「ONLY」-6




「ただいまー、ただいまですっ。」

誰もいない、暗い部屋へ帰る時も、志摩は挨拶を欠かさない。
腕に抱いていた猫のシマを解放してやると、嬉しそうに中へと掛けて行く。
電気のスイッチを入れると、いつものあの明るい空間へと変わる。
志摩が来る前は、こんなに家に帰るのが楽しいと思ったことがなかった。


「…ただいま。」

志摩に便乗するかのように、無意識のうちにぼそりと呟いていた。
誰かが待っているとのも久し振りだったし、ただいま、や、おかえり、
その言葉自体、久し振りに聞くし、言っていたと思う。
今日も、そんな志摩と猫のシマと一緒に夕ご飯を食べた。
買って来たエビフライは冷めて数が減っていたのには、
せつなくなっていいのか笑っていいのかわからなかった。

お先にどうぞー、と志摩が言ったので、夕食後、先に入浴を済ませた俺は、
タオルで髪を拭きながら、ソファに腰掛けた。
今日のことを、どうしたらいいのか。
志摩もあの後何も言って来なかったから、触れない方がいいのだろうか。
触れて欲しくないのかもしれないし。
だけどそれで志摩と俺の間にある何かは埋まるのだろうか。
そんなことばかり、ぐるぐると脳内を巡らせていた。


「お、お風呂いただきました…。」

おそらく志摩もそんなことを考えているに違いない。
俺が考えているのにも気付いているのか、気まずくて微妙な空気が流れる。
いつもはすぐにべたべたひっついて来る志摩が、俺から一番遠く離れた、
ソファの隅っこにちょこん、と膝を抱えて座っている。


「…もっとこっちに来れば……?」
「えっ!…あ、な、なんか隼人えっち…。」
「バカ、そんな意味で言ったんじゃ…、それはくっつき過ぎ。」
「うー、だってー…。」

普通に言ったつもりでいたのに、志摩がそんなことを言うもんだから、俺のほうまで恥ずかしくなってしまった。
真っ赤になりながらおずおずと近付いて来た志摩は、俺に抱き付いて、
身動きが出来ないぐらいぎゅっと強くその腕に締め付けられた。
恥ずかしいんだか、大胆なんだか。


「志摩、引っ越すか…。」

俺が鈍いせいで、気付くのが遅くなってしまったけれど、もっと早くそうするべきだったのかもしれない。
別に俺はここに未練も何もないし、バイトだって今のところに通うのが面倒なら、引っ越した先で探すことだって容易なことだ。
志摩のあんなところを見る前に、気付けばよかった。
志摩があんな思いをする前に。


「や、やだ…、嫌です、引っ越ししたくないです…。」
「でも…。」
「だってシロも亮平くんもみんないるし…、怒るかもしれないけど一穂くんもいるし…。」
「それはそうだけど…。」

一穂に対しての俺の疑いはもうないのに、志摩はまだ気にしているらしい。
あれは多分、俺のつまらない嫉妬心だったのに。
そうやって俺のことばっかり考えるんだもんな…。
確かに志摩の言う通り、隣にはシロも藤代さんもいる。
少し歩くけれど、猫神様も藤代さんの弟もいる。
シロの働いているケーキ屋さんもあれば、そのケーキ屋さんの主人の弟で、
以前コンビニで働いていた柴崎さんもまたわりと近くにいる。
そうやって志摩が、ここに来てから築いてきた関係の人達と、離れるのが寂しいのはわかる。
わかるけれど、またあんなことがあったら、それだけが心配なんだ。
今日の奴らはもう来なくても、別の奴が、とか、色々な可能性を考えてしまう。


「それに…、隼人のお母さん帰って来るかもしれないし…。」
「…え……。」
「その時会えなかったらダメだもん…。」
「それは…。」

抱き付いて来る腕に、一層力が込められた。
いつだったか、自分のことをちらりと話したのを、志摩は覚えていた。
もう何年も帰らない母親を、待っているつもりなんかなかったのに…。
未練がないと言いながら、俺がここから離れられなかった理由を、胸にぐさりと突き付けられたような気分だった。
俺はあの女を、本当は待っていたんだろうか。
もう帰ることなんてない、そう決め付けて諦めながら。
いや、そんな絶対にそんなことはない。
現に今、すぐにでもここを出るとすれば、俺は何の迷いもなくどこへでもい行ける。
志摩が、こうして傍にいてくれたなら。


「それはもういい。もういいんだ、志摩。」
「でもー…。」
「でもお前が嫌なら無理には引っ越しはしないから。」
「よかったー。あのね、今日の隼人カッコよかったー。」
「カッコいいってな…。」
「だから大丈夫だよ?隼人がいるから大丈夫だよ、俺。」

でれん、と目を細く垂らして、志摩は笑顔で俺の腕に頭を擦り付けて来る。
こういう時の志摩は、ごろごろ甘える猫みたいだ。
最初はそんな猫だと嘘を吐いて、ここへ侵入して来たのに。
そんな志摩と一緒に暮らして、籍まで入れたなんて、人生というものは何があるかわからないというのは本当だと思った。
人生も捨てたもんじゃない、その言葉の方が合っているかもしれない。


「そうだ志摩、嫌だったらいいんだけど…。」
「ん?なぁに??何?何ー?」
「藤代さんがやめるんだ、店。それで…。」
「何?何ー?早くー。」

それは、最近藤代さんに相談されたことだった。
自分は学生になるから、今のシフトでは入れなくなる。
時間を減らすと給料ももちろん減るから、もっと割のいい仕事に移ろうと思っていると。
それは俺も思っていたことだったし、そうする方がいいと思った。
そこで、その後をどうするか、藤代さんなりに考えたらしい。
すぐに募集をかけても、藤代さんのシフトで入れる人は滅多に来ないし、決まるまで時間がかかってしまう。
店長は店長で面倒なことが嫌いだから、誰かいるなら、そう言われたそうだ。
そこで志摩はどうか、そんなことを俺に相談して来たのだった。
その時俺は、志摩の学校のことをどうするかもやもやしていたから、話しておきます、とだけは言っておいたのだ。
だけどもう、志摩は学校に行きたくないというのがはっきりわかった。
俺としても元々、行く必要はないと思ったけれど、志摩の意思が確かめられた今、この話をしてみようと思った。


「や、やりたいです!!わーい隼人と一緒にバイトー。えへへー♪」
「でもまたあいつらみたいなのと会ったら…。」
「うんあの…、えっと、やっぱり今日みたいの隼人は迷惑だよね…。」
「いや、志摩がいいなら、絶対俺が……。」

絶対俺が守ってやるから。
あまりにも恥ずかしい台詞を、志摩本人にも聞こえるかどうかというぐらい、本当に小さな声で呟いた。
視線を逸らした俺に、志摩は満面の笑みで、再びしがみ付いて来た。
恥ずかしさでどうしていいのかわからなくて、とりあえずなのか何なのか、志摩の髪を撫でた。


「あのね…、俺、この名前嫌いだったの…。女の子みたいだし…。名字は園長先生のだったんだー。」
「うん。」
「施設の前に捨てられてた時、メモだけあったんだって。なんかドラマみたいだよね…。」
「志摩…。」
「いなくなるなら名前なんか付けなきゃいいのにね。」
「……。」

志摩がそのことを詳しく話すのは、初めてだった。
思い出さないようにしていたのかもしれない。
それと、俺に心配をかけたくなかったからだ。
俺に同情だけで置いて欲しくなかったから。
今までずっと、我慢していたんだろうと思うと、俺の方が泣きそうになってしまった。


「捨てるならどうして、って。でもあの…、隼人と会えたからいいの。
名前、隼人が呼んでくれるから好きになったの。そういうのダメかなぁ…?」
「ダメじゃないよ。」
「えへへ、よかったー…。」
「うん…。」

ダメも何もない。
それは、俺も思っていたことだったからだ。
いなくなるなら、待ってて、なんて言わなきゃいいのに。
一人にするなら、産まなきゃよかったのに、そう何度も思った。
だけど志摩と会えたから、本当にそう思ったんだ。
絶対に俺と志摩は違うタイプの人間で、合わないものだと思っていたけれど、
そういうところで惹かれるのは運命だったのかもしれない。
今度は感動で泣きそうになってしまった。


「隼人…、ここにいていい?」
「うん、いいよ。」
「じゃあ俺、ずっとここにいるー。」
「うん。」

それは、昨日の妙な夢と同じような会話だった。
夢よりも志摩は成長していて、今の志摩が現実なんだけれど。
あれは予知夢か何かだったのだろうかと、不思議な気持ちになった。
志摩の笑顔まで、夢の中と同じだったから。


「なんだか眠くなってきたー…。」
「いいよ、後で運んでやるから。」
「うん……。」
「志摩……。」

志摩が今は呼ばれるのが好きだと言う名前を呼んだ。
安心して眠くなったのは、腕の中の志摩も、俺もだった。
後で運んでやると言ったのに、それを守らずに、志摩とほぼ同時に、俺も眠りに落ちてしまっていた 。










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