同士になる前に、俺が一度だけ行ったところ。
あいつが住んでいた神界に続く場所がある。
その神社のある公園の暗闇の中で、俺はおそるおそる名前を呼んだ。
「うわっ!ここにいたのか?!」
「洋平…。」
扉を開けようとして、何かにぶつかった俺は目を見開いた。
俯いてびくともしない銀華が、座っていたのだった。
「い、いるならいるって…。向こうに帰っちまったもんだと…。」
「私が帰る場所などあちらには無い。」
「そ、そうだったな…、ごめん…。」
「それよりも洋平、お前に言いたいことがある…。」
気まずい空気が流れた後、一気に緊迫した空気に変わる。
ああ、とうとう言われる、嫌われたという事実を突き付けられる。
それでも仕方がないことなのだと、覚悟を決めて深呼吸をした。
「何でもするから…、捨てないでくれ…。」
おかしい。
銀華は何を言っているのだろう。
膝をついて頭を深々と下げて、俺に何を言っているのだろう。
「お前に捨てられたら私は…っ。頼む、捨てないでくれ…っ。」
どうして銀華の声が震えているのだろう。
どうして古い木の床にぱたぱたと大きな染みが出来て行くのだろう。
そしてどうして俺は、動けなくなっているのだろう…。
「私にはお前しかいないのだ…。邪魔にならないようにする、だから頼む…。」
その一言で、俺はすべてを悟った。
銀華が俺に対して興味がなくなったわけではない。
元々がそういう性格だったわけでもなかったんだ。
俺の邪魔にならないように、ただそれだけのために何も言わなかったのだと。
「ごめん…。」
「私を捨てないでくれるのか…?」
「捨てないで欲しいのは俺のほうだ…、本当にごめん…。」
「洋平…。」
まだ泣き止まない銀華を、やっとのことで抱き締める。
抱き締めたらちゃんと温かくて、俺達人間と何も変わらない。
でもそのことで銀華は悩んでいたのだ。
飼われているつもりはないとシロの前では言っていたけれど、どこかに劣等感はあったはずだ。
そんな銀華が物凄く愛しくなってしまった。
「好きだ、洋平、好きだ…、好きだ…好きだ…。」
「うん俺も…。」
「お前が信じられぬと言うなら何度でも言う…、好きなのだ、洋平…。好きだ…。」
「どうしよう俺、嬉しくて死にそう…。」
繰り返される銀華のその言葉に、一気に体温が上がってしまった。
本当にこのまま死んでしまったらどうしようかと思うぐらい。
ようやく涙の止まった銀華の瞳は、いつもの強い瞳だ。
いや、いつも以上に強くて熱っぽくて、鋭く眩しい…。
「好きだ…。私が好きなのはお前だけだ…。」
「うん…、俺も好き…、好きだよ銀華、好きだ…。」
銀華は弱い奴なんかじゃない。
ガラスみたいに脆いと思っていたのは俺の勝手な思い込みだ。
こんなにも強くて芯のある奴なのに。
深いキスをしながら、脆く弱かったのは自分なのだと思った。
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