「魔法がとけても」-4
それから更に一週間が過ぎた。
あ〜あ、しかし、何、叶えてもらうかな…。
非現実的なのはダメ、って言われてもどっからどこまでが範囲なのかもわかんねぇし。
なんかもう、すっかりあいつ、居ついたよな。
さすがは元飼い猫だよな。
順応性早いっつーか…。
あ、そーいやその、願いを叶えたら、あいつは猫に戻るのか…。
俺と話すこともなくなって…。
なくなって?それから?
トク…ン…‥。
心臓が、一瞬だけ、跳ね上がるように動いた。
なくなって、そしたら俺は…。
俺は……?
「───くん、藤代くんっ。」
「──あっ!ハ、ハ、ハイ?」
「何ボーっとしてるの。きみ、もう上がっていいよ。」
「あ、ハイ、すみません。じゃ、お疲れ様です、失礼します。」
レジに立っていた俺の隣には、いつの間にか大嫌いな店長がいた。
いつもならこの店長の嫌味ったらしい態度と語調に
腹を立てているところだったけど、
なんだかそんな気も起きずに、
俺はすぐに帰り支度をして、朝の道を早歩きで帰った。
「あー、さみー、ただいま…。」
「あ、おかえり〜、亮平〜。」
おいおいなんだよ、これじゃまるで新婚さんじゃねぇかよ。
俺も何普通に旦那みたいな役やってんだよ。
「亮平、腹減った!」
「あーハイハイ、今やるから。」
いや、新妻役か?これだと。
ってバカ!何考えてんだよ。おかしいって、それ。
頭の中でその新婚夫婦設定を打ち消しながら、冷凍庫からアジの干物を取り出した。
しかしこいつは俺がいない間は何をしているんだ?
いつも俺が帰るまで起きて待ってて、メシ食って一緒に寝て…。
一緒に寝てんだよな。だって布団一組しかねぇし。
もうすぐ12月だし。寒いし。
俺のこと好きとか言って、無防備過ぎんだよ。
犯されたらどうすんだよ。
あ、まずい…。
最近ヤってねぇからどうしてもそっち方向に考えが…。
「あ〜、いいにおい〜。」
台所から部屋へと、焼き魚の香りが漂う。
あーあ、俺も何してんだかな…。
所帯染みた主婦かよ。
「亮平、電話鳴ってる。」
うるさい換気扇の音に混じって、聞き慣れた電子音が流れている。
「誰だよ朝っぱらから──…もしもし?今忙しんだよっ。」
俺は右手に割り箸を握りながら、
『公衆電話』と表示された携帯のボタンを押して出た。
『あ、俺。』
「なんだよ、お前かよ。今ちょっと手放せねぇんだよ。」
『いいから、今すぐN病院に来い。』
「あ?何言ってんだよ。朝からイキナリ。」
バイト仲間で悪友の柴崎からだった。
俺はアジをひっくり返しながら、適当にあしらう。
このまままともに相手をしていたら、このアジは焦げてしまう。
『明美ちゃん、事故に遭った。死ぬかもしれない…。』
俺は割り箸を床に落とした。
明美が事故…?
信じ難い言葉が頭の中を駆け巡る。
台所には、魚の焦げる音と匂いだけがしていた。
「おいっ、どういうことだよっ。なんだ?事故って。」
俺は走って近くのその病院まで来た。
もちろん、シロも連れて。
「お前に…謝りたかった…みたいでさ…。」
「な…んだ、それ…?」
真っ青な顔で、柴崎は廊下の椅子に座っていた。
「お前のこと、傷付けたって、悩んでたな。で、お前がバイト終わる時間まで待って、お前ん家行く途中で…。」
なんだよ、それ。
なんなんだよ。俺に…?
「意識不明の、重体…だって…覚悟はしておいて…下さい…って…。」
柴崎は頭を抱え込んでいる。
こいつ、もしかして、明美のこと…。
前々からそんな気がしていた。
いや、今はそんな話をしている場合じゃないけれど。
「お前今日これからシフト入ってたよな…?俺替わ…。」
「だからお前呼んだんだって。お前いてやれよ。」
今にも泣き出しそうな柴崎は、やっぱり明美を好きだったのかもしれない。
だとしたら俺と明美が一緒にいるところを見るのは辛かっただろう。
もしかして、シロも…?
「悪かった…、俺のせいで…。」
「あぁ、なんかあったら知らせてくれ。」
柴崎は弱々しく呟くと、青い顔のまま、病院を去って行った。
「俺、さ…、昔、可愛がってた猫がいたんだよ。」
明美が死ぬかもしれないという時なのに、俺は昔話なんかを、隣に座ったシロに話し始めていた。
何をしていいのかわからなかったのもある。
「野良だったんだけど、公園で飼ってて、餌やって…、なのに、途中で飽きたみてぇでさ。」
その時の猫の容姿を鮮明に思い出しながら話し続けた。
真っ白で小さくて痩せていて、瞳の大きい甘えたがりな猫。
「ある日、死んでた。」
冷たくなった身体に、触れることさえできなくて、ただ眺めて泣いていた。
そんな俺の話を、シロは何も言わずに聞いてくれている。
「一度そういうクセ付けたらダメなんだよな。なのに…‥。」
俺はガキだったからわからなかったけれど、そんなのは理由になんかならない。
言い訳にしか聞こえない。
「その猫、お前に似てた。だから…っ、その時の罪滅ぼしみたいにお前に優しくしたんだ…っ。俺、最低だろ?」
息が詰まって、涙が込み上げる。
幼い頃の犯した罪を、大人になって繰り返さないことで、猫に優しくすることで、
それが打ち消されるとでも思い込んでいたのだろうか。
そんな都合のいいようにいくわけなんかないのに。
「こんな奴、お前に好きになってもらう資格なんかねぇよ…っ。」
お前は、その姿みたいに、純白で、純粋なんだよ。
真っ直ぐで眩しいその笑顔そのものなんだ。
「でも俺、もう自分のせいで誰かが死ぬのなんか…っ。」
見たくねぇ。見たくねぇよ。
助けてくれ…、シロ…、助けてくれ…。
言葉にならずに、不思議なぐらい涙だけが次々と溢れる。
「亮平、最低なんかじゃないよ。」
シロは俺の頬に手を添えて、溢れ出る涙を舌で舐めた。
何故だか、俺の身体は熱くなった。
何故、なんて、その理由なんか本当は気付いてたクセに。
「こんな綺麗な涙流すから。最低じゃない。」
心臓がドキドキいって、俺の方が死にそうだ。
こんな感情は初めてだ、こんなに胸が熱くて揺さ振られるのは。
「大丈夫。アケミ、は助かるよ。」
シロは根拠もなくそんなことをハッキリと言って手を離すと、
先に帰ってる、と言い残して、行ってしまった。
そのシロの言葉通り、明美はその日の夜、奇跡的に助かった。
意識が朦朧とする中、俺の姿を見つけると、
「白い…猫…助け……、行っちゃ…ぅ…‥。」
意味不明な言葉を言って周りは首をかしげていたけれど、俺だけにはわかった。
胸の中は嫌な予感でいっぱいになって、夢中で街を駆け抜けた。
──シロ…、シロ…!
何かの呪文のように、あいつの名前を呼びながら。
「シロ…?」
ドアを開けると、電気はついていない。
「なんだ、いたのかよ。ビビらせんなよ。」
俺はホッと胸を撫で下ろす。
真っ暗な部屋の中、月明かりだけが照らしていて、真っ白なその身体が、美しく反射して輝いていた。
「亮平、お別れだな。」
シロは笑ってそう言うけど、
無理してんのなんかわかるよ、俺には。
俺だけには。
そんな悲しそうにしてるのに、笑うなよ。
俺の心臓、壊す気かよ。
「なんで。」
俺は唾をゴクリと飲み込んだ。
その心臓がさっきよりももっと早く脈打ち始める。
「望み、叶えた。だってアケミが謝ろうとしたのも、事故に遭ったのも、オレのせいだし。」
「何…言って‥だよ…。」
胸が、苦しい。
息が、出来ない。
言葉が、上手く、出て来ない。
どうしよう、俺、本当に死ぬかもしれない…。
「じゃあ…、猫に戻ったら、俺、飼うから…。ちゃんと、責任持って、飼うから…。」
行くなよ。
どうしたらお前は行かないでくれるんだ?教えてくれよ。
なのにシロは首を横に振った。
「だって、オレ、猫だから、絶対亮平より先に死んじゃう。
そしたら亮平悲しむから。でも亮平が先に死んじゃうのも、やだ…。だから…、もう…、」
だから俺の傍からいなくなるって言うのかよ。
行くなよ。
俺はシロの細い身体を、思い切り強く抱き締めた。
なんの、迷いもなく。
折れるんじゃないかってぐらい、強く強く。
「行くな。」
その身体は俺の中ですっぽりとおさまってしまう。
やっと出て来た言葉が、シロを包み込む。
「お前が死ぬのは、嫌だけど、ちゃんと俺が見ててやるから。美幸みたいに置いていかないから。お前が死んだ後の俺の心配なんかしなくていい。」
「亮平…。」
そうだよ、俺、ハッキリとわかっちゃったんだ。
いや、本当は前からそうだったのに、気付かなかったんだ。
「お前が好きだから、頼むから、行かないでくれよ。
会えなくなるなら、死んだ方がマシだ。好きなんだよ、お前が。」
今まで頼む、なんて、そんなこと女にも言ったことはない。
それぐらい、本気なんだっていうことをわかって欲しい。
「オレが、猫に…戻っても…?」
シロの声は震えて、腕の中の身体は更に熱くなる。
俺も同じぐらい熱くて、お互いの早い鼓動を直に感じる。
「うん、猫に、戻っても。」
柔らかい髪を優しく撫でて、唇を引き寄せる。
吐息がかかるぐらいの距離で、シロは泣きながら呟く。
「魔法が…、とけても…?」
我慢が出来なくなった俺は、その震える唇に、自分の唇を重ねた。
涙で濡れた睫毛に、頬に、耳に、首筋に、次々とキスを落とした。
「魔法がとけても、愛してる」
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