「魔法をかけたい」-8
「わぁ〜、いい匂いです〜。」
「ホントだ、魚の匂いだ…。」
夕方になって、銀華さまは台所に立った。
銀華さまはいつもこうして、相手の人間を待っているんだ。
ぼくはいつだったか、人間界に来た時に、銀華さまに聞いたことがある。
そうやって待っているのは辛くないのですか、寂しくないのですか、と。
銀華さまは、それはもう穏やかな表情で、それを否定した。
以前神だった時は、待つのは嫌だと呟いたのを聞いた。
銀華さまは遠い昔、人間に捨てられて、ずっと待っていたから。
ずっと一人で待っているのは、とても辛かったと思う。
でも今は違う、あの人間は帰って来るとわかっている。
それが楽しみで仕方ないって、そんな喜びさえ感じる表情だったんだ。
「桃、紅、手伝ってくれぬか。」
「あ、はいっ、ごめんなさい銀華さまっ。」
「はい、わかりました。」
ぼくと紅も、一緒になって台所に立つ。
鍋の中では魚みたいなもの?が香ばしく焼ける匂いを放っている。
銀華さまとこうして台所に立つのも久し振りだ。
従猫は本当は猫神様のお世話をしなければいけない。
でもぼくも紅もまだ小さかったから、最初はなかなかできなくて、銀華さまに色々教えてもらった。
本当ならその時点でクビにしてもいいのに、銀華さまはしなかった。
とても責任感が強くて、ぼくたちを一生懸命育ててくれた。
「何だか…、昔を思い出すな…。」
「銀華さま…。」
「今は出来るのか。御飯は食べているのか。掃除は…花の手入れは…。」
「ぎ、銀華さまぁ…、ぼくたちもう一通りはできますよ!」
ぼくも紅も、やっぱり銀華さまにとってはまだまだなんだなぁ…。
確かにぼくたち…、特にぼくは魔法もお世話も、出来が悪かったけど。
今でも心配してくれるのは嬉しいけれど、申し訳ない気持ちになってしまう。
「そうか…。」
「銀華さまが教えて下さったからです!あの…銀華さまぁ…。」
「どうしたのだ。」
「あの、し、幸せになって下さいね…!」
「どうしたのだ、突然その様な…。」
「ぼくたちのこと、もう心配いりません。」
ぼくは、もう大丈夫。
銀華さまがいなくなって、とても寂しかったけれど。
でも今は紅もいるし、銀華さまはここにいるのが一番いいってちゃんと理解したから。
それは、いなくてもいいとかっていうことじゃない。
お互いの生きる場所で、これからは生きて行けるってこと。
そうすれば離れていても、心が繋がっているから安心できるっていうことなんだ。
銀華さまは、少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべた後、ぼくの髪を優しく撫でた。
「お前達も心配は要らぬ。私は十分過ぎる位幸せなのだ。」
それから銀華さまとぼくと紅で、相手の人間の帰りを待った。
座卓の上には、ぼくたちみんなで作った料理が並んでいる。
魚の匂いがしたものは、焼いた後スープになった。
真っ白で、ちょっととろみのある温かなスープだ。
それから生野菜やら卵の料理やら…、どれもみんな美味しそう。
早く相手の人間が帰って来るといいのにな…。
「腹が空いただろう。…そろそろだと思うがな。」
「ぎ、銀華さまは魔法を使えないんじゃなかったんですか?!どうして帰ってくるのがわかるんですか?!」
「ふ…、魔法などではない、何時も殆ど同じ時刻に洋平が帰って来るだけだ。」
「でも時計見てない…銀華さま凄いなぁ…。」
ぼくが驚いた後、説明してくれた銀華さまに、紅は感心したように呟いた。
時計を見ないで空の色だけで相手が帰って来ることがわかるんだ。
恋ってやっぱり凄い…。
ぼくと紅も、そんな風になれるかなぁ…。
「ただいまー…、銀ー?」
その数秒後、玄関からその人間の声がして、ぼくたちは本当に驚いた。
銀華さまは特に表情を変えることはなかった。
銀華さまにとっては当たり前のことなんだなぁと思う。
でもそのことに対して銀華さまは感動していないわけじゃない。
その当たり前を心の奥底で噛み締めているに違いない。
こういう時の銀華さまは、前から感情を出さなかったから。
ぼくたちの前だからでれでれできないって、意地っ張りなところ。
でもそれが銀華さまなんだ。
人間(ぼくたちは猫だけど)は完璧じゃないって、そういうデコボコがあるから性格というものは成り立っているんだ。
それも全部、銀華さまに教えてもらったこと。
「あれ…、なんだっけ、銀華の弟子…?前よりデカくなってるけど…。」
「お、お邪魔してますっ!ぼくは桃で、こっちは紅ですっ!」
「…邪魔してる。」
「なんだ、銀華に会いに来たのか?よかったな銀華。」
「そうだな。」
わわわ────…。
こ、これが夫婦ってやつなんだ…!
恋が深まるとこんな感じなんだ…。
決してベタベタしてるわけじゃないのに、お互いを信頼しているのがわかる。
この人がいて幸せって、伝わってくる。
「桃、紅、食べるとよい。」
「はいっ、いただきますっ!わぁ美味しそうですぅ〜。」
「い、いただきますっ!」
「おー、いっぱい食えよー。」
料理は見た目通り美味しかった。
スープも野菜も、卵のも。
それってきっと、この家の幸せが全部混ざっているからだね。
お腹もいっぱいだけど、心も満たされた感じがするんだ。
「桃、付いてる。」
「え…、べ、紅っ、そういうのは…ひゃっ。」
「お前達…、仲が良いのは良いが…、二人になった時にしたらどうだ。」
「まぁまぁ、銀、そう怒るなよー。」
銀華さまも人間も見てるっていうのに…。
紅は今までと同じように舐めて来る。
恋に気付いてから、こういうの苦手なんだ。
嫌とかじゃなくて、恥ずかしいって気持ち。
銀華さま、半分呆れてるよー…。
あれ…でも……??うーん…うーん……。
ぼくの中で一つの疑問が生まれた。
それをそのまま口にした次の瞬間、銀華さまは本当に怒ってしまった。
「あのぅ〜…でも、銀華さまも…こ、交尾されるんですよね…?」
紅は真っ青になって冷や汗を流しながら頭を抱えた。
相手の人間は、思わず食べていたものを吹き出してしまった。
ぼくって相変わらずバカだなぁ…。
ぼくは最後まで、銀華さまに怒られる魔法使い見習いになってしまった。
「お世話になりました。」
「…気を付けて帰るのだぞ。」
「邪魔した。」
「銀、まだ怒ってんのかよー、あー、またいつでも遊びに来いよ?」
「当たり前だっ、人前であの様なことを口走ることを教えた覚えなど…。」
「銀華さまぁ〜…ごめんなさいぃ〜…。」
翌朝、人間が仕事に行くと言うので、まだ空が暗い時間だったけれど、
ぼくたちは銀華さまのところを出発することにした。
あーあ…、銀華さま、不機嫌だよぉ…。
それはそうだよね、あんなこと聞いちゃったんだから。
昨日もしこの人間と喧嘩とかしてたらぼくのせいだ。
どうしよう…、ぼく、銀華さまに嫌われてお別れするなんてやだよ…。
紅…、ううん、紅に頼っちゃいけない…!
「銀華さま。」
「どうしたのだ紅。」
「おれ、桃と交尾しますっ!」
「……馬鹿者っ!!お前までその様な…!」
「べ、紅ってば…!!」
どうしてそうやってもっと怒らせること…。
あ…あれ…??もしかして紅、ぼくのこと…。
「おれ、桃を幸せにしますから!」
「解っているなら良いのだ…。」
紅がぼくの手を取ってぎゅっと握る。
紅はやっぱり紅のままだ。
怒られた時、いつもこうして一緒に怒られてくれた。
ぼくのこと、慰めてくれて、おまじないってちゅーしてくれて。
ぼく、紅のことが本当に好き…。
「桃、持って行け。」
「銀華さま!!」
少し頬を染めながら、視線を逸らして銀華さまは包みを差し出した。
ちゃんと二人分、作ってある。
綺麗な色のお弁当箱二つ、隙間からちょっとだけいい匂いがする。
「銀華さまー、お幸せにー!」
「お幸せにー。」
銀華さまは、見えなくなるまで手を上げていてくれた。
もちろんその隣にはあの人間がいる。
恋って、幸せってこういうことなんだと胸に刻みながら、ゆっくりと歩く。
急ぐ必要なんてない。
さっきからずっと握ってくれている紅の手は、この先離れることはないから。
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