「魔法がなくても」-3
「その髪、本物?」
一週間が経ち、洋平が唐突にそんなことを聞いてきた。
銀に、僅かに青が混じった私を見てあの人間は銀華、と名付けた。
「そうだが、何か?」
特に誤魔化す必要もなく、私はそのまま答えた。
あれから髪は切っていない。
まるで、あの人間に見付けて、と言わんばかりに。
目印のように。
そんなことは、もうないとわかっているのに。
愚かだと自分でも呆れる程だ。
「どこの国の人?」
「それは…‥。」
その質問が来るとは思ってはいなかった。
なんと答えるべきか。
神、だと言ったら洋平はどのような反応を見せるだろうか。
信じるわけがない。
第一、何をしに来たか、などと聞かれたら答えようがないのだから。
「日本人じゃないことは確かだよな。」
「そうだが…。」
「ごめん、詮索したみたいだな。」
「いや、それはいいのだが…。」
お前は、何故その得体の知れない私を此処に置く?
それに甘えて此処に居座る私も私だ。
もう足などとうに治っているのに。
いい加減、もう戻ったらどうだ。
あの、花も咲かない、寂れたあの場所へ。
あの場所こそが私の居る場所なのに。
どうして私は戻ることを躊躇ってしまうのだ。
「あ、俺そろそろ仕事行かねーと。」
「そ、そうか。」
携帯電話とやらの時刻表示をちらりと見て、洋平は立ち上がった。
何やら店で仕事をしているらしい。
朝早くに、洋平はこの家を出る。
私はというと、その間此処で黙って考えているだけだ。
何をするでもなく、一人で。
別に一人は慣れているから、それでいい筈だった。
しかし洋平と一緒に此処に居る、と思うと急に寂しくなったりしてしまう。
「ん?誰だよこんな朝っぱらから。」
洋平の手の中の電話から、聴き慣れない電子音が鳴った。
私の住む世界ではこのような派手な音は存在しない。
聴こえるのは、風の音だけだ。
「あぁなんだ、史朗か。何?どした?」
史朗、というのはあのシロのことだ。
洋平はシロが元猫ということを知らない。
シロが自分でそう名乗ったらしい。
「え?何?マジで?俺これから仕事…、じゃちょい待って。」
ふいに洋平は玄関先へ向かい、もう片方で扉へ手をかけた。
私は油断していたのかもしれない。
「どうしよう、オレ、どうしよう!」
まさか、シロにこんな時に遭遇してしまうとは。
「まぁ落ち着けって。つーか言ってくれれば行ったのによ。」
「あ、オレ慌てて出て来て、でも洋平いなかったらあれだから今電話…‥あれっ?」
大きな瞳を潤ませて、シロは脈絡のないことを言った。
本当に慌ててたのだろう、額に汗が滲んでいる。
しかしそれより慌てたのは私だ。
その瞳が、部屋の中に居る私に向けられたからだ。
私はあまりに突然のことに何も出来ずに、固まった。
「猫神様…?」
もう終わりだ。
やはり此処に居ればいずれはわかってしまうと思ったのだ。
私は知られるのを覚悟して、あえて表情が崩れないように努力した。
「ちょっと、あちらへ!」
「えっ?」
私は柄にもなく、大きな声で、シロの腕を引いて、外へ出ると、
洋平に聞こえないように、扉を閉めた。
「すまない、私のことは黙っていてくれぬか。」
私は普段は下げることなどない頭を深々と下げた。
悪あがきとでも言うのだろうか。
もう少しだけ、此処に居たかったのだろう。
「あー、ハイ、えっと、やっぱり来たんですね。」
シロはにっこりと笑って、私が来ることを知っていたかのような言い方をした。
「この間、こっちに用があるって、言ってたから。」
そういえばそのようなことを言ったような…。
そんなことも忘れていた。
私としたことが、なんたる不覚な。
「猫神様も、幸せになれるといいですね。」
「それはどういう…。」
まさにその幸せ一杯の笑顔だった。
あの人間を愛して、そしてシロも愛されているのがよくわかる。
私はお前が羨ましいみたいだ。
お陰で今、はっきりとわかった。
此処に居たがる己の胸の内が。
「だって、洋平のこと好きなんでしょう?」
どうやらシロの相手のあの人間が、熱を出したらしい。
咄嗟に兄弟である洋平に頼ろうとこちらへ向かったはいいが、洋平が朝早いのを知っていて、居るかどうかわからなかったようだ。
そしてほとんど使ったことのない携帯電話で連絡したらしい。
恋をすると、そんなにその人間の為になれるのか。
あんなに感情を露にして。
私は長いこと忘れていた。
私が恋したあの人間も、熱で魘されていた。
私は寝ずに看病して、それでも…。
急に涙が込み上げた。
遠い昔のあの人間の熱い額や、冷やす為の手拭いの温度が、この両手一杯に、蘇った。
「……っ。」
嘘だ。
この私が、弱って泣くなど。
誰にも弱いところなど見せずにいたのに。
泣くことも、笑うことも、止めた筈なのに。
「ただいまー。あれ?」
取っ手の鍵を開ける音がして、扉が開いて、洋平が戻って来た。
私は微かに零れた涙を掌で拭った。
「何?電気も点けねーでさ。」
「すまない。何でもない。」
もう日が暮れて、部屋は薄暗くなっていた。
そんなことにも気付かなかった。
お前のことを、考えていた。
これは紛れもない事実だ。
「兄は無事なのか?」
「あぁ、単なる風邪だな。史朗が大騒ぎしたんだよ。」
風邪だからといってそのような言い方はないだろう。
私は再びあの記憶の中に居た。
「それは…、好きな人間が病にかかったら、誰でも心配するだろう。」
「まぁそうだけど。つーかさぁ…。」
下を向いて呟いた私のすぐ近くに、洋平の影が落ちた。
体温までも感じる程に。
私の心臓は前よりももっと早鐘を打ち始めた。
「あいつも兄貴も男だけど、なんとも思わねーの?」
「それは…、好きになったのなら…。」
私は逃げるようにその真っ直ぐな視線から自分の視線を逸らした。
これ以上近付かれたら、この気持ちがわかってしまう。
「じゃあ銀華は?お前は男相手でも平気?」
「な…にを…。」
耳にその言葉が響いて、かかる息が熱い。
私の身体も、熱を上げ、眩暈まで覚えた。
「俺とかさ、平気?」
洋平の唇がとうとう私の耳に触れてしまい、羞恥心に耐えられずに私はきつく瞳を閉じた。
腕が私の身体を包んで、思わず正面を見つめた。
「平気…?」
その言葉を吐いた唇が、瞬時に私の唇に重なった。
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