「ONLY」-10




『な、長い間…っ、お、お邪魔しました…っ!ぅえっ、ごめんなさ……、うっく…っ。』

待てよ…、待ってくれよ志摩…。
さっきのは違うんだ、あんなこと本心から言ったわけじゃない。
俺がバカなだけだ、あの矢崎に嫉妬なんかして。
いつも俺の名前を呼んで、俺だけ見ていてくれたのに。
ごめん、志摩。
泣くなよ、お願いだから泣かないでくれよ。
俺のこと、置いて行くなよ。
俺のこと、捨てないでくれよ…。


「…志摩……?」

どれぐらい経った頃だろう。
この世で一番大切な人の名前が、口からほろりと零れた。
夜になった部屋の中は電気が点いているのに、いつもより暗い気がした。
賑やかな志摩の声はなくて、ただ置き時計が時を刻む音だけが寂しく鳴り響いていた。
こんな時に寝てしまうなんて、何をやっているんだか。
そんな俺に付き合うかのように、隣では猫のシマも丸くなって眠っていた。


「志摩…。」

何度呼んでも、返事はない。
当たり前か…、あいつは出て行ったんだから。
思っていたより、呆気なかったな…。
あんな簡単に出て行くなんて思ってもみなかった。
それに、あの志摩に打たれるなんて、考えたこともなかった。
それほどまでに、俺は自信過剰だったんだろう。
志摩なら大丈夫だとか、俺がいないと志摩はダメだとか勝手なことを言って。
打たれた頬も、別れの挨拶も、胸の中も、全部痛い。


「志摩……。」

膝の上に、頭を伏せて、甘えるようにまた名前を呼ぶ。
さっきまであんなに傍にいたのに。
手を伸ばせばすぐに抱き締めることだってできたのに。
どうしてこんなことに…。


「み〜…、み〜…。」

俺の声で、猫のシマも起きてしまった。
その頼りない鳴き声は、今の俺の声とどっちが寂しげに聞こえるだろうか。
眠ってしまう前と同じようにして、猫のシマは俺の身体に擦り寄ってくる。
人間の志摩のほうは、今頃どうしているのだろうか。
鳴り響く時計に目をやると、もう20時を回っている。
こんな夜に外に出て、寒い思いをしていないだろうか。
腹は減っていないだろうか。
それともどこかの誰かに……いや、そんなわけがない。


「志摩…?」

志摩はそんな奴じゃない。
あいつが他に行くところなんかあるのか?
自信過剰でもいい、ここしかないはずなんだ。
志摩の居場所も、俺の居場所も。


「志摩…っ。」
「みゃっ。」

急いで立ち上がって、ソファに乱暴に置かれたコートを羽織った。
猫のシマがびっくりしたような声を上げて俺を見上げている。
床に放り投げた財布と携帯電話をジーンズのポケットに突っ込んで、猫のシマを抱き上げて背中を撫でた。


「ちょっと留守番してろよ?」
「み〜。」

普段はバカにしていたけれど、志摩が猫のシマにいつもするように、軽くキスをした。
実際志摩がここにいたら恥ずかしくて見せられない気もするけど。
それでも、ここには志摩がいないとダメなんだ。
俺がいて、志摩がいて、猫のシマがいて。
それがこの場所の定義みたいなものなんだから。

玄関を出る時、志摩が行きそうなところを考えてみた。
あのコンビニ、ファミレス、一番よく行くスーパーはもうすぐ閉店だ、それから猫のシマを拾った公園と、一番よく行くのは…。


「藤代さんっ、藤代さんっ。」
「あー?水島か?」
「そうです、あの、聞きたいことが…。」
「何?どうした?んな慌ててよ。」

インターフォンというものがありながら、俺は隣の藤代さんの家のドアを何度も叩いた。
これじゃあ志摩のことは言えないよな。
あいつもインターフォンが鳴っているのに、取らずに直接出てたっけ…。
それが可笑しくて、何度も笑いそうになったんだ。


「あの…、志摩が…。」
「何?シマたんがどうかしたのか?」
「あ……。」
「水島?シマがなんだって?」

俺は志摩に置いて行かれました。
志摩に逃げられて、どこに行ったのかわからないんですが知ってますか?
それを俺は今言わなければいけないのか…。
そんな情けないことを、他人に晒さなければいけないのか…。
しかもこの様子だと、藤代さんは知らない感じがする。


「いえあの…、…なんでもないです……。」
「は?何言ってんだ?」
「なんでもないです、すみませんでした。」
「おい水島…!」

藤代さんの心配そうな声を途中で振り切った。
そうだ、これは俺の問題で、俺の責任なんだから。
藤代さんに、その恋人のシロにも迷惑をかけるわけにはいかない。
だとしたら藤代さんの弟のところもなしか…。
それからあとは誰だっけ…志摩の知り合い…。
一穂は志摩が元いた施設だから、行くわけがない。
それともやっぱりコンビニかファミレス…、腹が減って何か食べているかもしれない。
たとえば大好きなエビフライとかエビピラフとか。
そう思って、他人の家以外の思い当たるところ、全部を探した。
携帯はもちろん、繋がらない。
これはもしかして、いや、もしかしなくても、俺、嫌われたのか…?
もう俺とは話もしたくないとか声も聞きたくないとか。
あぁ…、なんてことをしてしまったんだろう。


「志摩…。」

今の俺は、世界一情けない男に違いない。
好きな人に捨てられて、捨てられていた時の猫のシマみたいだ。
誰かが拾ってくれるのを待っていた…。
とんだ思い違いだった。
置いて行かれたのが俺なら、そもそも拾われたのも俺だったんだ。
それをどうしてこんなに思い上がっていたんだろう…。


「寒い…。」

寒いんだよ、志摩。
早くその身体で、俺を温めてくれよ。
いつもみたいに、抱き付いて、キスをして欲しい。
そしたら俺はどんなことでもできる。
志摩のためなら…。


「…い、おい…。」
「志摩…?」
「大丈夫か、おい。」
「志摩…っ。」

帰って来てくれるなら、絶対にここを通るはずだ。
窓から侵入して来ても、住んでいる建物の前は絶対に通る。
志摩もきっと寒い思いをしているから、そう思うと外で待つのなんか大したことでもないと思った。
夜が更に深くなって来た頃、誰かが近くに立っている姿が見えた。

あぁ、志摩だ…。
俺の好きな志摩がすぐ傍にいる。
早く捕まえないとまた逃げられる。


「バカ、俺はシマじゃねぇって!おい水島…っ!」


やっと捕まえたと思ったら、別の人間の声がした。
それが志摩じゃないとはっきりわかる寸前で、俺の意識は途切れてしまった。













「目ぇ覚めたか。」

見たことのある天井。
これはうちの天井と同じ色だ。
だけど何かが違うその場所で、気が付くと温かい布団に包まっていた。


「あれ…、藤代さん…?」
「藤代さん、じゃねぇよ、あんなところに何時間もいたのか?」
「あの…、俺、志摩を探してて…、志摩に捨てられたんです…、それで…。」
「遅ぇよ言うのが。」

自分でもわかっている。
今頃言っても志摩が見つからなくて俺はぶっ倒れただけだってことは。
だけど人に言われると余計悲しくなるもんだと思った。
それでもいい、情けないのを隠しても志摩は帰らないんだから。
そう思うと、不思議なぐらい、言葉がうまく出てくる。


「お願いです、志摩を、探してくれませんか…。あいつ今頃腹が減ってると…。」
「腹なんか減ってねぇだろ。」
「そんな…、あいつすぐ腹減らすんです、お願いします…。」
「シマはさっきうちでメシ食ったからな。」
「……は??」
「泣きながら食ってたぞ、お前ちゃんと今みたいに素直に謝れよ?」

嘘だろ?そう思った時、藤代さんがニヤニヤ笑っている。
嫌な予感がして、奥の寝室の方へ目をやると、引き戸がゆっくり開いた。


「な…!藤代さんっ、どうして…!」
「お前がちゃんと言わねぇのが悪い。素直にシマを探してるって言えばいいのによ。」
「でも…!」
「罰だ罰、お前がそうやって誰も信じないから。」

誰も信じない。
誰も求めないし、誰も待たない。
志摩と出会う前の俺はそうだった。
ちょっとはマシになったと思っていたこの欠落だらけの人間性は、まだまだだったらしい。
誰も…、一番信じなければいけない人を信じなかったから。
藤代さんにしたってそうだ、こんなによくしてくれているのに俺は…。
罰を受けても、文句は言えない。


「志摩、こっちに…、こっちに来いよ…。」
「うえぇ…、隼人…、隼人ー…。」

今度こそ、本物の志摩に、手を伸ばした。
強く抱き締めたら壊れそうなぐらい、細くて小さな身体なのに、その内側はとてもしっかりとした芯のような骨組みがある。
それはきっと俺なんかよりずっと強くてずっと優しいんだ。


「ごめん、ごめん、志摩、ごめん。」
「隼人ーごめんなさいー…、俺、ごめんなさいー。」

志摩が悪いわけでもないのに何度も謝るのは予想通りだった。
そんな志摩に思われている俺はなんて幸せ者だろう。
もっとそれに早く気付いて、もっと大事にすればよかったんだ。
過ぎてしまったことを言ってもどうしようもないから、これからそうすればいい。
すぐにできなくても、そうなるように努力すればいい。


「ごめん、志摩。」
「ううん、俺もごめんなさい…。」
「もうあんなこと言わないから、だから…。」
「違うの…、隼人はそんなこと言わないってわかってて俺…。」

俺が勝手に苛々して八つ当たりしただけだったのを、志摩もわかっていた。
それでもやっぱりあの言葉はショックだったのだろう。
俺に信じてもらえないと思って。


「あー、そこの二人。」
「……あ。」
「亮平くん、色々ありがとうございます…。」
「いや、それはいいんだけど…。俺ら洋平んとこ行くから。」
「亮平〜、洋平待ってるって!メール返事来た!」
「え?どうしてですか?俺たちが戻れば……っ、あ……??」

弟のところへ行く、と意味のわからないことを言って藤代さんとシロは出掛ける用意をした。
すぐ隣に、自分の家があるんだ、この部屋から歩いて鍵を開けて、自分の家に入るまでに、1分もかからない。
立ち上がろうとすると、面白いぐらいにぐにゃりと視界が大きく揺れた。


「お前結構弱いな、すっげぇ熱だぞ。」
「あ…、はい、すいません…。」
「お前みてぇなデカいの運ぶのなんかもう御免だ、どんだけ苦労したと思ってんだよここまで。」
「…すいません……。」

シロを顔を見合わせているということは、シロも手伝ってここまで来たんだろう。
その間全然気付かなかった俺も俺だけど。
それにしたって弱ってると知っていてそこまで言わなくてもと思う。
だけどこれが藤代さんで、俺はそんな藤代さんのことをいい友達だと…。
いや、友達っていうのはおかしいかもしれないけれど。
多分藤代さんもそう思ってくれていて、なのに俺が素直に言わないから、罰だと言って志摩のことを隠したんだろう。
なんだ、俺、志摩以外にもちゃんとまわりに理解してくれる人間がいたんじゃないか。
志摩がいなければ、そんなこともわからなかった。


「志摩…。」
「隼人、えへへ、隼人ー。」

起き上がることもできなくて、傍に座った志摩の手を掴んだ。
俺より柔らかいその皮膚を、撫でて自分の頬に当てた。
さっきの打たれた痛みが、何かの魔法をかけられたみたいに和らいでいく。


「あー、お前ら、ヤるならヤるでいいけど、後片付けはしてくれよ?」
「りょ、亮平っ!そんなこと言ったらできなくなるって…!」
「何言ってるんですか…。シロまで…。」
「そ、そうだよ!隼人病気だもん、そ、そんなことしないもん!」
「そうかぁ〜?」

なんだか最近、シロは藤代さんと似てきた気がする。
言うことが藤代さんっぽかったり、口調を真似したり。
一緒にいるって感じがして、実は羨ましかった。
そんな風に、俺も志摩みたいになれるだろうか。


「えへへ…、隼人…。」
「志摩、こっち…。」
「あ、あの…、隼人…っ?」
「ちゅー、だけ……。」

多分この熱は風邪だと思ったから、うつることも考えてやめようと思った。
でも今その唇に触れたくて堪らなかった。
普段はあんな恥ずかしい言い方なんかしないのに、相当熱があったらしい。
引き寄せた志摩の唇に、優しく自分の唇を重ねた。
その1回のキスだけで、今夜は気持ちよく眠れそうだった。









back/next