「そらいろ-3rd period」-6
仕事で嫌なことがあろうが、朝晩の通勤ラッシュで疲れ果てようが、家に帰ればあの笑顔が待っている。
たった数日間のことだということはわかっていた。
でもその数日間…数時間でも、一分一秒でもいい。
空が俺の近くで笑ってくれたなら…こんなに幸せなことはないだろう。
その気持ちだけで俺は、今自分を取り巻く何もかもを忘れられるような気がした。
たった一人の人間…俺の可愛い恋人のことだけで。
「あきちゃんっ、おかえりなさいっ!」
「ただいま、空。」
空は朝の約束通り、ご飯の支度をして待っていてくれた。
玄関まで漂って来る匂いからして、カレーであることは間違いない。
10年前幼稚園児だった空のために、俺が初めて作ってやったのがカレーだった。
その後小学生になった空が作ったカレーは初めてにしては上出来で、「あきちゃんに褒められた」と言って空は喜んでくれた。
一緒に暮らしていた時も俺が遅くなる日はこうしてご飯を作ってくれていたけれど、一番多かったメニューはこのカレーだった。
鍋いっぱいに作られたカレーは次の日まで毎食続くことが多いのに、俺は飽きたことがなかった。
空が一生懸命になって俺がいない寂しさを堪えながら作ったそのカレーは、何度食べても涙が出そうになるほど深い味だったかったからだ。
実は朝に約束をした時も、多分カレーになるだろうということはだいたい予想が出来ていた。
「おじちゃまー、きょおはカレーでしゅよ?」
「七海ちゃん…、ただいま。」
ただ一つあの時と違うのは、今この家には七海がいるということだ。
行って来ますのキスをしたならお帰りなさいのキスもしたくなる。
でも今この場ですることは決して出来ない。
こんな思いをするなら朝もしない方がよかったかもしれない。
俺は空に向かって伸ばしかけた手を引っ込めて、もう片方の手で七海の頭を撫でた。
「ななみがつくったの。いっぱいたべてね!」
「七海は作ってないでしょ?!あれは僕が作ったの!」
「こ、こら喧嘩は…。」
「えー?つくったもん!まぜまぜがかり。あとぱくぱくがかり。」
「お鍋混ぜただけでしょ?あきちゃん、七海ってば味見ばっかりしてたんだよ?」
「そっかそっか、二人で頑張って作ってくれたんだな。」
前の夜俺は、空の新たな一面を知った。
いつも笑顔だった空を変えた、「嫉妬」という感情だ。
それは俺に懐いた七海へ向けられたもので、俺だけでなく空自身も戸惑ってしまった感情だった。
なのに俺の中には戸惑いと同時に、今まで感じたことのない妙な幸福感が生まれていた。
嫉妬で拗ねる空を見たい、もっと俺のことを好きになって欲しい…なんて思ってしまった。
勝手過ぎる大人のせいで空としてはいい迷惑なところだが、何だか知ってしまったら可愛くて仕方ないのだ。
「うんっ!ねー?そらちゃん。」
「ほとんど僕が作ったのにー…。」
そうやって頬を膨らませる仕草だとか、恨めしそうに見つめる瞳だとか。
俺に気付くと恥ずかしそうに目線を逸らすところとか。
何をやっても俺は空が可愛く見えて仕方がない。
こういうのを親バカならぬ叔父バカとでも言うんだろうか…。
「おじちゃまはやくはやくー。」
「わかったわかった。」
「こらっ、七海!あきちゃんを引っ張らないの!」
「じゃあ空も、な?」
俺は片方の手を七海に引っ張られ、もう片方の手は空の手をしっかりと握った。
その瞬間怒っていた空が途端に笑顔になるのを見ると、俺まで嬉しくなってしまった。
それはまるでつい今さっきまで雷鳴が轟いていた曇天が一瞬で青空になったかのようだった。
もちろん七海には気付かれないようにと秘密の合図のように手をぎゅっと握り返すと、二人で視線を合わせてクスリと笑った。
それから毎日、空と七海は夕ご飯を作って待っていてくれた。
俺が玄関のドアを開けたのに気付くと、二人で競争しながら走って迎えに来た。
こんな風に楽しくて賑やかな日々がずっと続けばいい。
わかっていたはずなのにそれ以上を望んでしまう。
どうして人間は…、俺は、贅沢になってしまうんだろう。
当然空と七海は、数日後両親のところへ戻ることとなった。
姉から電話が来たのは前の日の夜で、その慌しさは空を預けて行った10年前とそっくりだった。
家の中がだいたい片付いて新しい生活の準備が出来たからと、午前中には迎えに来ることになっていた。
その日は朝から雲一つない秋晴れで、窓を開ければ清々しい空気が吹き込んで来た。
二人が寝ていた布団をベランダに干している中、姉は迎えにやって来た。
「くーちゃーん、七海ぃー、ママよぉー!」
「ちょ…姉ちゃん叫ぶなって…!」
「あっ、ママだー!ママー!」
外から俺の姿を見つけた姉は大声で二人の名前を叫んで、俺は恥ずかしいからやめてくれとぶんぶんと手を振っていた。
空は同じ男だからかその恥ずかしさがわかったらしく、部屋で黙って荷物をまとめていたけれど、
七海はやっぱり母親が恋しかったのか、窓まで走って来ると姉に応えるように叫んでいた。
「二人ともいい子にしてたぁー?秋生、あんたちゃんと面倒見てたんでしょうね?」
「マ、ママっ、あきちゃんはよく面倒見てくれたよっ!ね?七海?」
「うんっ!おじちゃまがいいひとだったからななみもいいこにしてたの!ね?おじちゃま!」
「あ…あぁ…。二人ともいい子にしてたよ。」
何年経っても相変わらず俺はこの強い姉に頭が上がらない。
でもその姉と俺の性格のせいで、空と出会うことが出来たし、空と恋人同士にもなれた。
姉に向かって言うわけにはいかないけれど、その点では10年前海外へ転勤が決まった義兄へと同じく感謝している。
「さ、行きましょ?車でパパが待ってるわよ。」
「どこかにおでかけしゅるの?」
「あらあら七海ったら。お家に帰るのよ?ごめんね秋生、そこ駐車禁止だから挨拶も出来ないけどよろしくってパパが。」
「あ…うん、それはいいんだけど…。」
義兄の車は叫ぶ姉の後ろに見えていた。
それはこれからの家族四人の幸せな生活が見えたような気がして、複雑な気持ちになった。
俺がその中に入ることは出来ない。
もちろん二人の叔父としてはいくらでも出来る。
だけどあの5年前のようには…空と二人きりになれるのは…もうきっとない。
空が向こうにいた時とは違う寂しさで、胸がちくちくと痛む。
「ママぁ、ななみここでくらしたいのー。」
「まぁまぁ何言ってるのこの子ったら。よっぽど秋生のことが気に入ったのねぇ。」
七海がそんなことを言ったことには正直言ってかなり驚いた。
俺に懐いているとは自分でも思っていたけれど、ここで暮らすだなんて…。
もっとそう言いたい人は…、空はすぐ傍でぐっと堪えているのに。
しかし俺が本当に驚いたのはその次の七海の言葉だった。
「だってななみおっきくなったらおじちゃまとけっこんするんだもん。」
「え…?!ちょ…七海ちゃん?!」
「七海何言ってるの?!あきちゃんは七海の叔父さんなんだよ?!」
「はいはい、二人が秋生を好きなのはわかったから!でも家に帰ったらパパとも仲良くするのよ?」
おっきくなったらけっこんする。
それは小さな子供がよく言う台詞だ。
本当に実現する可能性は極めて低いと言ってもいい。
もちろん姉もそれをわかっていて、そんな風にさらりと流した。
だけど俺と空は…多分姉のように流せずにいた。
「やー、いまからこんやくぱーてーするのー!」
「はいはい、また泊まりに来ましょ?ね?ほらくーちゃんも急いで。」
「あ…うん…。」
「あ…。」
姉は七海を無理矢理抱き上げて、玄関から出て行く。
二人分の荷物を持つように促された空は、言われるがまま姉について玄関を出る。
俺はそんな空を引き止めることも出来ず、それどころか何も言うことすら出来なかった。
手を伸ばせばすぐにでも触れられる、抱き締めることが出来るところに空はいるのに…。
「じゃあね秋生、ありがと!また来るわね!」
「あーんおじちゃまー!」
「あ…あきちゃん…。」
「そ、空……。」
ドタバタと三人が階段を下りて行くのを、俺は動揺しながら追いかけた。
どうしていいのかわからずに何度も俺の方を振り返る空と、多分同じ気分だ。
結局俺は空に触れることもなく、三人の後ろ姿を見送ってしまった。
空が「いってきます」と俺にだけ聞こえる小さな声で囁いたのがせつなくて、その日の青空はなぜだか目に染みて痛かった。
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