「そらいろ-3rd period」-7





それから一ヶ月、俺は空と一度も会えずにいた。
また来るから、なんて姉が言ったのはもちろん嘘ではない。
だけど普通に考えて、近所と言うほどでもない弟のところに遊びに来ることなんてそうそうないことだ。
たとえばお正月だとかお盆だとかに親戚が集まるようなもので、一ヶ月やそこらで会えるとは俺も思ってはいなかった。

空からは時々メールや電話があるだけだった。
今は危ない世の中だからと、過保護な姉が買い与えた携帯電話で俺にメールや電話をくれたのだ。
それも内容がバレるといけないからと、空は送信後のメールはもちろん、電話の履歴まで削除しているそうだ。

「あきちゃん、今度話があるの…聞いてくれる?」
「うん、いいよ。いつでも待ってるから。」

そんなメールのやり取りをしたのは一週間ほど前のことだった。
メールや電話では出来ないことだから、空は直接話したかったのだろう。
それがいつになるのか見当もつかない状態で待っているのは、大人ながらはっきり言って辛かった。
早く空に会いたい…会って思い切り抱き締めたい。
会えない距離でもないところで向こうも会いたいとわかっていると、どうしても欲が出て来てしまう。


「はぁ……。」

誰もいない家に帰ることが嫌で、寂しさで押し潰されそうになっていた。
深い溜め息を吐いては空のことを思い浮かべ、叶わない願いに肩を落とす。
そんな情けない日々が続いていたある日、自分の部屋の前で蹲っている空が視界に飛び込んで来た。


「空…?どうしたんだ?」
「あきちゃんー…。」
「こんな寒い中待ってたのか?風邪ひくだろ!」
「だって…ふぇ…、あきちゃん…僕…、僕、家出して来たの…!」

俺は空の言葉と手にしていた荷物を見て、目を丸くして息を飲んだ。
あんなに甘えん坊で家族のことを大好きな空が家出なんて、とても信じられなかったのだ。


「家出ってどうしたんだよ…?ママが心配するだろ?」
「だってそのママがいけないんだもん…!」
「とにかく今から電話して迎えに来てもらおう…な?」
「やだ…っ!あきちゃん、僕をここに置いて!お願い、あきちゃん…!」

空は寒さで震えながら、俺の胸に飛び込んで泣いてしまった。
大きな旅行用鞄がボトリと床に落ちたけれど、俺は空の方を選んだ。
小さな身体は今まで待っていたせいで、凍えそうな程冷たくなっていた。


「空…。」
「あきちゃん…僕がいると迷惑?置いてくれないの?ダメなの?」
「わかったから…とりあえず中に入ろう?このままじゃ本当に風邪ひくぞ。」
「うっ、ふぇ…あきちゃんー…!」

会いたいと思っていれば願いは叶うものなのだろうか。
空が家出なんて大変な時に、俺はそんなことを考えてしまっていた。
どんな理由であれ空に会えて抱き締められたことが嬉しくて…。
姉やその家族には申し訳ないけれど、今だけはそう思うことを許して欲しい。


「風呂沸かそうか、それとも温かいもんでも…。」
「いい…いらない…。」
「そうだ、牛乳飲むか。好きだったろ?温かいのに砂糖入れたやつ…。」
「あきちゃん…僕子供じゃないよ…。」

空はなんとか泣き止んだものの、まだ鼻を啜って震えている。
子供は免疫力が少ないから、すぐに風邪をひいてしまうことぐらいわかる。
だけど空はそんな俺の言葉に歯向かって、俺が台所へ行こうとするのを止めた。


「どうしたんだ…?空…。」
「僕子供じゃないよ…、ママも子供扱いするし…あきちゃんまでそうなんだ…。」
「だって俺に比べたら子供だし…別に悪い意味じゃ…。」
「でも何も出来ないと思ってるんでしょ?あきちゃんもママと一緒なんだっ!」

空は珍しく苛々しているようだった。
こんな姿を見たのは、あの時…初めての嫉妬に戸惑っていた時以来だ。
普段はいつも笑顔で穏やかな空が、こんな風に感情を丸出しにして怒ることは滅多にない。


「話って…もしかしてそれか…?メールで書いてただろ。」
「あきちゃん…。」

こういう時は俺まで感情を乱してはいけない。
優しく抱き締めて、きちんと話を聞いてやればいい。
そうすれば空はきっと落ち着いて、いつものように笑ってくれるだろう。


「空、話してみろよ…な?」
「うん…。」

俺の思いは通じたようで、腕の中で空は急におとなしくなった。
震えていた身体も温まって来たのか、気持ちよさそうに目を細めて俺に体重を預けている。


「あきちゃん、僕が行ってる学校のこと…知ってる?」

空が通っているのは、空の家からそう離れていないところにある私立校だ。
同じ区内にある大学の附属の中学に空は今在籍していて、来年からは附属の高校へ通うことになる。
よほどのことがなければエスカレーター式で大学まで行けるというところだ。


「僕…高校は別のところに行きたいの…。」
「え…?そうなのか…?勿体ないな…。」
「あのね、この近くの川沿いにある高校…知ってる?」
「あぁ…知ってるけど…。」

俺の住むところの近くには幾つか高校がある。
川沿いにあるその私立高校は、自由な校風と勉強以外の生徒の活躍が有名なところだ。
もちろん勉強が出来ない高校なわけでもなく、それなりに学力は必要だ。
だけどよく知らない人から見ると、その自由さや勉強以外の活躍から、見た目などで誤解をされたりもするところでもある。


「あそこは芸術系の部活動が凄く有名なんだって…。」
「あぁ…そういや画家や音楽家も何人か出てるって聞いたな…。」

運動部はもちろん、芸術系の部活動でもそこの生徒は活躍していた。
そういう意味で個性的な生徒が多く、誤解をされているのだ。


「僕はそこに行きたいの…。」
「えっ?そうなのか…?空が…?」
「うん…あのね、あきちゃんよく写真送って来てくれたでしょ?」
「あぁ…素人が撮ったもんだから下手くそだったけどな。」

空が向こうにいる間、俺は少ない手紙と一緒によく写真を送っていた。
夏の空や冬の空、窓から眺める景色だとかだ。
少しでも空に寂しい思いをさせないよう、俺の近くにいると思ってくれるようにという願いでシャッターボタンを押していた。


「あれをよく見てね、色々想像したりしてた。あれを見ながら絵にしたり…。」
「空…もしかして絵やりたいのか…?」
「うん…。あ、でもね、写真も魅力的なの…。自分でも撮ったりしたし…。まだ迷ってるけど…そういうのってダメなのかな…。」
「いや、やりたいことは色々やってみればいいと思うけど…。」

空がそんなことを言うだなんて、俺にとっては意外だった。
今まで我儘を言うことはあったけれど、何かをしたいと将来を言うことはなかったからだ。
空もそういう歳になったのかと、こんな大変な時なのに俺は空の成長を喜んでしまった。


「それをママが反対するから…。くーちゃんがそんなところでやって行けるわけないって。」
「うーん…まぁ姉ちゃんも心配性なところはあるよな…。」
「勝手に決めるなとか、せっかく入ったんだから今のところでいいとか…僕は別に今のところに行きたいなんて言ってないもん!
ママが近くだから安心って、ママの方が勝手に決めたのに…!何も知らないのにあの高校はガラが悪いからダメなんて言って…!」
「そ、空…落ち着けよ…。」
「ねぇあきちゃんはどう思う?やっぱり僕が我儘なの?勝手なの?僕には出来ないと思う?」
「そうは思わないけど…でも空…。」
「僕はもう何も出来ない空じゃないよっ!何だって出来るもん!恋だって…あきちゃんとえっちなことだってしてるもん…っ!」
「そ、空…っ、それは…!」

空は再び感情が昂ぶってしまい、とんでもないことまで言い出してしまった。
それほど空はわかって欲しかったのだろう。
いつまでも子供じゃない、自分のしたいことは自分で決める。
自分にはやりたいことがある…そう言いたかったのだ。


「ごめんなさい…あきちゃん怒ってるよね…。」
「いや…、怒ってなんかないよ…。」
「でも僕…もっと悪いこと考えてたの…。」
「悪いこと…?」

急にしゅんとして謝る空が、俺の身体にぎゅっとしがみ付く。
俺よりも高い体温が皮膚を伝って全身に広がって、今にも熱が上がってしまいそうだ。
心臓がドキドキして、耳に響いてうるさい。


「その高校に入ったら通うの大変だから…、だからまたここに住めるかと思って…。」

空が考えていた「悪いこと」というのは、俺との生活だった。
10年前突然始まって、5年前に断たれた俺との生活。
毎日が騒がしくて楽しくて、嬉しくて…そんな夢のような生活のことだ。


「空……、ダメだろ…そんなこと言っちゃ…。」
「ごっ、ごめんなさい…やっぱり怒ってるよね…。」

そうじゃないんだ。
そうじゃないんだよ、空。
お前が言う「悪いこと」を俺も共有したいって思ったんだ。
俺達は10年前から一緒に「悪いこと」をしてきた。
それを始めたのは俺なのに、今になってお前だけに悪いことをさせるわけにはいかないんだ…。
それなら俺も一緒に…そう思ってしまったんだ。


「ダメなんだ…そんなこと言ったら離したくなくなるんだ…。」
「あきちゃん…っ!」

もう無理だ。
これ以上空と離れていることに俺はもう我慢が出来ない。
悪い大人だって責められてもいい、全部俺のせいにしたっていい。
誰に何と思われようが空を離したくない。
ずっとずっと傍で、こうして強く抱き合っていたい。
俺は空をしっかりと抱き締めて、激しいキスを何度も繰り返した。






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