「そらいろ-3rd period」-3





「おじちゃまー、いっちょにおふろにはいりましょ!」

家に帰ると、七海がパジャマやら着替えを抱えて俺のところへ走って来た。
ママやパパがいないことなんか忘れてしまっているかと思うぐらい明るく元気だ。


「七海ダメだよ、お兄ちゃんと入ろう?」
「えー。」

俺の脚に抱き付こうとする七海を、またしても空が止めた。
確かにまだ5歳の七海は一人でお風呂は無理かもしれない。
いつもならママかパパと一緒に入っていただろう。
しかしさすがに俺としても女の子の七海と入るのは少しだけ躊躇われた。
実のところどう断ろうと思っていたから、空の行為は助かったと言える。


「ね、お兄ちゃんも準備してくるから。」
「やだー。」
「どうしてやなの?」
「だってそらちゃんはおとこのこだもんっ。れでーはそんなことできません!」

七海は空の腕を振り切って、俺の後ろに隠れた。
この歳で女の子に拒否される兄の立場としては、ショックに違いない。


「あきちゃんだって男の人だよ?お兄ちゃんよりも大人でちゃんとした男の人なんだよ?」

俺は空よりも歳を食っている分、男という点では俺の方が嫌なんじゃないか。
俺もそう思ったから躊躇ってしまったし、空の言うことも間違ってはいない。
だけどそれは俺と空だけが思っていることだった。


「でもおじちゃまはおじちゃまだもん。パパとおなじでしょ?」
「え……?」
「そらちゃんもそーだけど。おじちゃまのほうがパパみたいだもん。」
「七海…。」

俺は七海の言葉にハッとしてしまった。
同じように空の顔も急に曇り始めた。
パパと同じ、パパと似たようなもの。
恋愛に発展することも、結婚することもない。
普通に考えたらそういう感情にも関係にもならない、そうなることの方がおかしい立場なのだ。


「じゃ…じゃあ一緒に入ろうか、七海ちゃ…。」
「あきちゃんっダメだよ!七海を甘やかさないでっ!」
「空…。」
「七海、お兄ちゃんの言うこときかないとママに言いつけるからねっ!」

俺の迷いを振り切るかのように空は大きな声を上げて七海を叱ると、無理矢理手を引っ張って連れて行ってしまった。
「ママに言いつける」という言葉が効いたようで、七海もおとなしく空について行った。

俺はその後一人になった部屋の中で頭を抱えていた。
レストランに行く前からこれまでの空はやっぱりおかしい。
途中の5年を抜かしても出会ってからもう10年、目の前でも電話でも手紙でも、俺はあんな空を見たことがなかった。
それだけ空は成長をしたということだ。
いくら気持ちが変わらないと言っても、成長はし続けている。
いいことも悪いことも区別がつくようになって、俺のことも間違いだと気付いたら…?
確かに5年前も薄っすらとそのことに気付いていた。
だからこそ俺も空も自ら辛い道を選んだのだ。
それはこの秘密の恋を守るためだった。
だけど本当は、それが間違いだと気付くために離れていたとしたら…?


「違う…。」

俺はブツブツと独り言を言いながら、微かに聞こえて来る二人の声とシャワーの音に耳を傾けた。
違う、そんなはずはない。
俺は空を好きで、空も俺を好きなはずだ。
それは変わらないはずなんだ…。
変わらないはずなんだけど…俺は自信がなくなっていた。
空のあの態度の意味がわからなくて。
こんなに近くにいるはずの空が、向こうにいた時よりも遠く感じた。


「おじちゃまー…。」
「あれ?上がったのか?空は?」
「そらちゃんはもうちょっとはいってるって。ななみねむいからでてきたの。」
「そっか…じゃあ布団ひいてあげるからな。」

満腹になって湯船に浸かって、どうやら七海は眠くなってしまったらしい。
なんと言っても二人は今日日本に帰って来たばかりだ。
疲れているのは当たり前だった。


「おじちゃまー…、そらちゃんはまだー?」
「ん?もうすぐ来るから。七海ちゃんは先に寝てていいんだよ。」
「うんー…おやしゅみなさ……。」
「うん、おやすみ。」

なんだかんだ言っても七海は空のことが大好きなんだと思う。
傍にいないことを心配する表情がそれを物語っていた。
だけど眠気には勝てなくて、小さな身体を抱き上げて寝室のベッドに運んでやると、七海は挨拶の途中で寝てしまった。
昼間のおませなお嬢様からは想像も出来ないほど無邪気な寝顔だ。
規則正しい寝息は、俺のぐらぐらした気持ちまでも和ませる。


「おやすみ、七海ちゃん。」

俺は七海の頭を優しく撫でて、寝室を出た。
おやすみ、そしてごめん。
七海のお兄ちゃんと秘密を作って…大好きなお兄ちゃんを独り占めしてごめん。


「空ー?まだ入ってるのか…?」

まだ止まないシャワーの音に不安になって、俺は風呂場に向かった。
いくらなんでもこんなに長時間入っていたら逆上せてしまうのではないかと心配になったからだ。


「空…?」

しかし俺が呼んでも、空の返事はなかった。
曇りガラスのような不透明なドアの向こうで、シャワーの音が響いているだけだ。
なんだかまるで、見えない空の心みたいだ…。


「空っ、開けるぞ?!」

もしかしてもう逆上せて倒れてしまっているのかもしれない。
もしかして湯船の中で眠ってしまっているかもしれない。
心配は危惧へと変わり、俺は勢いよくドアを開けた。


「空……?!」

そこにはシャワーの傍で蹲っている空がいた。
逆上せて倒れているわけでもなく、眠ってしまっているわけでもない。
ただ床に置かれたシャワーの傍で、濡れた身体を丸めて蹲っていたのだ。


「空、どうした…?大丈夫か…?」

俺に気付いて振り向いた空は、泣いていた。
返事もせず、声も出さずに俺を見つめて涙を流している。


「空…?」
「あきちゃ…。」

やっとのことで出た空の声は、震えている。
俺を見つめる目から流れる涙は止まることがないみたいに溢れ出す。


「ど、どうしたんだ…?何かあったのか?七海と喧嘩でも…。」
「ううん、してない…。」
「じゃあどうしたんだ?とりあえず上がって…。」
「あきちゃん…、僕…あきちゃんとお風呂に入りたい…。」

こんな時に空は何を言っているんだろう?
一瞬そう思ったけれど、俺は空の言うことを聞いて服を脱ぎ捨てた。
なんだかそうしないと空が壊れてしまう気がしたから。
ダメだなんて言ったらもっと泣いてしまうような気がしたから。


「七海はずるい…。」
「え…?」

空は随分とこうしていたようで、だいぶ身体が冷えていた。
風邪でもひいたら大変だと、温かいシャワーのお湯をかけてやった。
こうして二人でいる風呂場も大きさは変わらないのに、狭くなったのは空が成長したからだ。


「僕…七海のこと好きだよ…?可愛いと思うし大好きなんだ…。」
「うん…。」
「でもあきちゃん…、七海ってばあきちゃんにあんな我儘言うんだもん…。お風呂のことだってそうだよ…。」
「空…?」
「僕だけが言えたのに…!今までは僕だけだったのに…!七海は今日あきちゃんに会ったばっかりなのにずるいよ…っ!」
「空……。」

空がおかしかったわけがやっとわかった。
俺は大人のくせして、こんなことも気付かなかったのかと思うと胸が痛くなった。
空は精一杯合図を送っていたのに、俺は七海のことばかりだった。
七海の気を引こうとしたり、バレないようにとそればかりだった。


「あきちゃん…こういうのってダメだよね?僕のこと嫌いになるよね?我儘だって怒るよね?だって僕、こんな自分は嫌いだもん…っ!」

それは空にとっては初めての嫉妬だった。
自信がなかったのは俺だけじゃない。
空の方が不安な思いをして、初めての感情に戸惑っていた。
俺はそれにも気付かずにあんなこと…一瞬でも間違いだなんて思ってしまった。
空はこんなにも、俺のことだけを思っていてくれたのに。


「ならないよ。」
「ホント…?」
「うん、ホント。絶対ならない。前よりもっと好きになった…。」
「あきちゃんー…。」

変わってなんかいない。
俺を見つめる真っ直ぐな瞳も、その泣き顔も。
俺に甘えてくる時の抱き付き方も。
重ねた唇の柔らかさも甘さも、キスの味も肌の感触も。
空は何ひとつ変わってなんかいないんだ…。


「空、好きだよ、空…。大好きだ…。」
「うん…っ、ふぅ…んっ、あきちゃん…っ。あきちゃん…僕も…っ。」

僕もあきちゃんが大好き。
空が全部言い終わる前に、俺はその唇を塞いだ。
シャワーの音が心地良い音楽みたいに響く中で、空の身体をきつく抱き締めた。





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