「そらいろ-3rd period」-11
翌日は平日で、俺はもちろん仕事がある日だった。
最初は会社を休んで空の家まで行こうとしたけれど、空がそれを止めた。
自分のことで迷惑がかかるのはいけないから、ちゃんと会社には行って欲しいのだと。
確かに俺は一社会人で、会社でもまだ大層な役職に就いているわけでもない。
空も空でまだ自分は中学生の身分だからちゃんと学校へ行くのだと、随分と朝早くに俺の家を出た。
空はもう、他のことを考えずに我儘を言う子供ではなくなっていたということだ。
「あきちゃん、おかえりなさい。」
夕方に仕事を終えて、俺は真っ直ぐに帰宅した。
こういう日に残業がなくて助かったと思う。
そうでなければ空を待たせることになるし、姉をも待たせることになる。
空はきっと怒ったり責めたりはしないだろうけれど、姉の心配を考えると俺まで仕事に手が付かなくなりそうだった。
「ただいま。じゃあ行こうか。」
「う、うん…。」
仕事が終わった時点で、空には定時で帰れるということを連絡しておいた。
空は家に戻る準備を済ませ、後はコートを着れば出掛けられるようになっていた。
「大丈夫だから。」
「うん…、ありがとうあきちゃん…。」
心配なのは姉だけではなかった。
当事者である空が一番心配で、一番不安なはずだ。
「ただいま」を言う空からは笑顔が消えていて、その表情だけで心情が窺えた。
それに対して俺は「大丈夫」なんて言ってしまったけれど、もちろん自信なんてものがあるわけではない。
心配で不安なのは俺も同じで、そう言うことで自分を奮い立たせるしかなかった。
それから空の心配や不安を少しでも和らげてやりたかったし、ただ言葉にすることで、俺達の願いも叶えられるような気もしていた。
「あ…こんばんは、秋生です…あの…。」
「やぁいらっしゃい。今開けるからどうぞ。」
その後すぐに俺達は、電車を乗り継いで姉の待つ空の家まで向かった。
インターフォンを押すと珍しく早く帰宅していた義兄の声が答えた。
それは姉が怒って出ないのか、それとも義兄に出させて威圧感を与えようとしているのか…。
普段と変わらない義兄の声だけでは、どちらなのかわからなかった。
「お久し振りです…。あの…昨日は勝手言ってすみませんでした…。」
「パパ…、心配かけてごめんなさい…。」
「二人とも謝るのはいいから。ママが奥で待ってるから入って入って。」
「はい…お邪魔します。」
「はい…。」
「外は寒かっただろう?もう冬だもんなぁ。」
世間話をし始める義兄の態度からして、それほど怒っていないことは察しが出来る。
俺の家の父親がそうだったけれど、割と父親というものはそういうことに反対をしないものだ。
どちらかと言うと自分の将来を考えるようになった息子の成長を喜んでいることが多い。
ただ父親がそうでも、母親はまた違う。
それは俺の家だけでなく、この家でも同じことだった。
「あー!おじちゃまー!」
「七海ちゃん、久し振りだな。」
「うんっ!おひさちぶりでしゅ!おじちゃま、ななみとのけっこんはちゃんとかんがえてくれまちた?」
「あー…あのそれは…。」
奥のリビングから七海がぱたぱたと走って来て、屈託のない笑顔で出迎えてくれた。
昨日は空がいなくて泣いていたはずなのに、その名残りもないぐらいだ。
前に俺の家に来た時に出た結婚話をされたけれど、申し訳ないが今はそれどころではない。
「七海、空と秋生おじちゃんはママと大事な話があるんだよ。パパとあっち行って遊んでような?」
「はぁーい…。おじちゃま、あとでね!」
「あ…うん…。」
義兄がすかさず七海を抱き上げ、その場はややこしくならずに済んだ。
他の部屋に連れて行ったところを見ると、やはり義兄は反対というわけでもないのだろうか。
だからと言って安心している場合ではない。
俺はもう一度気を引き締めるために、握った掌に力を入れてから姉の待つリビングへ足を踏み入れた。
「姉ちゃん…昨日は勝手なことしてごめん。悪かったよ。」
「ママ…家出なんかしてごめんなさい…。」
「いいからここに座りなさい。」
ソファに座って待っていた姉の顔は言葉にせずとも物凄い怒りを表していて、一瞬尻込みしてしまいそうになった。
ここまで来てそれだけはしたくなかったけれど、何せ俺は姉に喧嘩で勝った覚えがほとんどない。
昨日空が俺のところに泊まったのも喧嘩に勝ったわけではなく、俺が一方的に電話を切って終わらせたからだ。
「それで?くーちゃんは本当に反省してるの?」
「うん…。いきなり家出したことは悪いことしたって思ってる…。」
「そうじゃないでしょ?別の高校に行きたいっていうのをやめたのかってママは聞いてるの。」
「そ、それはその…。や、やめたくない…。」
俺だけでなく空までもが、姉に畏縮してしまっている。
もごもごとどもりながら正直に話す空を、姉は般若のような形相で見ているのだから当然だ。
「何度言ったらわかるの?せっかく入った中学なのよ?大学まで行けるのよ?」
「でもママ…、僕は…。」
「ね、姉ちゃんちょっと空の話も…。」
「秋生は黙ってて!あんたは関係ないでしょ?!これはうちの問題なの!」
泣き出しそうな空をなんとか助けてやりたくて口を挟むと、今度は姉の怒りが俺にぶつけられる。
こんな風になることは予想していたけれど、いざそう言われてしまうと何も言えなくなってしまう。
俺はこの家族でもない、関係のない人間だ。
だけど少しだけ血は繋がっている、中途半端な関係。
空の家族の中までは入れない、ただの叔父さんだ。
それはもちろん上辺だけだけれど、一生変わることはない。
だって俺は、空と恋人だということを一生言えないのだから。
「あ、あきちゃんは関係なくないよママっ!!」
その時空が、信じられない程の大きな声を上げて怒鳴った。
俺はもちろん、姉までもがそれに驚愕して目を丸くしている。
「あきちゃんは僕を5年間育ててくれたもん…っ!ママとパパがいない間ずっと一緒にいてくれた…!僕にとっては家族と一緒だよっ!」
「あのねぇくーちゃん、行きたくないって言ったのはくーちゃんなのよ?そういう言い方はないでしょう?」
「外国に行くことになったのは僕のせいじゃないでしょ?!ママもパパも行きたかったのかもしれないけど僕は嫌だったの!」
「そういうことを言ってるんじゃないの!今その話はいいでしょ?!」
「そういうことだよっ!!ママもパパも喜んで行ったじゃないっ!でも僕は絶対行きたくなかったんだもん!」
「くーちゃん…。」
俺は初めて、空が母親に反発するところを目の当たりにした。
予想以上に空はちゃんとしていて、いつまでも「ママ、ママ」と甘える息子ではなかった。
昔はあんなにもべったりだったのに…やっぱり空は確実に成長をし続けている。
「別に行ったのがダメとかじゃないの…。ただあきちゃんはその時ずっと一緒にいてくれたんだもんっ、関係なくなんかないでしょ?!」
「それは…。それは確かに秋生には世話になったと思ってるわよ…。」
「だったら関係ないとか言わないで!今日だってあきちゃんせっかく来てくれたんだよ?それにあきちゃんはママの弟でしょ?!関係あるでしょ?!」
「わ、わかったわよ…。でもそれと学校の話は別でしょう?」
今度は姉の方が畏縮してしまった。
姉がこんな風になるのも、俺は初めて見たかもしれない。
いつも強気な姉が、息子に怒鳴られて弱くなっている姿なんて…。
「あの、姉ちゃん…空は真剣に考えてるよ…。」
「誰も真剣じゃないなんて言ってないでしょ…。」
「だったらもうちょっと話ぐらい聞いてやってくれよ…。話聞く前にダメだって言われたら家出したくなるのだって仕方ないんじゃないのか?」
「あんたに言われなくても聞くわよ!聞けばいいんでしょう?!もうっ、聞くから話しなさいよ!」
しかしすぐに元の姉に戻り、俺はビクリと身体を震わせた。
やっぱりいつまで経っても俺にとっては姉は姉のままで、敵わない相手なのかもしれない。
情けないけれど、それが俺達姉弟なのかもしれない。
その後姉は言葉通り、空の話をきちんと最後まで聞いてくれた。
空がどれほどその高校に行きたいのか、そのためにどれだけ頑張る決意でいるのか。
それも俺は見たことがない、空の「強さ」だった。
「くーちゃんの言いたいことはわかったわ。」
「え…じゃあママ…。」
「まだいいとは言ってないわよ?誤解しないで。」
「そ、そんなぁ…。」
姉は暫く腕組みをして、考え込んでいるみたいだった。
それはそうだ、息子が初めて自分に逆らってそれを通そうとしているんだから。
そこで「いい」と言うのも「ダメだ」と言うのも、とても勇気が要ることだ。
「空は自信があるのか?これから一生懸命勉強して受験して受かるっていう…。ちゃんと頑張れるのか?」
「パパ…。」
その時助け船を出してくれたのは、父親だった。
義兄は七海を抱っこしながら、リビングに入って来たのだ。
どうやら隣の部屋で一部始終を聞いていたらしい。
「それならパパは応援するよ。」
「まぁっ、何言ってるのパパ…!」
「パパっ!それホント…?」
「ママだって本当は応援してるんだよ。ただ空がいなくなるのが寂しいだけなんだから。昨日だって一晩いないだけでどれだけ心配したか…。」
「パパは余計なこと言わないでっ!くーちゃんが信じちゃうじゃない!」
「パパ、僕頑張るよ!頑張って自信もつくようにする!一生懸命勉強するよ!」
こういう時の父親の力というのは偉大だ。
さり気なく出て来て、うまいことまとめてしまうんだから。
つい今まで怒っていた姉も、気まずそうな表情を浮かべてしまっている。
「わかったわよもう…。」
「ママ…!ホントに…?いいの僕…。」
「その代わりちゃんと勉強するのよ?不合格だったらちゃんと今のところに通うのよ?」
「うん…っ!勉強する…!合格しなかったら諦める…!」
「仕方がないわね…じゃあもうこの話は終わりましょ。後はくーちゃん次第ってことでね。」
「ママ…!ありがとうママ…!パパもありがとう!あきちゃん、ありがとう…!」
空はやっといつもの笑顔を見せてくれた。
何度も皆にお礼を言って、ペコペコと頭を下げている。
姉は決まりが悪いのか、今頃になってキッチンに行ってお茶の準備をし出した。
俺はそんな姉に対して、気の毒な気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだった。
「秋生くん、春からはまた空のことをよろしく頼むよ。まぁ合格したらの話だけどな。」
「あ…はい…。でもあの…。」
「俺は実際見てるからね。ほら5年前…。空をどれだけ可愛がってくれていたのかはわかってるつもりだ。」
「あ…はい…。ありがとうございます…。」
「だから君には安心して空を預けられるんだ。頼んだよ、秋生くん。」
「はい…、わかりました…!」
そういえば5年前の別れの時、義兄は言っていた。
「秋生くんには感謝しなきゃな。空がいい子に育ってくれてよかった。」
あの時義兄は本当に素直な気持ちでそう言ったのだ。
俺に対するその感謝と信頼が、今も義兄の中では続いているのだろう。
「おじちゃまぁー、ななみとのけっこんしきはいつにしましゅか?」
「え…?」
「んもう!ななみはおじちゃまとけっこんするってさっきもいいまちた!」
「あ…えっと……。それは…。」
やっと一段落したかと思いきや、義兄に抱かれていた七海が口を開いた。
まだまだ俺と空には、問題が山積みだ。
だけどその山を一つ一つ、少しずつでいいから切り開いて乗り越えていけたらいい。
そうすることで俺達の恋もより確かなものになっていくのだと思う。
「パパー、うぇでんぐどれすはななみしろがいいのー。それでね、きょうかいでけっこんしきをあげるのー。」
「七海ちゃん…ごめんあの…。」
「う?おじちゃまどうちたの?」
「ごめん…俺…、その、俺には好きな人が…心に決めた人がいるんだ…。だから…。」
だから七海ちゃんとは結婚は出来ないんだ。
最後まで言い終わる前に、七海の大きな泣き声が家中に響いた。
俺はまた姉に怒られ、義兄は笑いながら七海を宥めていた。
空も一緒に宥めていたけれど、俺と目が合うと、父親に似た困ったような笑顔を見せてくれた。
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