「魔法がなくても」-6
胸が痛い、という表現は、このような時に使うのが相応しい。
そういう意味では、初めて胸が痛い思いをした気がする。
私は走って、洋平の処は向かった。
洋平が仕事に出掛ける前に、この決心が鈍る前に。
朝の陽射しが、冬の寒さを打ち消した。
違う、寒くないのは、それだけではない。
こんなにも、この心が熱いからだ。
私は生まれてから、このように熱くなったことなど一度もなかった。
昔別の人間に恋した時も。
そのせいだろう、痛かったのは。
洋平の居る住処の扉まで辿り着いた時、洋平と、もう一人の影が見えた。
親しげに話す、雌だった。
この場合人間だから、女性と言うべきか。
真っ白になった頭の中で、そのようなどうでもよいことを考えた。
「………‥‥。」
私は言葉も出ず、一歩も踏み出すことも出来ず、その場に立ち尽くした。
そうか…。
そうだと思ったのだ。
昨晩、抱かれた時、私は一度も愛の言葉など囁かれなかった。
それが、本心か。
「………っ。」
だから人間など嫌いなのだ。
私達、いや、私を、性欲の捌け口としか思っていない。
道具や玩具と一緒だ。
それならば、最初から優しくなどしなければいい。
何故私の中に入って来た。
そして支配した。
私は立ったまま、声を殺して、泣いた。
悔しいのではなくて、悲しかったのだ。
それも私にとっては初めてだった。
「銀華さま?銀華さまぁ?」
「あ…、あぁ、どうした?」
寂れた土地。
花も咲かない、陽も当たらない。
やはり聞こえるのは風の音だけで、その音がまるで、あの時の私の啜り泣きに似ていた。
「大丈夫ですか?」
心配そうに足元に纏わり付く従猫達に、私は笑って見せた。
相当無理はしていたが、そうそう落ち込んでもいられないのだ。
私は神なのだから。
「大丈夫だ。私はこの通り、元気だ。」
その柔らかい髪を優しく撫で、もう一度笑った。
自分に言い聞かせているようで、可笑しい。
私はあの後すぐに付近の神界扉へ向かい、再びこの地に戻った。
私には、人間の世界は似合わない。
そう確認できたと思えば、諦めもつくだろう。
洋平も今頃は私のことなど忘れて、楽しく暮らしているだろう。
私は洋平の幸せを祈るなど、出来ない。
神様なのに、と思われてもいい。
誰も洋平とのことは知らないのだから。
せめて、同じ元猫として、魔法をかけた本人として、シロの幸せを祈るばかりだ。
でもぉ…。
銀華さまのおっしゃる通りにしよう、桃。
毎日泣き腫らした瞳なのに放っておけないよ。
そうだよね…、あんなに綺麗だった銀の……
従猫の囁きには耳を貸さず、私はそっと瞼を閉じた。
この場で泣けない代わりに、頭の中で、涙を流す。
泣いたりしたら、従猫達が、心配する。
悲しませたくないのだ。
暫くすると、その小さな足音が、消えていった。
どれ程経ったのか、風の音に紛れて再び足音が聞こえた。
今度は小さな音ではなく、明らかに人間とわかる、それも私の愛する人間の。
「銀華、すっげー探した…。」
声を聞いて、確実なものへと変わり、思わず振り向くと、息を切らした洋平が立っていた。
「何の用だ。」
私は冷たく言い放って、感情を悟られないように、再び背を向けた。
今泣くわけにはいかない。
泣いたら終いだ。
「髪、切ったのか…、綺麗だったのにな。」
肩に届くか届かないか、微妙な長さになった私の髪が、風に靡いて頬を掠める。
馬鹿らしいと思うだろうな。
こんなことぐらいで、髪を切るなど。
人間の女子でもあるまいし。
それでも私にとっては、大きな痛みだったのだ。
「何の用だと言っている。」
「迎えに来た。」
「ふざけたことを言うな。」
「だって俺に会いに来たんじゃなかったのか?」
今、洋平は何と言った。
私は瞳を丸くして、振り向いて洋平を見た。
「俺、言ったよな、最初。あんたに会ったことある気がする、って。」
「確かに言ったが…。」
「俺は憶えてたのに、銀華知らない振りするから。」
「それは…。」
お前のことが気になって逢いに来たなど言えるわけがないだろう。
叶うと確実な恋でもないのに。
私はそこまで自信過剰にはなれない。
いや…。待て。それはおかしい。
「私はお前に…、お前の記憶を…。」
頭が混乱して、言葉は巧く出て来ない。
私は洋平に、魔法をかけたのだ。
私と逢った記憶を消したのだ。
「俺、忘れなかった。」
「馬鹿な……!」
そんなことがあるわけがなかろう。
私は神だ、もう何年、何度魔法を使った。
失敗などするわけがない。
私は益々混乱して、動揺を隠せなくなった。
「俺、お前に会いたかったんだ。」
「それ…は何故だ…。」
額に冷や汗が滲んだ。
心臓は洋平と初めて出逢った時の様に高鳴り、今にも破裂して、倒れてしまいそうだ。
「えーと、一目惚れってやつ。」
「何を…。」
「ホント。俺、お前を探してたし。」
「嘘だ…。」
瞳の下を僅かに紅く染めながら、頭を掻いて洋平は言った後、私を抱き締めてきた。
「俺、兄貴に聞いてた。居場所は教えてくれなかったけど。史朗のことも。お前の正体も、知ってた、ごめん。」
腕の力は強くなり、振り解こうとしても、出来ない。
洋平の心臓の音も、直に触れているぐらいはっきりと聞こえた。
私と同じ速度だった。
「これでは私が馬鹿みたいではないか。」
「ごめん、でも、お前素直に言わねーから、待ってたんだけど。」
「私の所為と言うのか。」
「半分は。でも俺我慢出来なくて、あの時手、出しちまった。」
突然抱かれた時のことを思い出し、猛烈な羞恥心に襲われた。
しかし今は洋平の腕の中に居る、顔は見えない。
私は震える自分の腕を、その背中に回した。
「私の魔法はお前には効かなかったのか…。神失格だな。」
「そうだな。」
急に可笑しくなってしまい、洋平の方を見て笑った。
この私の魔法が恋心に負けるなど、考えてもみなかった。
それに私は洋平と交わってしまった。
神失格は、当然のことだ。
「初めて笑ったな。」
「え…。」
「やっぱり思った通り、お前笑った方がいいよ。」
「そうか。」
そう言えば私は、笑うことも忘れていた。
洋平のお陰、ということなのか。
もうこの人間の傍に居るしかないではないか。
「私を捨てたりしないか。」
「しねーよ。…っつーかさ、それ前の男のこと?」
「桃と紅に聞いたのか?そうだが。」
「いや、あのさ、それって、捨てられたんじゃなくて、先立たれたんだろ?」
「そうとも言うな。」
「そりゃ人間だから仕方ねーよ。いつか死んだって、幸せな時がそれまで続けばいいだろ。
それって、永遠みたいなもんじゃねーの?」
私は本当に馬鹿だ。
そんなこともわからなかったなんて。
流行り病であの人間に私は捨てられたと思っていた。
永遠に生きていられる私達とは違うのだ。
そんなこともわからなかった。
洋平の言う通りだ。
「私は随分と…、思い違いをしていたのか…、100年程か。」
「えぇっ?ひゃ、100年?!」
「なんだ何を驚いている。」
「いや、ちょっとそれは聞いてなかったからなぁ。」
洋平は驚いて、しかしすぐに私の頬に手で触れた。
「寂しかった、よな…。」
「寂しかった…。」
私は隠さず告げた。
洋平の唇が、私のこめかみに触れ、瞼に触れ、頬に触れた。
私はそっと瞳を閉じると、最後に唇に触れた。
優しい口づけは、私の心を、この寂しかった間を、溶かしていった。
世紀を超えて今、私は恋を知った。
「俺はお前に寂しい思いはさせないから。」
私はその胸に頬を摺り寄せ、泣くと同時に、笑った。
「しかし待て、お前には決まった女子がいるのではないか?」
「なんのことだ?」
私はあの時見た、衝撃的な現場を、頭に描いて、また悲しくなってしまった。
このようなことを言っているが、お前は私とその女子を
両天秤にかけているのではないか。
「この間、お前が早朝に自宅の前で話していた…。」
「ああ!あれ大家さんとこの娘なんだけど。」
「は……?」
洋平が悪びれもせずに思い出した様に言うので、私はなんとも間抜けな返事をしてしまった。
大家…の娘…。
私が勝手に誤解していたというわけか。
つくづく馬鹿だな、と己に呆れた。
「起きたらお前がいなくなってて、慌ててドアぶっ壊しちゃってさー。」
あはは、と失敗を告白する洋平を見て、私は吹き出してしまった。
お前も、馬鹿だな。
恋をすると馬鹿になる。
それでも私はいい。
こんなに感情を出せるのなら。
そして私が感情を出せるのは、洋平の前だけなのだ。
これでこそ生きている証と言えよう。
「じゃあ、帰るか。」
「そうだな。」
差し出された洋平の手を、迷わず取った。
この世界に未練はない。
はっきりと今言える。
ただ一つあるならば…。
「銀華さまぁー。ご達者でー!」
「お幸せにー!」
この世界の出口に向かって歩み始めた私と洋平の後ろから、叫ぶ声がした。
振り向くと、小さな小さな飛行船が飛んでいた。
その背後の空が、薄らと水色に変化をし、やがて真っ青な空へと変わった。
従猫達が枯れた地面に手を一振りした。
「あ……。」
「店から持ってきたんだ、種。」
「店?」
「えー?俺花屋で働いてるって言ったぜ?」
枯れた地面は土色になり、そこから緑色の芽が飛び出して、あっという間に辺りは一面の花で覆われた。
従猫達の餞別の光景を、溜め息を洩らしながら見ていて、胸が一杯になった。
「お前達も、達者で!」
別離の挨拶を、精一杯の大きな声で告げた。
私の心同様のこの世界が、一瞬にして生まれ変わった。
それは私自身が今生まれた様に。
私達は今度こそ、この世界を後にする。
芳しい花の香りに、包まれながら。
これから人間界で生きていくことを再度決意し、私は洋平の手を強く握った。
私はそこで生きていける、洋平と。
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