「約束」-5
「ねぇ、葵…ちゃ、くん?勉強しないの?」
あれから三ヶ月が過ぎていた。
制服は夏服に変わり、冷たかった風の熱風と言っていいほど、
もう季節は夏本番に変化を遂げていた。
葵は相変わらず冷たい視線を向ける。
向けるならまだいいほうで、ほとんど目も合わせない。
そんな態度だからちゃん付けを極端に嫌がると思って、
躊躇ったりする時があるけれど、別にそんなこともない。
それは、嫌だとか思う前に、多分関心がないから。
どうでも、いいことだから。
「してるけど。」
「え?いつ??」
「学校でだろ。」
「それは当然でしょ。じゃなくて…。」
もうすぐ一学期末の試験が始まる。
なのに、この進学校で葵が机に向かって勉学に励むところなど、蒼が知る限りでは見たことがなかった。
さすがに不良…というのは蒼が勝手に思っていることだが、
それでも少しは試験勉強というものをしないとマズいのではないか。
そんな個人的な質問になるとこうしてはぐらかされる。
それも、もう三ヶ月も同じ部屋で過ごせばだいたいわかってくる。
「お前が寝てからしてる。」
「嘘ばっかり、僕が寝た後すぐ寝てるじゃん。」
またあの沈黙が流れる。
この沈黙は、どっちだろうか。
この先そのまま黙るのか、何か言われるのか。
心臓の辺りが、じんわりと熱くなるのがわかった。
「よく見てるじゃねぇか。そんな俺が気になるのかよ?」
「!!違…、そんなこと…!」
ついカッとなってしまい、勢いついでに椅子から立ち上がる。
その勢いに自分でも収拾が付かなくなってしまった。
葵に背を向けて、ドアのほうへと歩き、がしりとノブを掴んだ。
「前の続き、してやろうか?」
背中から痺れていくような、甘い声だった。
意地悪を言っているのに、立ち眩みしそうなほどの甘くて低い声が、
背筋を凍らせるかのようで、ゾクゾクと皮膚には鳥肌を立たせる。
暑さから来るのとは明らかに違う汗が服の中を伝った。
「眠気覚ましに、顔…洗って来る!」
どこも触られていないのにこんな…。
全身を拘束されているみたいな支配感にどうしようもなくなって、急いで言い訳をして部屋を出た。
なんなんだろう…、これは。
どうしてあんなことをするんだろう。
しかも葵は至って普段の口調で、自分ばかりがおかしくなっている。
あの時、出会ってすぐの時に、触れられた。
それから三ヶ月の間は一度も触れられなかった。
なのにどうして突然こんな…。
はたと我に返った。
それではまるでずっと今まで触れて欲しかったみたいだ。
葵にもこの感覚を味わって欲しいみたいだ。
そんなことがあるわけがない、そうはならない、否定の言葉を浮かべながら、その頭をぶんぶんと振った。
きっと疲れているんだと思う。
そうでなければこんな考えは浮かばないはずだ。
「何ブツブツ言ってんの?」
「わわっ!!」
考えながら、既に洗面所に着いてしまっていた。
後ろに誰かいることも気付かなかった。
柔らかな声が降って来て、ようやく本城がいたことを知った。
「驚かせないで下さいよ…。」
「ずっと君の後ろ歩いてたけど?」
「え!そうだったんですか、ずっと…。」
「勉強してたの?」
「あ…、ハイ。」
「俺もだけどねー、もう眠くってさ。」
なんだかこの人と話していると穏やかな気分になる。
今もあまり友達と呼べるような人はいない。
自分のことを気に掛けてくれるのはこの人ぐらいかもしれない。
別に構われたいわけではないけれど、葵があんな性格なだけに、こうされると嬉しくなってしまうのだ。
さすがは寮長、面倒見のいい先輩と言うのも頷ける。
「僕も眠気覚ましに来たんです。日頃授業聞いてるつもりでも覚えてないもんですよね。
でも葵ちゃ…、西崎くんってば全っ然勉強しないんですよ、あれで大丈夫なのかって…。」
「……‥‥。」
調子に乗ってここぞとばかりに喋りまくっていると、
いつも穏やかに笑っている本城から笑みが消え、一瞬考え込んで黙ってしまった。
「あれ?僕、なんか変なこと…言いました?」
「…あ、いや、うーん、その…。」
あまりにその表情が珍しかったので、
何かおかしなことを口走ったかと心配になる。
そしてそうやって口を濁すのも本城にしては珍しい。
普通に、世間話のようなことを話したつもりでいたけれど…。
「…君さ、西崎くんと仲良いの?」
ドキリとした。
知らない間にそんな風に思われていたのか。
自分が葵の話を無意識にしてしまっていたことにも驚いた。
話をしたということは頭の中にあったということだ。
顎の辺りに手を当てて、見つめる本城の視線が痛い。
「いや、仲良いというか、まぁ同じクラスで、同じ部屋ですから。」
それを振り払うかのように言い訳めいた言葉を述べた。
「彼が誰かと一緒にいるの、初めて見たよ。人寄せ付けない感じでしょ?だから心配してたんだよね、君が同室になることとか。」
「あの…、前から聞こうと思ってたんですけど、西崎くん問題児とかって…。
あれってどういう意味ですか?なんかしたんですか?」
ようやくいつもの調子で話す本城に戻って、
今まで疑問に思いつつもなんとなく聞けなかったことを、この機会に、と蒼は思い切って聞いてみる。
「本当かどうかはわからないんだけど、他校で生徒殴って退学なって次の年うちに入ったらしいんだよ。」
「でも、本当かどうかわからないんですよね…。」
「うん、そう。それでここ入って、一年の時彼と同室になった子が、
やめちゃったんだよね、西崎くんにやられた、って言ってた噂があって。」
「やられた…殴られたってことですか?」
本当かどうかわからない不確かな話をなぜ本城はするのだろう。
それを否定したいんだろうか、自分は。
殴って、なんてあまりよくない話は聞きたくないとか。
また本城は口を濁してしまったし、一体葵という人物はどんな人なのか。
まだ濃い靄の中で、まったく見えない感じだ。
「そうじゃなくて、ほら、別の意味で……犯されたって言うのかな…。」
「嘘…でしょう?」
ドキリとした心臓が思い切り激しく跳ね上がった。
確かにそういうことはされそうになった。
だけど本当にされたわけでなく、からかい目的だと思っていた。
そういう嗜好だとしても、まさか無理矢理にそんなことをするような人だとは思わなかったから。
「その子も学校側には言わなかったみたいだし、西崎くんも認めなかったけどね。」
「じゃあ…わかんないじゃないですか…。」
ぎゅっと握り締めた手が震える。
汗がじわりじわりと滲んで、今人の肌に触れたら不快そのものだろう。
「はっきりしてないのに、勝手に問題児扱いしないで下さいよ!
それにそんな話…、葵ちゃんが誰かにそんなことした話なんて聞きたくなかったです!」
声を荒げて、力一杯否定していた。
酸欠で死んでしまうかというぐらい、今までにないぐらいの声だった。
果たして自分のことを言われてこんなに怒りをぶつけたことがあっただろうか。
「殿村くん、君、もしかして…。」
「な、なんですかっ?」
「君、西崎くんが好きなの?」
「えっ!」
西崎くんが好きなの?
そうはならない、そんな嗜好には走らない。
そう思っていたけど、変わってしまっていたのだろうか。
いや、それだと認めたことになる。
そんなわけはないし、これからもそうはならない。
「だってそんな否定…それにそんな名前で呼ん…。」
「僕、寝ます!おやすみなさいっ。」
全速力で、長い廊下を走る。
さっきから心臓が鳴り響いて止まない。
顔も熱っぽく、仮に鏡に映った自分がいたら、目を背けると思う。
それぐらい、真っ赤に違いない。
息苦しくて、途中で床に座り込んでしまう。
なんとか肩で息をしながら、せめて頭の中だけでも落ち着けと自分自身に言い聞かせる。
僕は、葵ちゃんが…好き…?
嘘だ、まさかそんなバカなことがあるわけがない。
思考回路まで狂ってしまうぐらい、環境の変化についていけてないんだろうか。
時々壁に手をついて支えながら、部屋まで辿り着くと、葵は既にベッドの中だった。
「疲れた…僕ももう寝よ…。」
ブツブツと独り言を呟いて、蒼もまた自分のベッドに潜り込む。
本当に疲れていたらしく、すぐに眠りに就いた。
だけど本城に指摘されたあの衝撃的な言葉は、夢の中にまで出てきそうだった。
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