「fragile」-2




その後はあまり仕事にならなかった。
茎を切る時に危うく指まで切りそうになった時は、さすがにこれじゃいけないと気を引き締めた。
店長に言われたことを迷っているのは、色んな理由があった。
そこまで責任のある仕事は自信がないだとか、挙げるときりがなかったけれど、最大の理由はもちろん銀華のことだった。
普段から、俺が帰るのを一日待っているあいつを、もっと待たせる日があるかもしれない。
寂しがりやなあいつを待たせるなんて俺には出来ないと思ったからだ。
少しでも遅くなろうものなら、すぐに連絡するようにしている。
それであいつも、安心してくれると思ったからだ。


「ただいまー。」

夕方になって、そんな状態のまま仕事を終えて、どこにも寄らずに帰宅した。
いつものように俺がドアを開けると、夕飯のいい匂いが漂っている。
玄関で靴を脱ぐ時、その匂いを嗅いで今日のご飯が何かを想像するのが俺の楽しみだったりする 。
今日は銀華の好きな魚料理といったところだ。


「ただいま。」
「お…かえり…。」

さっきの迷いなんかすぐに忘れて、ウキウキ浮かれ気分で部屋に上がると、俺はもう一度帰宅の挨拶をした。
以前はあぁという返事だけのものや、今日は早かったのだな、だの、遅かったのだな、だのしか返してくれなかった銀華は、
最近になってやっと「ただいま」という真っ直ぐな挨拶をしてくれるようになった。
まだ恥ずかしいのか、言葉が途切れ途切れになっている。
見た目はどう見たって男で普段は表情を変えないのに、そういうところは初めて恋をしている乙女みたいで、
その矛盾した可愛らしさがどうしようもなく好きだ。
それを見せてくれるのが俺だけだというのが、余計嬉しい。


「あのさ…。」
「今日シロの…。」

予想通りの魚料理を突きながら、俺は例の話をしようと口を開いた。
それと同時に銀華も何かを話そうとして、なぜだか気まずい空気が流れる。


「あっ、ごめん、何?」
「あぁ、よいのだ。お前の話は何だ。」
「いや、先にいいよ、俺の話は…。」
「ただシロのところへ行って来たという報告だ、構わぬ、続けてくれ。」

銀華がそう言うなら、と思って、俺は今日の話を続けた。
きっと銀華は嫌がるだろう、俺に早く帰って来て欲しいと思っているだろう。
だからこそ、俺はこんなに悩んでいたんだ。
俺はやっぱりどこか、自惚れてしまっていたんだろうか。


「良い話ではないか。」
「え…。」
「それは所謂出世というやつであろう?」
「まぁ…、そうなるのかな…?」

だいたいの話を終えて、銀華の口から出た言葉は意外なものだった。
意外というか、俺の頭の中にはまったくと言っていいほどなかった答えだ。
あまりにもあっけらかんとして言われたもんだから、俺は拍子抜けしてしまった。
口に出さなくても、少しは表情ぐらいは変えてくれると思っていたから。


「それならその話を受けたらどうだ。」
「え…でもさ…。」
「どうしたのだ、何か断る理由でもあるのか。」
「や、っていうかさ…。いや、うん…、そうだな…。」

お前は?
お前は寂しくないのかよ?
俺が時間通りに帰って来ない日、我慢出来るのか?
寂しいって思わないで待っていられるのか?
色々言いたいのに、ついさっき食べた魚の骨みたいな何かが喉に突っ掛かって巧く言葉が出ない。


「私に相談することでもなかろう。」

挙げ句そんな風に言われて、俺は落胆してしまった。
私には関係ない、知らない、そう言われた気がして。
お互い好きで、一緒に住んで、何度身体を重ねてみても、俺は俺、銀華は銀華。
そんな見えない境界線が、俺の心に突き付けられたみたいだった。


「そうだよな…。」
「洋平?」

お前はやっぱり、どこか人間を拒否しているんじゃないのか。
やっぱり俺のことを信じていないんじゃないのか。
好きだと言えば嬉しそうな顔をするのに、迫れば脚を開くのに、本当は俺のことなんか心から好きじゃないんじゃないのか。
一度思ってしまうと、止まらなくなる猜疑心が、俺の胸の内を激しく揺さ振る。
やめておけばいいのに、そのまま滑るようにして口から出てしまいそうになるんだ。


「俺のことなんか…。」
「洋平………っ?」

ぶつぶつ言いながら、銀華に近付いて、気付いた時には床に押し倒していた。
暫く置かれたままだった箸が、テーブルからカラリと落ちる。
銀華も花をいじっていたのか、だいぶ伸びた髪からほのかに花の香りがする。


「なんでもない。」
「何を言って……ん!」

俺は結局、本当の気持ちをぶつけることが出来なかった。
口に出せない代わりに身体や意味不明な行動で示すだけしか出来ない。
強引に、無理矢理でも抱いてわからせればいいのに、それも出来ない。
臆病者で、そして寂しいのは銀華より誰より、俺なんだと思った。
情けなくて、バカみたいで、醜くて、抱いているのは俺なのに、その最中に泣きたくなった。






バカの一つ覚えっていうのは、バカと付くからには俺みたいなバカがするんだろう。
その後だけでは気が済まなくて、風呂に入ってはまたセックスして、その汚れを流すためにシャワーだけ浴びたのにまたして。
そんな馬鹿げた行為を繰り返して気が済んだ時には、もう日を回ってしまっていた。

初めてした時みたいな、月が綺麗な夜だった。
月よりも照らされている銀華の方がもっと綺麗だと思って、何度もそう呟いた。
お世辞でも嘘でもなくて、本当に綺麗だと思ったのは、姿だけじゃない。
内面的から醸し出される銀華という人物そのものが綺麗だと思った。
あの時はまだ、好きだって言葉も言えずにいたんだっけ…。
あの時みたいに、強引に言い聞かせるように、銀華を揺さ振ることが出来ればいいのに…。
俺は銀華の、綺麗で儚くて人間とは違う雰囲気や神秘的な魅力に酔ってしまっていたのだろうか。
銀華だけじゃなく、こんな風に自分自身にまで疑いをかけるようになったらお終いじゃないか?


「ん……。」

俺の隣に横たわる銀華が寝返りを打っている。
疲れ果てて、くったりと身体を布団に預けるようにして静かに眠っている。
ふと温かいものが俺の手に触れて、暗い部屋の中で目を凝らす。
そんなことをしなくても、それが銀華の手だということはすぐにわかったのだけど、
この目で確かめることによって、銀華と自分の気持ちも確認出来るような気がした。


「銀華…。」

あぁ、やっぱり俺は、こいつが好きだ。
さっきの疑いなんかなかったことにしたいぐらい、心から好きだと思った。
頼りない細い指も、閉じた瞼も、長めの睫毛も全部。
繊細さを象徴しておきながらしっかりとした芯を持つ銀華が好きだ。
握られた手に応えるようにして額に軽く触れるだけのキスをすることによって、その夜はなんとか眠ることが出来た。







back/next