人のほとんど残っていない寮とは比べものにならないぐらい、街は喧騒に包まれた別世界のようだった。
まだ昼の暑さを残したアスファルトの上を、人々が急ぎ足で進む。
会社帰りに飲みに行こうとしているサラリーマンやOL、これからコンパでもするであろう学生達
、
デートの待ち合わせ前に落ち着かずに何度も鏡をチェックしている女性。
そんな、楽しい夜へ向けての音や匂いや空気で溢れていた。
「メシ、どこにする?」
「んー…どこでも。任せる…。」
人々の流れをぼんやりと眺めながら、二人でその波を掻き分けるように道なりに歩いていた。
ごくたまにだったが、こうして二人で夕飯を食べに出掛けることがあった。
門限は午後10時で、特に外出に許可というものは必要なかった。
出掛けに入り口で、外出することを言って行けばいいだけだった。
案外自由な学校なのだと思ったけれど、夜は勉強や友人達との談話で皆それほど出掛けないらし
い。
閉ざされた寮という空間で、自由なのに息苦しい、何かそういった秘密めいた雰囲気が、あの場所には漂っているような気がした。
そんな中出掛けた時はいつも、こうして楽しそうな空気の中、世間話もせずにほとんど黙ったまま歩く。
「お前いっつも任せるしか言わねぇのな。」
「え…、あ…、ご、ごめん…。」
「いいけど。」
「ごめん…。」
ぼんやりしていたせいか、葵の話まであまりよく耳に入って来なかった。
適当に言ってしまった自分の言葉を責められた気がして、少し胸に痛みを感じた。
もっとも葵は、さほど気にしてなんかいないのだろうけれど。
時々人の波に飲み込まれそうになりながら、目的地がどこだかわからずに歩く。
酔ってしまいそうになるのは、この人混みになのか、それとも…。
薄暗闇に浮かぶ、葵の明るい髪が靡くのを見つめながら、高級ジュエリーブランド店の前を通り過ぎようとした時だった。
見覚えのある、中年男性が、ショーウィンドウを覗き込んでいる。
大きなガラスの中で、先程ライトアップされたそこには、数々の綺麗なジュエリーがディスプレイさ
れていて、眩しいほどに輝いている。
「………さん…。」
「おい、どうした…?」
そこから動けなくなった蒼に気付いて、葵も立ち止まる。
それでも人の流れは止まることを知らないみたいに、二人の周りを駆けて行く。
真剣に何かを吟味している中年男性の隣には、腹の大きな女性がぴたりと寄っている。
────お父さん…。
この身体に流れている血の一部は、その人からのものだったけど、その名前を口に出来ずに胸の中でだけ呟いた。
何かの間違いではないかと、瞼を擦っては何度もそちらを見てみる。
だけど何度見たところで、その姿が消えるわけでもなかった。
「……して…。」
「おい、何言ってるんだ?もっと聞こえるように…。」
楽しそうに笑っているのは、間違いなく自分の父親だった。
数ヶ月前に母親と別居した、自分の父親。
葵に肩を揺さ振られて、耳元で言われても、掻き消されてしまう。
時が止まってしまったかのように、一人でこの場にいるみたいだ。
「どうして…。」
どうして、お父さん…。
どうしてこんなところにいるの?
それより、その人は誰?
腕なんか組んで、どう見ても恋人か夫婦みたいに並んでいるその人は誰?
僕に言ったことは、全部嘘だったの…?
今何が起きているのかはわかる。
だけどそれを受け入れることも、理解することも出来ない。
動揺と焦燥で全身が震えて、額や掌に冷や汗が滲み出す。
俯いたまま、気が付くと、涙まで溢れてしまっていた。
「おい、一体どうしたんだよ。」
「なんでもな……っ。」
「泣いてるじゃねぇかよ。」
「あの、あのね、あそこにいる人、僕のお父さんなんだ…、女の人といる…。」
どう見てもその女性は蒼を産んだ母親の歳には見えなかった。
その視的感覚と蒼の涙で、葵はすぐに何かを察知した。
蒼の腕を強く掴んで、今まで歩いて来た方向へ逆戻りして行こうとする。
「来い。」
「ど、どこに行くの…?」
「いいから来い。」
「…葵ちゃん……。」
葵の強引さはいつものことだったけれど、今だけはそれに頼りたくなった。
寄り掛かって、ぐらぐら揺れる自分を助けて欲しいと思った。
腕を掴まれたまま早足で歩きながら、いつの間にか涙は止まっていた。
「ここ、どこ…?」
知らない道を歩き続けているうちに、賑やかな街は遠ざかっていた。
都会の真ん中だと言うのに、人影の疎らな路地を歩いて、小高い丘へ辿り着いた頃には、
人なんかは見当たらなくて、辺りにぽつぽつと街灯だけが見えた。
蒼の手をやっと離した葵が、緑の上にそろりと腰を下ろす。
ポケットから煙草を取り出して、火を点けて煙を吸い込む。
「で?全部話してもいいぜ。」
ここがどこなのか、葵は答えなかった。
自分的にも、それはどうでもよかったりした。
何の前置きもなしに訊ねてくる葵の隣に座って、蒼は重い口を開いた。
両親が別居していたこと。
その理由はよくある、父親の仕事の多忙に因るすれ違いだと言うこと。
寂しさに我慢出来なくなった母親は身体が丈夫ではなかったから、自分は母親と暮らしていたこ
と。
そしてそれが、今日になって間違っていたこと。
「すれ違いってのは嘘だったわけか。」
「お母さんは多分、知ってたんだと思う。」
自分に心配をかけないように、本当のことを母親は言わなかったのだ。
だけどあんなことになるなら、心配をかけられてもよかったのに…。
その寂しさや苦しさを僕にも、分けて欲しかった。
「お父さんも最後までお母さんのこと愛してるって言ってたから僕信じちゃったんだよね…。」
「最後?あぁ、結局離婚したのか…。」
「違うよ、離婚する前にお母さんは死んじゃったんだ。自分の手で。」
「え………?!」
葵は暫くの間、驚愕の余り言葉を発せずにいた。
吸っていた煙草が指からするりと抜けて、地面へ落ちる。
何か事情があって転入して来たのだろうとは思っていた。
だけどまさかこんな理由だったなんて、想像もしていなかったのだ。
「僕が学校から帰った時、薬でほとんど意識がなかったんだ…。」
「もういい…。」
「僕は今でもあの現場を忘れられないんだ。お母さんが何度も僕に謝っていたのも…。」
「もういいって…。」
「お父さんは忙しいからってあの学校に入れてくれたけど…、それも全部嘘だったんだ…!」
「もういいって言ってるだろ!」
もう言わなくていい。
そんなに悲しく辛い過去を、自ら口にして苦しむことはない。
自虐的に話し続ける蒼を、ぎゅっと強く抱き締める。
「泣けよ。」
「…うっく……っ。」
無理して話さなくていいから、泣きたいだけ泣けばいい。
葵の言葉が引き金のようになって、蒼の目からぼろぼろと涙が零れる。
さっき止まったはずだったのに、今度はいつになっても止まることがないみたいに。
頬を拭う気力もなくて、ただ果てしなく流れる涙は、葵のシャツに滲みて行った。
どれぐらい経った頃だろう。
止まらないと思っていても、涙はいつかは止まる。
すっかり暗くなった空には、夏の星座がぽつりぽつりと瞬いていた。
「俺の一番好きな場所なんだよ。」
「そうなんだ…。」
泣き疲れた目に、再び吸い始めた葵の煙草の煙が滲みて痛い。
車も人も通らないこの場所では、夏の虫達が鳴いているだけだ。
「誰も連れて来たことなんかねぇけどな。」
「どうして僕を…?」
「さぁ、どうしてだろうな。」
「それじゃ答えになってないよ…。」
いつも葵はちゃんとした答えをくれない。
だけど、少しだけ、本当に僅かでも期待してもいいだろうか。
誰にも秘密の場所へ自分だけを連れて来てくれたこと。
核心に迫ろうとすると、葵の顔が急接近していた。
「………ん…っ。」
初めて会った時と同じ、激しいキスだった。
熱い舌が口内に滑り込んで来て、唾液と共に絡む。
蒸し暑くて、キスが熱くて、全身に汗が滲む。
草と夜の匂いが、汗に混じって鼻を掠める。
ぎゅっと閉じた瞳に葵の細長い指が触れて、離れた唇も降って来た。
「お願い、抱いて…。」
熱い身体を預けながら、その腕の中で小さく呟いた。
迷いなんかはない、真っ直ぐに、葵が好きだと思った。
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