「そらいろ-3rd period」-12





それから空は本気で受験勉強に取り掛かり、俺達は会うことよりも以前にメールや電話の数もぐっと減った。
あれだけ連絡はこまめに寄越していた空だったから、それを我慢しての努力は相当なものだったのだろう。
俺はそんな空に影響を受けて、以前よりも仕事に精を出した。
お陰で以前より少しは部署内で仕事を任されるようになったし、空と会えない寂しさも少しは忘れられたから、いい効果だったと言える。

空の努力は見事に実り、無事志望していた高校に合格を決めた。
姉は絶対に受からないと思っていたのか、物凄く驚いていたと空から聞かされた。
逆に義兄は空のことを信じていたようで、ただ褒めちぎっていたと言う。

そして桜の芽が膨らみ始めたある日、大きな荷物と共に空が再び俺のところへ来ることになった。
土曜で仕事が休みのその日は、俺は年甲斐もなく朝からソワソワして落ち着かなかった。
合格の電話をもらった日からその浮かれ気分は続いていたけれど、前の日に時間の約束をした時は、改めて一緒にいられる幸福感でいっぱいになった。


「あきちゃん…。えっと…ただいま…。」

インターフォンが鳴ったのとほぼ同時に玄関へ走って向かうと、そこには少し照れくさそうにして、大きなバッグを持って立っている空がいた。
空らしい挨拶が嬉しくて、思わず手を伸ばしてぎゅっと抱き締める。


「おかえり…。空、おかえり…。」
「うん…っ、ただいま…。ただいまあきちゃん…!」

腕の中の空は、また大きくなったような気がする。
初めて俺の家で「ただいま」を言ってから、本当に随分と大きくなった。
背もそうだし、心も成長して、これからもどんどん大人になっていくのだろう。
そんな大事な時を一緒に過ごせる幸せを噛み締めるように、俺は空の身体を強く抱く。


「パパに見つかったら大変だな…。」
「あ…うん…。」

空がインターフォンを押す前に、義兄が車のトランクから荷物を出していたのを俺は窓から見つけていた。
とても名残り惜しかったけれど、俺は空の身体をゆっくりと離した。
本当はこのままずっと空を抱いていたかったけれど、そういうわけにもいかない。
だって俺は信頼されている、空の叔父さんなんだから。
一緒に暮らせる喜びの本当の意味を感じるのは、二人きりになってからでいい。


「秋生くん、久し振りだな。元気だったかい?」
「あ…はい。お久し振りです。」
「今日からまた空が世話になることに…あ…、荷物入れてもいいかな?そんなに多くないんだけど…。」
「あっ、はい!狭いところですけど…どうぞ。」

俺達が離れてすぐに、義兄は大きな荷物を持って現れた。
普段は忙しくてバリバリ仕事をする超エリート会社のサラリーマンも、休日はただの父親にしか見えない。
もしかしたら本当は今日も休日出勤だったのを、空のために断って来たのかもしれない。
姉もそうだが、義兄の空に対する可愛がり様もかなりのものだということは前から知っていた。


「あの…、今日は姉は…七海は一緒じゃないんですか…?」

実はあれ以来、姉とは空以上にほとんど連絡を取っていなかった。
昔は世話好きでお節介な姉の方からしょっちゅう電話を寄越していたのに、空の家出の一件がどうも気まずいのか、よほどのことがないと連絡をして来なかった。
しかもいつもなら電話でするところを、あれほど面倒だと言っていたメールでして来たものだから、実際に姉と会話をしたのはあの時が最後だった。


「あぁ、車にいるよ。空と離れるのが寂しいんじゃないか?息子の晴れの日だって言うのになぁ…困ったママだよ。」
「そ…、そうなんですか…。」
「七海も来てるんだけどずっと拗ねちゃっててね。ほら、秋生くんに結婚を断られただろう?」
「す…、すみません俺…。」

七海も七海で、あれ以来俺と話すことはなかった。
あの時泣いていた声を思い出すと、少しだけ罪悪感で胸が痛くなる。
何もあんなにハッキリ「結婚は出来ない」なんて言うこともなかったかもしれない。
もう少し大きくなってから、教えてやればよかったかもしれない…と。


「いやぁ、気にしなくていいんだよ。どうせまたすぐに別の男の子に夢中になるんだから。娘なんてそんなもんだよ。」
「そうなんですか…。」

義兄がいい人であればあるほど、俺の胸は苦しくなる。
俺を全面的に信頼してくれている義兄に背いて、陰でとんでもないことをしてしまっているのだから。


「秋生くんも父親になればわかるさ。」
「あはは…そうですかね…。」

寂しそうに笑う義兄に対して俺は軽く笑って答えたけれど、おそらく俺が父親になることはないだろう。
俺は空をずっと好きでいるつもりだし、離れるつもりもない。
だからこそその罪悪感や後ろめたさに負けないよう、精一杯空を好きでいようと思っている。


「よしっ、これで最後だな。悪いけどこれで失礼するよ。大した荷物でもないし…いいかな?」
「あ…はい、後は俺がやりますんで。」
「悪いな、秋生くんには迷惑かけっ放しで。」
「いえ、そんな…迷惑なんてことはないです…。」

空の荷物はダンボール箱で三つ。
割と大きめの箱だったけれど、それぐらいなら整理するのには二人で十分だった。
それにこのマンションには駐車スペースがないから、義兄も車のことが心配だったのだろう。


「あ…、すみませんちょっと失礼します…。」

その時ちょうどポケットに突っ込んでおいた携帯電話が鳴った。
液晶画面を見ると、最近見なくなっていた番号が出ている。


「もしもし秋生?」
「あ…うん…。」
「くーちゃんのこと、頼んだわよ?ご飯はちゃんとしたもの食べさせて、夜更かしはしないように…。それから…。」
「うん、わかってるって。あ…七海は?そこにいるんだろ?ちょっと代わってくれないか?」

あれほど意地を張っていた姉も、少しだけ素直になったようだ。
電話の向こうの姉は相変わらず強気な口調だったけれど、空に対する思いで溢れている。


「もちもち?」
「あ…七海ちゃん、この間はその…なんて言うか…。この間はごめんな…?でも俺…。」
「ななみもっとすてきなひとみちゅけるもんっ!おじちゃまなんてもうわすれまちたっ!!」
「そ、そっか…。」
「ちょーしにのらないでよねっ!こーかいしたってななみけっこんなんかしてあげないんだから!」
「う、うん…わかったよ…。」

あの日の俺と姉と七海のわだかまりは、なんとかギリギリで解けたようだ。
それにしても七海の強い口調が姉そっくりなのが可笑しくて、話しながら吹き出しそうになってしまった。
将来どんな女性になるのか…今から想像が出来るような気がする。


「まったくうちの女性には困ったもんだなぁ。じゃあ空、パパは行くから。いい子にしてるんだよ?」
「うん…。」
「ちゃんと秋生くんの言うことは聞くんだぞ?しっかり勉強もするんだぞ?何かあったらいつでもパパに電話してくれよ?」
「うん…わかった…。」

義兄の大きな手が、空の頭を優しく撫でる。
さすがの空も寂しそうな表情を浮かべて、俯いてしまった。
一生会えなくなるわけでもないけれど、まだ15歳の空が家族と離れて暮らすのが寂しくないわけがない。


「じゃあ…。」
「あっ、パパ…!」

玄関を出て行こうとする義兄の腕を、空がぎゅっと掴む。
身体を震わせて今にも泣きそうな顔をして、やっぱり相当寂しいのだろう。


「こらこら空、どうしたんだ?寂しいなんて言っちゃダメだぞ?空は男の子だろう?」
「うん…。あの…ママにも頑張るって…七海にも…。」
「うん、ちゃんと言っておくよ。」
「それからあの…っ、ありがとう…!パパありがとう…!」

空が腕を離すと、義兄は笑いながら手を振って俺達の前から立ち去った。
また一つ、空が大人への階段を昇ったその光景を、俺は無言で眺めていた。





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