「ONLY」-13
なんとかバイトに行く頃には、熱が下がっていた。
続きをしようとは言ったけれど、いざしようとしたらあの電話が掛かって来て、そんな気分ではなくなってしまった。
逆にそれがなかったとしても、今してしまったら、
夢中になり過ぎてバイトに行くのが嫌になるだろう。
そういう意味では、あの電話は行為を止めるきっかけになったかもしれない。
志摩も志摩で、あの電話の後にするとは思っていなかっただろうし。
「いらっしゃいませです、こんにちはです。」
「いらっしゃいませこんにちは、でいいんだ。」
客が来る度にしなければならない挨拶まで、志摩独特の言葉だ。
俺としてはそんなことは気にしないんだけど、なんせその妙な言葉が好きなもんだから、他の奴に聞かせたくないというのがある。
明るく元気に笑顔で、というその挨拶も、他の奴には見せたくない。
俺意外の人間の前で笑顔なんて作って欲しくない。
できれば外にも出したくない、そう思うことだってある。
こういう時、自分の独占欲の強さに呆れてしまう。
普段は何にも興味がなさそうな顔をしてこんな細かいことにまで嫉妬してしまっているんだ。
「あ…そっかぁ、ごめんなさ……わぁっ!」
「おい大丈夫かっ?」
ちょうど暇な午後になって、品出しをしていた。
俺の言葉を聞くことに夢中になっていた志摩が、目の前で見事に商品棚にぶつかった。
「痛いー隼人、痛いよー。」
「バカ…、何やってるんだ…。」
「鼻潰れちゃったらどうしようー。」
「確かにそれ以上潰れたら大変だな。」
冗談でも言わないとダメだった。
それはきっと俺だけじゃない、鼻の辺りを押さえている志摩も同じだ。
今ぶつけたのは、俺のせいだ。
「う…、ひどいです…。」
「そんなに緊張するなよ、志摩。」
「あ……。」
「お前が緊張しても仕方ないだろ?」
俺が気付いていることに、志摩が一瞬動揺した。
これでバレてないと思ってるんだから、やっぱり鈍いよな…。
いつもドジばっかりやらかして、それが今日はパワーアップしてること、それぐらい俺だってすぐに気付いていたのに。
口には出さないなんて、鈍いくせにそういうところはしっかりしてるんだから。
「お前はいるだけでいいんだ。」
「うん…あの、でもいいの…?俺、いても役に立たないと…。」
「だからいるだけでいいって言ってるだろ。御守りみたいなもんだ。」
「ハ…、ハイッ!俺、頑張りますっ、御守り頑張るー。」
一緒に来てくれ、今朝は迷うことなく頷いた志摩だったけれど、その後やっぱり考えてしまったのだろう。
何かできることはないか、そう言っていつも俺のために何かするのが好きな奴だ。
たとえばご飯だったり、掃除だったり、洗濯だったり。
それは一般的な家庭では普通にされていることでも、
俺にとっても志摩にとっても、初めてのことだった。
そうすることでお互い満足して、いい関係でいられるんだ。
お守りと言ったのも、物扱いしようとしたわけじゃない。
ただ傍にいるだけで落ち着く存在ということだ。
志摩もそれはわかったようで、たちまち笑顔になって、今にも鼻歌なんか歌い出しそうな勢いだった。
嫌なこと、避けたいことがある時に限って時間が経つのが早く感じる。
時間の刻みなんて絶対的なものなのに、先のことによって感じる早さ違うのはなぜだろう。
「水島くん、あ、弟くんも、お疲れ様。上がっていいよ。」
いつもなら店長のこの台詞を心待ちにしているのに、今日ばかりは有り難味の欠片もない。
時計を見ながらそわそわしていた志摩と一緒に、バックルームで制服を脱いだ。
与えられた自分のロッカーに、一回り以上小さい志摩の制服も一緒にしまう。
同じ「水島」という名札を見て心を落ち着かせるように、深呼吸を一つした。
「行こうか、志摩。」
「は…、ハイっ、行きますっ!」
店長に形だけの挨拶をして、店を出た。
矢崎との待ち合わせは、志摩が俺の家に来たその日に行ったファミレスにした。
本当はそういう話は家でしたほうがいいと思った。
だけどあの家で、志摩との幸せを築き上げて来たあの家で過去の話をしたくない、
そんな最後の最後まで、自分の親に対する抵抗を捨てられなかった。
また取り乱してしまうのが恐いのもある。
人の目があればまだ抑えられるかもしれない、そんな弱さもあった。
「こんにちは隼人くん、来てくれてありがとうございます。」
「あぁ。」
「志摩くんも来てくれたんですね。」
「こ、こんにちはです…。」
ファミレスに向かう時から、志摩はいつもの元気がなかった。
さすがに緊張してしまっているらしい。
俺も俺で、いつもにも増して喋らなくなっていたし。
「あ、紅茶と…、隼人くんは何にします?志摩くんは?」
水を運んで来たウェイトレスが、メニューを広げてくれる前に、矢崎は口を開いた。
さり気ない気遣いは、俺にはないものだ。
こんな風に接されたら、強く言うこともできなくなるじゃないか…。
「じゃあアイスティー。」
「あ、あのー…、パフェ食べてもいいですか…?」
「志摩っ。」
「ご、ごめんなさいっ、じゃあオレンジジュースにしますっ!」
「いいですよ、好きなもの頼んで下さい。」
こんな時にまで食い意地を張っているのをいつもみたいに叱ると、
志摩はびくん、と肩を震わせて謝る。
矢崎は微笑を浮かべながら、優しい言葉をかける。
こういうのも、苦手だ。
「奥様…、あなたのお祖母様なんですが、前にも言った通り長くないんです。」
「それって…、病気か何か…。」
「えぇ、まぁそんなところです。それで隼人くんにどうしても伝えて欲しいということで、二週間だけ期間を頂きまして、帰国したんです。」
「帰国って…、ばあさんは今どこに…。」
「今はドイツに。去年移住したんです。あなたのお祖父様が築いた会社はもう下に任せていましたし、老後はそこで過ごしたいと前々からおっしゃってましたから。」
「へぇ…。」
ばあさんがどこにいようと、何の感情も湧かなかった。
ばあさんに次いで出たじいさんの話にも何とも思わない。
今まで何年も会っていないから、そんな遠くにいると知っても寂しさも感じない。
運ばれて来たアイスティーを、緊張で乾いた喉に流し込んだ。
「話というのは、お嬢様…、あなたのお母様のことなんです。」
「まぁそんなことだとは思ったけど…。」
あんなに緊張していたのに、それが予想通りだと知ると、案外受け入れることができそうだった。
もちろんその内容にもよるけれど、少なくとも拒絶反応だけは起こさずに済んだ。
「幼少の頃からお体が弱くて、病気がちだったそうです。」
「それは知らなかったけど…。」
「こんなこと言うのは失礼なんですけど…、あなたを産むことも、相当な負担がかかると。」
「別にいいけど…。そんな風には見えなかったな…。」
自分の知っている母親の記憶の糸を手繰り寄せる。
もう10年以上も前のことで、ほとんど断片的にしか覚えていない。
無理にでも忘れたかったというのもある。
だけどその少ない記憶の中でも、そういった要素は見つからなかった。
いい子にしてたら帰ってくる、そう言って出掛けていたのは男のところで、働いていたのも酒を注いでやるような店だったから。
「ですから、あなたを産んだ時は本当に嬉しそうでした。」
「普通はそうだと思うけど。」
「ただ…、一度も抱くことが出来ませんでした。」
「え……?!」
平凡な家庭の昔話が続くのかと思いきや、突然の言葉に息が詰まりそうになった。
隣でパフェを食べていた志摩も、スプーンを握る手を止めた。
ちょっと待て…、どういうことだ…?!
自分でも、この動揺が尋常ではないことがわかった。
御守りだ、と言ってついて来てもらった志摩の手を、テーブルの下でぎゅっと握った。
「待ってくれよ…。じゃああの女は…、俺と暮らしてた女は誰だ?!理香子って女が…。」
「妹さんです…、優香子さん、あなたのお母様の…。」
「妹…。」
「色々ありましたが今はご結婚されて…、その人のことで出て行ったんです。あなたにはとても酷だったと思います。」
「そりゃ…、出て行くだろうな…自分の子供でもないなら。」
「奥様が見かねてお手紙やお電話を差し上げたのですが…、あなたに届かなかったようで…。」
違う、届かなかったんじゃない。
ちゃんと手紙も届いていたし、電話も鳴っていた。
ただ俺はあの母親と思っていた女が憎くて、それに関わる人間も憎くて。
自分の手で一切の連絡を封印してしまっていた。
いや、もしかしたら、憎んでいたその裏で、あの女を待っていたのかもしれない。
本当の母親ではないということも知らずに。
「バカみたいだな…、俺…。」
自然に零れた言葉に、握っていた志摩の手の力が強くなる。
矢崎はそんな俺に同情したのか、何も言うことができなくなっていた。
本当に、バカみたいだ。
一人で意地になって、拒絶していたために、本当のことを知る機会を自ら逃していたなんて。
あの時ばあさんの手紙を読んでいれば、電話に出ていれば。
だけど、そうしていたら、志摩と出会うこともなかった。
それならバカみたいな思いをしても、迷わず志摩と出会う方を選ぶ。
「聞きたいことがあるんだ…。」
「えぇ…、私に答えられることでしたら。」
「俺の母親ってどんな人だったんだ…?あんたいつからそこの家で働いてたんだ?」
「私の父も、水島家に仕えていたんです…、私は子供の頃から出入りしておりました。」
自分の家が、使用人を雇うほどの家だとも知らなかった。
生まれた時からあの賃貸の家で、父親はいない。
そう今まで信じてきたから、一体それがどれぐらいのレベルなのかも想像がつかない。
「優香子さんはとても…、綺麗な方でした、あなたに似ていますよ。」
「そうか…。」
「とても優しくて、笑顔が可愛らしくて…、本当に素敵な女性でした。」
「そう…。」
その表現で俺に似ているっていうのは矛盾している気がするけれど…。
矢崎の言い方が、どれぐらいの女だったのかを物語っているようだった。
まるで恋でもしているかのような…。
「他に聞きたいことはありますか?私で答えられることなら…。」
「俺の………。」
「はい?何でしょう?」
「…いや、やっぱりいい。本当のこと、教えてくれてありがとうございます。」
俺の父親は…誰だ?
その病気がちな母親が覚悟を決めてまで産んだ俺の父親は。
そう言おうとして、途中で思い止まった。
多分、世の中には、知らないほうがいいこともあるから。
そうした方が、うまくいくこともあるから。
「いえ、私も隼人くんと話せてよかったです。これで心置きなく向こうに行けます。」
「俺が言うのも変だけど…、ばあさんを…、よろしくお願いします。」
「はい、隼人くんはとても幸せそうだったとお伝えしますね。」
「…うん……。」
俺と志摩がそういう関係だと、いつから気付いていたのだろう。
面と向かって幸せそうだと言われると、恥ずかしくなってしまって、握っていた志摩の手をなぜか離した。
矢崎は会計票を持ってそれじゃあ、と深々と頭を下げて、再び振り向いた。
ちょうど夕日がキラキラと反射して、中年の男ながら、綺麗だと思ってしまった。
「優香子さんにも…、今のあなたを見せたかったです…。」
寂しそうな瞳で呟いた後、すぐに背を向けて行ってしまった。
俺の母親に見せたかった、そう言った矢崎の言葉は多分、ばあさんの遣いとかじゃなくて…。
「隼人…ー。」
「どうした?」
「帰ろー?早くおうちに帰ろ……。」
「うん…。」
早く帰って、いつもみたいに志摩の作るご飯を食べて。
それからいい匂いのする風呂に入って、温かい布団に包まって。
キスをして、抱き合って…、そうしたらきっと、いつもの俺に戻るはずだ。
食べかけのパフェを残したまま、ファミレスを後にした。
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