「ONLY」-9




その後の俺はと言うと、ひどいものだった。
藤代さんにはなんでもない、と適当に誤魔化したけれど、なんでもないわけなんて全然なかった。
苛々は暫く治まらないし、そのせいで普通しないミスもした。
それでもなんでもないと言い張る自分が、嫌で仕方なくて、俺は今、
何をどうしたらいいのか、迷いや不安ばかりが胸の中を支配している。
志摩にも心配をかけたくないし、八つ当たりなんかしたくないのに。


「ふー…。」

1日の仕事を終えて、またあの家へ戻る。
初めてのバイトに、すっかり疲れてしまった志摩は部屋に入るとすぐにソファへへたり込んだ。
やっぱりこういうのは慣れないと疲れるもんだよな…。
そのままそこで寝てしまうんじゃないかと思うぐらい、志摩はくったりしている。


「隼人、ご飯何がいいですか…?」
「いいよ、冷凍庫に何か入ってるだろ。」
「でも、ご飯は作ったもののほうが…。」
「いいから。無理しなくていいから。」

ごめんねー、と呟く志摩に背を向けて、冷凍庫を漁る。
志摩が来てからも、時々はこうして冷凍食品で済ませることもあった。
それでも前と違うのは、温めて食べるご飯の類だけではなく、
弁当のおかずやら、冷凍した野菜やら肉やらアイスやらが入っていることだった。
しかもその中はきっちり整頓されていて、どこに何があるかはすぐにわかる。


「あの…、隼人…。」
「…うわ、なんだよ後ろから。びっくりするだろ…。」
「うんと、これ…。」
「……?俺別にこれ以上デカくならなくてもいいんだけど。」

俺が漁っている冷凍庫の下で、志摩は何やらもぞもぞと動いていた。
渡された牛乳と志摩を見て、それならお前が飲むべきだろうと可笑しくなった。
もうちょっと身長が欲しいと言って毎日飲んでいるのは知っていたし。
だけど志摩が俺に差し出したのはそんな理由じゃなくて、言い出すのにも遠慮しているみたいだった。


「よ、余計なお世話かもしれないけど…、苛々にはカルシウムです…。」
「え……。」
「ご、ごめんなさいっ、あの、隼人苛々して苦しそうだったから…。」
「あぁ…。」

苛々しているのは自覚はあったけれど、志摩にはそんな風に見えていたのか…?
苦しそう、なんて表現は初めてされた気がする。
こっちが勝手にしているのに、志摩にまた気を遣わせてしまった。
苦しいのは志摩のほうなんじゃないのか…。
俺は幸せにしてもらっているのに、志摩をちっとも幸せにできていない。


「ありがとう、志摩。」
「えへ…、よかったです!」
「ごめん、ありがとう。」
「ご飯にしよー?シマにゃん迎えに行って。」

途端に笑顔に変わった志摩の頭を撫でる。
柔らかくて、でも芯がある、感触のいい髪。
触っていると不思議と落ち着く。
それはまるで志摩そのものみたいだと思った。








その日を含めて3日間、志摩は俺と一緒に仕事に入った。
さすがに最初から連続はきついと思ったから、休みを取っていいと店長も言って、今日は家で猫のシマと留守番をしている。
藤代さんも、他のバイトもいたから、困ることもなかったし。
だけど志摩が傍にいない1日は長かった。
前も思っていたけれど、一緒にいる時間が増えてからは尚更だ。
こういうのを、ある意味依存症とでも言うんだろうか…。

仕事が終わった夕方、早く志摩に会いたくて、早足で家へと向かった。
もちろんそんな浮かれ気分は表面には出さないけれど。
早くあのおかえり、が聞きたい。
早くあの笑顔が見たい。
早くあの腕にしがみ付かれたい。
早く…。
何かの呪文のように、胸の中で唱えながら。

少し乱れた息を、玄関の前で整える。
鍵を差し込んで、会いたかった志摩が駆け寄って来るのを想像すると、自然に一人で笑ってしまいそうだった。
きっと志摩は俺の名前を呼びながら、走ってくるに違いないと思っていたのに…。



「…志摩?」

俺の予想は見事に外れた。
出掛けるはずはない、そう思って靴を確かめるために下に視線を向けた。
知らない男の靴…?まさか…。


「志摩っ、俺がいない時に…。」
「…あ、あの、隼人…。」
「お邪魔しています、隼人くん。」

何かのセールスかとも思った。
だけど今、来るとしたらあの男しかいない。
志摩だって本当に知らない、見たこともない人間を家に上げる程バカでもない。
それに、俺がいない時に家に誰も入れるな、それは何度も言い聞かせたことだったから。


「何してるんだよ、人の家で。」
「待っていようと思ったんですけど…。」
「あ、あの、外寒いから中のほうがいいと思って…!おじさん風邪ひいちゃうと…。」
「待ってなくてもいいって言ってるだろ、さっさと帰れ、いい加減にしろ!」
「でも隼人くん、どうしても…。」
「わからない奴だな、迷惑なんだよ!もう関わりたくないんだよっ!帰れ!!」

お茶まで出されていた矢崎を、無理矢理玄関まで押して追い出す。
言い訳なんか聞きたくない。
志摩がそうやって優しさでこの家の中に入れたとしても。
それでも嫌なものは嫌なんだ。
もう本当に関わりたくないんだ。


「出て行け。帰れ。」
「隼人くん…っ。」

俺より随分年上なのに、頼りなさそうな胸元を、玄関ドアの外へ押し付けた。
俺の名前を呼んで何か話そうとするのは、途切れて消えた。
矢崎の全身が外へ出たのを確かめると、夢中で鍵をかける。
もう二度と、ここへは来ないように。
もう二度と、関わりたくないから。


「あの…、隼人…。」

おどおどしながら、志摩が玄関まで近寄って来た。
きっと今志摩は、俺が恐いだろう。
怒られて、反省して、すぐに謝って来る。
下瞼に、涙まで溜めながら。


「ごめんなさい、あの、あのおじさんどうしても待ってるって言うから…。」
「だから家に入れたっていうのか?」
「きょ、今日はホントに寒いし…。」
「なんだ、あいつの身体が心配だったのか…。」

ダメだ、それ以上はやめろ。
それ以上言ったら、志摩は絶対に泣く。
そして俺は嫌われる。
志摩に嫌われたら、捨てられたら、俺はもう終わりだ。
わかっているのに、俺という人間はどうしてそれを止めることができないんだろう。


「お前はああいうのが好みなのか?」
「え…、隼人…?」
「一穂と言い、顔がよけりゃいいって感じか?」
「隼人、どうしたの…、何言ってるの…?」
「俺のこともそうだったっけ、カッコいいって顔見て言ってたろ。」
「隼人、わかんないよ、俺、隼人が何言ってるのか…。」

ほら、志摩はもう泣き出してしまった。
今謝れば、志摩は許してくれる。
ごめんねー、と、自分が悪いわけでもないのに泣きながら謝って。
だから俺が謝ればいいんだ、この時の取るべき行動は決まっているのにどうして…。


「今度は誰に脚開くんだ?」

どうして俺は、こんなことを言っているんだ。
自分で言いながら自分でわからないなんて、世界一バカだ、俺って奴は。
これじゃあ志摩をいじめていたあいつらと変わりない。
いや、それ以上に酷い奴になっている…。


「………痛っ。」

言ってしまった後、そんな俺のドロドロモヤモヤした気持ちを晴らすかのような、ぱしん、という空気を切り裂くような音がした。
正確には、俺の頬が志摩の手によって鳴ったのだけれど。


「ひどいです…、隼人、ひどいですっ、えっ、うっ、うぇ…っ。」

こんなに志摩が泣いているのに。
早く謝って抱き締めてやればいいのに。
あまりに驚いて、言葉が何も出ない。
動けないんだ、志摩…。


「な、長い間…っ、お、お邪魔しました…っ!ぅえっ、ごめんなさ……、うっく…っ。」

長い間、お邪魔しました。
それを言うならお世話になりました、だろ…。
妙な日本語が志摩らしい別れの挨拶だと思った。
いや、お世話されていたのは俺だから、それもそれで違うのか…。

そんなどうでもいいことを、一人になった部屋で呆然としながら考えた。
考えていると、志摩に打たれた頬がじんじんと痛くなってくる。
あいつ、普段あんな女みたいなのに…、案外力あるんじゃないか…。
あぁ、それもどうでもいいことだ。


「みぃ〜……。」

絨毯で寝そべっていた猫のシマが、慰めようとしているのか、寄って来ては俺の身体に頬を摺り寄せた。
こういうところは、人間の志摩とよく似ている。


「お前、置いて行かれたぞ、どうする?」
「み〜…?」

俺の言葉なんかわかるわけないよな。
それにお前は、俺に嫉妬してたから俺より志摩のほうが好きだっただろ。
ご飯も全部志摩が準備してくれてたもんな。
いつも抱き締めてキスしてもらってただろ。
風呂まで一緒に入ることもあったし、一緒に寝て。
一体これは猫のシマに言っているのか、自分に言っているのかもわからなくなる。
温かい猫のシマを抱き締めて、小さな背中に顔を埋めた。


置いて行かれたのは、俺か…。


志摩が出て行って30分も経って気付くなんて、本当にバカだ、俺は。
でも志摩、わかっているのに動けないんだ。
動けないんだよ、志摩…。








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