「ONLY」-17




「えっ!シマとミズシマ、引っ越すのか?!」

数日後の夜、俺と志摩は、隣の藤代さんのところにいた。
あの翌日には熱もすっかり下がり、志摩もようやくバイトに慣れて来た頃だった。
相変わらず、うっかりミスや突然転んだりはするけれど。


「うん、引っ越すんだよー♪でもでも…、シロと離れるの寂しいー!」
「う…、オレもシマと離れるの寂しい〜。」
「俺も水島と離れるの寂しい〜ん。」
「藤代さん…、気持ち悪いんでやめて下さい…。」

藤代さんの、気持ち悪ぃとはなんだよ、と怒るのは聞かない振りをした。
この人の冗談に付き合ってしまったら俺はいいように遊ばれるだけだ。
別に嫌いとか言うわけじゃないけれど、その冗談に乗る俺っていうのが俺らしくないからだ。
大きなダイニングテーブルに、志摩と二人並んで、出してもらったお茶を啜った。


「でもなんで突然引っ越しなんだ?お前そんなこと言ってたっけ?」
「いや…、まぁ…引っ越しするというか、するよう嵌められたというか…。」
「嵌められた?なんだそりゃ。」
「はぁ…、実はですね…。」

今思い出しても胸の辺りがムカムカする。
あの熱の日の後に起こった出来事を、俺は話すことにした。
それも今までなら、なんでもないです、で通していたことだっただろう。
なんでもないわけがないのに、なんでもない振りをして。
その点は、自分で言うのも何だけど成長したと思う。

熱がすっかり下がった翌日の夕方、バイトを終えて志摩と一緒に家に帰った。
志摩がポストをチェックすると、一通の封書が入っていた。
ベージュ色の、高級そうな和紙のような封筒には、速達、の赤い印字がされていた。
普段人から手紙なんて来たことがないから、志摩がはしゃいで俺に渡して寄越した。
綺麗な筆ペンか何かで書かれた宛名は俺の名前、差出人は水島美津子、名前だけは記憶にある、俺のばあさんからだった。
だけどおかしいのはその消印が日本、しかも同じ東京都だったことだ。
中の便箋には、俺に対する謝罪と、話をしたいから連絡をくれといういことだけだった。
特に話をしたかったわけじゃない。
今まで来ていた手紙を捨てたり、電話を取らなかったりした俺も俺で悪かった。
ばあさんはそれを知らないまま自分を責めているかもしれない。
俺を途中まで育てた、ばあさんにとっては娘の理香子という女がしたことをばあさんは母親として責任を感じていたのだ。
だからそのことも、説明をしなければいけないと思った。
それから、消印のこと、ばあさんはドイツにいるはずで、しかも病気で先が短いはずだという、矢崎の話の真偽を確かめたかった。


「あたしが病気?一体誰がそんなこと言ったの。」

書いてある電話番号に電話をした時、ばあさんの第一声がこれだった。
その電話の声でもわかるぐらい、ばあさんはピンピンしているらしい。
おまけに、矢崎に頼んだのは、ドイツに行く前に色々準備があるからだと言う。
つまりはもうすぐ発つということで、移住なんて話はこれからのことだったのだ。


「奥様には随分よくして頂きました、なんて手紙だけ残して。何を考えているんだかねぇ。」

困ったような、寂しいような声だった。
自分の娘に恋をして、子供まで産ませた矢崎を、ばあさんは許していた。
たとえそのせいで娘がこの世を去ってしまったとしても、
好きな人に好きになってもらえて子供が産めたなら本望だ、そう言って矢崎を責めたりはしなかった。
そのばあさんの優しさが辛くなってしまったんだろうか。
それとも、その家にいると俺の母親のことを思い出して辛かったのだろうか。
矢崎がいなくなった理由は、よくはわからないままだ。
ただはっきりとわかったのは、ばあさんの遣いでもなんでもない、矢崎は自分が望んで俺に会いに来たということだった。
それから、そんな風にして嘘をついて素直でないところが、 さすがは俺の父親だと思って、笑うことでもないのに可笑しくなってしまった。


「老い先短いのは本当だよ、だからね隼人…。」

病気じゃなくても、それは確かに事実だ。
母親が俺を産んだのがまだ20歳の頃、その母親をばあさんが若い頃産んだとしても、老人と言っていい年齢には違いなかった。
だからうちに戻っておいで、あの人が築いた会社を継いで欲しい、ばあさんは懇願したけれど、
本当に悪いとは思ったけれど、それはやっぱりできなくて、きっぱり断ったのだ。
俺を途中まで育てた理香子という女が結婚していたのも事実だった。
ただ、もう帰らないと絶縁同然で出て行ったことは矢崎の説明にはなかったけれど。
ということは、今まで俺の口座に金を入れていたのもばあさんだったということになる。
それでもどうしても、今更というのがあって、それだけはできなかった。


「じゃあせめて、辛い思い出のその家はもう出たらどうだい?」

辛い思い出だけではなかった。
あの家は、志摩と出会った大切な俺の家だ。
だけどばあさんがどうしてもと言うから。
しかも精一杯辛そうな声で言うから。
ばあさんなりに謝罪を何か形にしたかったらしい。
そこでついうっかり乗ってしまったのが、大きな間違いだった。


「すごーい!おっきいお風呂ー、台所ー!広ーい!!」

矢崎から聞いたのか、ばあさんは志摩のことを知っていた。
好きな人と一緒にいるならよかったと喜んではいたけれど、果たしてその志摩が男だということは知っているのかはわからない。
その志摩が好きそうなマンションの一室を用意して、引っ越しやら何やらの業者まで手配していた。
とりあえずと言われて見に行った途端、そのばあさんの思惑通り志摩は気に入ってしまった。


「ここで隼人の帰り待つのとか楽しいだろうなぁー…。」

うっとりする志摩に、俺はすぐに負けてしまった。
そんな顔で、俺を待つ姿を、脳内で鮮明に描くことができたからだ。
その志摩の顔を、見たいと思ったから。
それでばあさんの気が済むなら、そういう思いもあった。
だけどそこはやっぱり俺のばあさんで、そんなに綺麗には終わらなかった。


「は?!ローン?お前が?!」
「勝手に組まれてたんですよ…。」
「だってその間取りでって…、悪ぃけど無理だろ、あのコンビニの稼ぎじゃ。」
「そこもちゃんと仕組まれてましたよ。」

血の繋がった孫に対して、詐欺まがいのことまでするとは思わなかった。
いくら金持ちでも、謝罪とは言っても、ただであの物件をくれるとは思ってはいなかったけど。
それでも勝手にローン組ませて、挙げ句の果てにそのじいさんが築いたっていう会社、
そこの関連企業に就職するように手回しまでするなんて…。
これで人間不信にならないほうが珍しいぐらいだ。
それでもそのばあさんの筋書きに乗ってやろうと思ったのは…。


「あのね、シロが泊まりに来た時の部屋もあるの。だから来てね!」
「うん!オレ行く、遊びに行く〜。」

志摩がこれからのことを楽しみにしているから。
俺がばあさんと話せたことを誰より喜んでいたからだ。


「しっかしすげぇばあさんだな…、お前のばあさん…。」
「俺もびっくりしたぐらいですからね…。」
「まぁでもババ孝行してやれていいんじゃねぇ?」
「はぁ、まぁそうですね…。」

実際ばあさんはもうすぐドイツに行ってしまう。
その会社もばあさんは引退をして、別の人間がきちんと後継した。
だから俺とばあさんは、これからも直接は関わることはない。
だけどどこか見えないところで、ばあさんなりに俺と繋がっていたいんだろう。
俺も今更家族ごっこなんてごめんだと思っていたけれど、
そんなばあさんも寂しかったんだと思うと、できる限りでいいから応えてやろうと思った。


「まぁ頑張れや、旦那様。可愛い奥さんのためにな。」
「からかわないで下さいよ…。」
「からかってねぇよ、祝福してやってんだろうが。もっと喜べよ。」
「それは…、ありがとうございます…。」

そんな押し付けがましく祝福されても…。
だけど藤代さんなりのこの言い方のほうが、俺としては嬉しかったりする。
そうやってからかう振りして、応援してくれているのが、わかるから。


「お別れ記念に一度でいいから目の前でシマたんとイチャイチャしてんの見せてくれよ。」
「何言ってるんですか…。」
「えー?でも亮平いつも壁で聞いてるのは?」
「うわっ、シロっ、何言ってんだ!」
「藤代さん…?シロ…?」
「い、いやーここって結構壁薄いんだよなぁーなんてな!冗談冗談!」

それは俺も考えたことがある。
よく隣で物音とかが聞こえてきたことがあったから。
だけどまさかあの時の音まで聞こえるとは思ってもみなかった。
俺も別に藤代さんのところのを聞くつもりも聞いたこともなかったし。


「そうだ!亮平はコップ当てて聞いたりしてないぞ!冗談だ!」
「シ、シロ…!!」
「へえぇー…、そうなんですか。」
「りょ、亮平くんそんなことしてたの…!!」
「いやだから、な?俺と水島の仲だろ〜?な?」
「俺は藤代さんとそんな仲になった覚えはありませんけど。」

いつもからかわれているからと、ここぞとばかりに藤代さんを攻撃した。
シロもシマと同じで、言わなくていいことをバカ正直に言うもんだから、墓穴掘りまくりで、藤代さんの立場がない。
本気で怒っているわけじゃなかった。
聞かれていたことが恥ずかしいだけだ。
だけどこれ以上藤代さんを責めるのも悪いと思ったのと、さっきの要望に応えてやろうという思いで、
真っ赤になっている志摩の肩を抱き寄せた。


「俺がそんな仲なのは志摩だけですから。」

後からどれほどひやかされるとことも考えもせずに言うなんて。
俺も相当なバカになってきたらしい。
こんな、人前で惚気るなんて、一生ないと思っていたぐらいだ。
それでもいい、抱き寄せた志摩が、これ以上ないぐらいの笑顔だったから。








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