「ONLY」-8




『聞いてくれるまで、来ますから。』

そう言っていたことも忘れかけそうになる4日後のことだった。
こちらとしては話すことなどないのだから、好都合だったけれど…。
志摩はいつもより更に早起きをして、朝から張り切ってキッチンに立っている。
時々聞こえる下手くそな鼻歌が、その浮かれ気分を示しているようで、危うく俺まで浮かれてしまいそうになった。


「隼人ー、ご飯できたよー?あとお弁当も!ご飯にしよー?」
「今行く。」

顔を洗って、近くに掛けてあるタオルでゴシゴシ水気を拭き取る。
薄い水色ののシンプルなタオルからは、洗い立てみたいにふわふわで洗剤のいい匂いがする。
これも志摩がきちんと洗濯をしてくれているからだ。
俺の生活の何から何まで、志摩が深く関わっているのを実感できる、たくさんの小さな瞬間の一つだ。
拭き終わって元の場所にタオルを掛けると、また別の瞬間を感じる場所へと向かう。


「今日は目玉焼きだよー、あとベーコン。熱いうちに食べよー?」
「うん、いただきます…。」
「いただきまーす!」
「み〜♪」

湯気といい匂いの立ち上るテーブルには、ごく普通の朝の食事が並んでいる。
決して豪華でもないし、本当に見た目も普通だ。
だけど俺にとってそれは何よりの食事なんだ。
ずっと手に入れたくて、でも手に入らなかったもの。
一人でもいいと言いながら、心の奥底では欲しくてたまらなかったもの。
足元では猫のシマも一緒になって、それを味わおうとしていた。


「えへへー、んふふー、へへー…。」
「…朝から気持ち悪いんだけど。」
「き、気持ち悪いっ?!俺、気持ち悪いの?!」
「うん、気持ち悪いな。」

ご飯を頬張りながらでれでれ笑う志摩を、いつもの癖でついからかってしまう。
その言葉をそのまんま捉えてしまう志摩も志摩でいけないんだ。
そうやって俺の何もかもを刺激するんだから。
可愛いって言いたくても余計言いたくなくなるだろうが。
朝じゃなかったら、すぐに手を出してしまっていたかもしれない。
志摩が俺と一緒に出掛ける日じゃなかったら。


「だってー、隼人と1日中一緒だもん、嬉しいんだもん。」
「いいから早く食べろ、遅刻したらどうするんだ。」
「はーい…。」

それ以上そんな顔したら抑えが利かない。
時間がないことを理由に、志摩の惚気を止めさせた。
怒られてしゅん、となってる顔もまずいと言えばまずいんだけど…。
どこまで俺は、志摩に夢中になっているんだ。
きっと惚気ているのは、志摩よりも俺だ。


「シマにゃん、お留守番頑張ってね。ごめんね、置いて行って。」
「みぃ〜…‥。」
「今日はお隣のシロにゃんのところ行こうね?」
「みゃぅ〜…‥。」

寂しがる猫のシマとの別れを惜しむように、志摩は話し掛けながら抱き締める。
小さいと言ってももう赤ちゃんでもないから、置いて行くことにしたのだった。
とりあえず初日は、隣に住む藤代さんの恋人のシロが、今日は仕事が休みだと言うから預けることにした。
その隣の藤代さんの家にも、シロと同じ名前のシロという猫がいて、時々会話をしているとややこしくなったりする。


「シマ〜、ミズシマ〜、シマ取りに来た!」

そう、たとえばこんな時とか。
ちょうどよくシロが、猫のシマを預かりにやって来たのだった。
ドアを開けると今起きたのかというのがすぐにわかるような格好でシロが立っていた。
藤代さんのことだから、色々やらかして夜更かしさせたんだろう。
俺も最近、そうやって人様の夜の事情が気になってきている。
前はそんなことはどうでもよかったんだけど。
いいことなのか、悪いことなのか…。


「シロー、シマにゃんよろしくね?」
「お〜、まかせてくれ!オレのとこのシロもいるもんな!」
「仲良しだもんねー、シマにゃんとシロにゃん。」
「うん!だから大丈夫だ!」

仲良しなのは猫達だけではないのが、和み気分を与えてくれる。
一度始まるとキリがなくなりそうな志摩とシロの会話を遮るのは悪いと思ったけれど、
そろそろ本当に時間もなくなって来たので、志摩を促すように玄関を出る。
鈍感な志摩でも俺の行動に気付いたのか、後ろから玄関を出た。


「頑張れ、シマ!」
「ハイッ、頑張りますっ!んじゃね、またねー。」

シロにまで嫉妬する時がある。
絶対に志摩とシロが何かあるわけがないのに。
どうして俺はそんなに心の狭い人間なんだ、と自分を責めたくなる。
それでも志摩がすぐに俺だけに笑ってくれると、その不安もなくなるんだ。
調子のいい奴だよな…。












「水島くんの弟ねぇ、なんだか全然似てないけど…。」
「は、はじめまして、志摩です、えっと、み、水島……志摩です…。」

藤代さんが、自分の次に入る人間のことはある程度は話しておいてくれていたらしい。
時間ギリギリになって、店へ到着すると、早速店長のところへ向かった。
ジロジロと俺と志摩の顔を見比べている。
そりゃあ似てないのは当たり前だ。
血なんかまったく繋がっていないんだから。
だけどまさか自分の恋人で、自分の籍に入れた子供になります、
なんて本当のことを言えるわけがないから、兄弟ということにしたのだった。
嘘を吐くのは好きじゃないけれど、この人に嘘を吐いても罪悪感なんてない。
逆に嘘を吐くことで何事も穏便に運べるということもある。


「年齢は?うちは中学生はダメなんだけど…。」
「お、俺はあの、高校はやめました、もうすぐ16歳です。やっぱり高校出てないとダメですか…?」
「あ、そうなの、16ね、それならいいけどね。水島くんも出てないんだったよね。」
「え…!隼人そうなの…?」

志摩にはまだ言っていなかったことを店長に告げられた。
その話題を振られると思っていなかった俺は一瞬焦ってしまった。
別にわざわざ話すようなことでもなかったから黙っていたんだけど…。
いや、まずいのは、それじゃなくて…。


「え…?知らないの?弟さんでしょ?」
「あ…あの、えっと…。」
「事情があって離れて暮らしていたんですよ。」
「へぇー、そうなの。だから仲良いんだね、お兄さんを名前で呼んで。」
「えぇ、こいつは俺がいないと何もできないんで。」

妙にしつこい店長に苛々しながらも、おどおどする志摩をよそに、何食わぬ顔で答える。
そんなことを考えている暇があったらもっと仕事しろよ、と言いたいところだ。
それ以上突っ込むことはさすがになかったけれど、案外心臓に悪いことだと思った。
なんとなく納得したようで、後はお兄さんに教えてもらって、と言い残して、店長はどこかへ出掛けてしまった。
俺がいないと何もできない。
それは志摩のことを言っているようで、実は俺のことを言っているんだと思う。
志摩がいなければ苛々する感情さえわからずにいた。


「ねーねー、なんだかドキドキするね、兄弟っていうの。」
「そ、そうか
…?」
「お兄ちゃんって呼んだほうがいいのかな…?」
「いや、いいよ、今のままで。」

二人きりになったバックルームで、志摩が見つめてくる。
その熱い上目遣いと、周りに聞こえないようにと小さく囁く声に、眩暈がした。
これはもう、俺の理性がこの先も保てるのを祈るしかないと思った。


思ったよりかは、志摩は覚えがよかった。
あくまで思ったよりかは、というレベルで、他から見たらやっぱり覚えが悪いのかもしれない。
普通に歩いていて転ぶとか、物をよく落とすとか、そんなことは俺の中では予想ができていて、大したことではない。
それに、志摩自身は一生懸命やっている。
俺はちゃんとそのことを知っているから、いいんだ。
何度も教えるのも苦にはならないし、できるまで教えてやろうとも思う。


「うー、俺やっぱりダメだねー、全然覚えられないよー。」
「最初は誰でもそうだろ。」
「そうかなぁ…。隼人、ごめんね…?」
「いいよ、謝らなくても。」

そんなに謝ることでもないのに、志摩は何度も頭を下げた。
人前じゃなかったら、思い切り抱き締めてやりたかった。


「志摩、こっち。」
「はいはーい。」

数時間が経って、外の掃除でも教えようと、掃除道具を持って店のドアを開けた。
店の前は散らかりやすいから、だいたいだけど時間毎に掃除をする。
今日は俺と志摩、その2時間後にはやめる予定の藤代さんが入っていたから、志摩に付きっきりで教えることができる。


「わー寒いねー…。」
「だったら上着着てきてもい………。」

冬の冷たい風が枯れ葉を運んでいた。
掃除道具を持ったまま、動けなくなるところだった。
よりによって忘れそうだと思った今日に矢崎が来るとは思ってもいなかった。
しかもバイト先にまで。


「こんにちは、隼人くん、あの…。」
「何しに来たんだよ…。」
「この間言った通り話したいことが…。」
「俺はないって言ってるだろ!帰れよ!こんなところまで来て何考えてるんだよ!」

ばあさんが何だって言うんだ。
あの女…、母親がなんだって言うんだ。
俺にはもう関係のないことなのに。
どうしてそうやって俺の今を壊そうとするんだ。


「あ、あのー?」
「志摩っ、話し掛けるなっ。」
「ご、ごめんなさいっ!」
「隼人くん、その子はこの間もいた…。」
「だからなんだよ、あんたに関係ないだろうが。」

志摩にまで八つ当たりしてしまった。
多分志摩は俺の後ろでびくびくしている。
俺に怒られて反省して、また怒られないかと。
こんなところ、志摩には見せたくないのに…。


「もう二度と来るなよ、ばあさんにも話はないって言っておいてくれ。」
「でも隼人くん…、奥様は…。」
「知らねぇって言ってるだろ!行くぞ志摩っ。」
「あ…、は、ハイ…っ!」

やっぱりびくびくしていた志摩の肩を掴んで、店のドアを勢いよく開けた。
矢崎は何も言えなくなって、追いかけて来ることもできないようだった。
本当に一体なんだって言うんだ…。
俺に何を話して、何を奪うつもりなんだ…。
息がまだ荒いまま店内に駆け込むと、藤代さんが驚いたように俺達を見ていた。









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