「約束」-22





「ここって…、俺が生まれて、まだ幸せだった頃住んでた家があった場所なんだよな。」

蒼が目を覚ました時には、葵が傍に座って煙草をふかしていた。
額に冷たい何かを感じて、おそらく葵が近くでハンカチか何かを濡らして当ててくれたのだろう。
火照った身体に滲み込んでいくようで、その温度が心地良い。


「そう…なんだ…。」

横たわったまま、ぼそりと呟く葵の言葉に応える。
太陽が沈み始めて暑さも一段落したようで、時々吹いて来る風が頬をくすぐる。


「俺は約束なんて大嫌いだったけど…。」
「うん…。」
「お前となら…、離れても出来るかもしれないって思った…。」
「やっぱり…どこかに行っちゃうの…?」

学校もやめて、知らない場所へ。
僕を置いて、一人だけでどこかへ。
恐れていた別離の事実を改めて突き付けられると、蒼の顔は一気に暗くなる。


「あぁ…。でもあの約束は守るから、ちゃんと。」
「守る…って…、ごめん、何を…?」
「はぁ?!お前が言ったんじゃねぇかよっ。」
「え…、あのごめん…!」

一瞬葵が何の約束の話をしているのか、蒼はわからなかった。
それを素直に告げると、葵はいつものようにまた怒り出す。


「お前が言ったんだろ、大学がどうとか…よくわかんねぇけど。」
「あ…。」

それはまだ、この夏が始まった頃のことだった。
『じゃああの、どこでもいいならさぁ、一緒のとこ行こうよ。』
『約束だよ?』
寮の部屋で何気なく話した約束。
蒼が勝手に言い出して交わした約束を、葵はちゃんと覚えていたのだ。
どうとか、だの、よくわかんねぇ、だの言っておきながら。
その照れを誤魔化す仕草や言い方がなんとも葵らしい。


「あの時の…。一緒の大学に行こうって言ったことだよね?」
「はっきりとは覚えてねぇけどな。」

葵は嘘吐きだ。
適当なことを言って、しっかり覚えているくせに。
蒼が覚えていなかったことを恨んでそんなことを言っているのだ。
これ以上責めたら本当に怒ってしまいそうだったから、蒼はそこで止めることにした。


「じゃあそれまでちょっとお別れだね…。」
「あぁ、お迎えも来る頃だろうしな。」
「え?!お迎え?!」
「至…、本城だよ、あいつは一応味方だしな。」
「なんだ…、やっぱり知ってたんだ…本城さん。」
「いや、お前が来るちょっと前に電話したんだ。」

蒼が勇気を振り絞って別れを切り出すと、葵は冗談交じりに笑った。
しかしそのお迎え役、本城の名前を聞いた途端、蒼は気が気でなくなってしまう。
今朝と、学校を出る時にされたキスや言われた言葉を思い出してしまったのだ。


「あ、あのさぁ…、あの人…も、男の人が好き…なのかな…?」
「お前何かされたのかっ?!」

このままうやむやにするのも何だか気分が晴れなくて、蒼は何気なく本城の疑惑を口にしてしまった。
それを聞いた葵は何かを察知したかのように蒼に詰め寄る。


「え…、あの、ちょっと……、キス…されただけだけど…。」
「だけぇ?!だけ、じゃねぇだろうが。」

どうやら葵は嫉妬深いらしい。
いつもなら冷静で滅多に顔色も変えない葵が、感情を露にするなんて。
それは恋人となった今では嬉しいことなのだけれど。


「やっぱりな…。あの野郎どうりでお前を構うと思ったんだよな…。」
「それは僕が転入生だったから…。」
「違ぇよ!俺の悪ぃこと喋ってただろ?」
「う…、うん…。」
「それも最初はお前を従兄の差し金だって見極めるためかと思ってたんだけど…、違ったみてぇだな。お前を俺に近付けたくなかったんだろ。」
「え…、あの…、どういうこと…?」

葵はしてやられた、という感じで舌打ちをして悔しがっているみたいだった。
蒼は相変わらず葵の言う鈍感なのか、何のことだかわからない。
そんな蒼を見て葵は余計苛々したように、頭の中で描いた本城を睨んでいる。


「だから、あいつもお前が好きだってことだろ。気付かなかったのかよ?」
「ええぇっ?!」
「しかも手まで出しやがって…ムカつく…。」
「でも…でもさぁ…。」

本城は葵のことが好きだったのではないのだろうか。
蒼の頭の中ではそう決まっていて、そうとしか思えなかったのだ。
しかしよく考え直してみると、思い当たらないこともなかった。
もしそれが本当ならやはら本城という人物は侮れない。
あんなに優しい振りをして、只者ではないということだ。
それでもやっぱり葵が好きだという考えも拭えない。
結局は本城本人にしかわからないことなのだった。


「ムカつく…。」
「ちょ…葵ちゃ……んんっ!」
「キスされたんだろ?洗うんだよ。」
「ん……っ。」

洗うなんて言って、こんなに深くて激しいキス…。
いや、洗うと言うからこそなのだろうか。
口内を舌が巧みに動いて、唾液が吐き出されて。
こんなキスをされたら、離れられなくなってしまう。
もっとキスをしたくて、もっと触れ合いたくて、離れるなんて考えられなくなってしまう。


「はいはい、そこまで。お迎えだよー。」

もっと、そう思った瞬間陽気な声がして、驚いた二人の身体がビクリと揺れた。
声のする方を振り向くと、そこには思った通り本城が立っていた。
本城の後ろには彼が乗って来たと思われる大きな車が止まっていた。


「いやぁ、ラブラブだねぇ。」
「てめぇ…ぶっ殺す…。」
「ほ、本城さ…いつから…っ?!」

二人をからかいながら、本城が笑顔を振り撒く。
いつからそこにいたのか、いつから見ていたのか、聞くのが恐くなってしまった。
まさかあのセックスの最中からいたということはないはずだったが、本城のことだからわからない。


「ラブラブなところ悪いけど…、葵、そろそろ行こうか。」
「あぁ…悪ぃな。」
「いえいえ。殿村くん、ごめんね?」
「あ…いえ僕は…。」

僕は大丈夫です。
そう言おうとして言葉が詰まる。
まだはっきり大丈夫だと言える自信が蒼にはなかった。
それは多分別れる瞬間じゃなくて、これからの生活で生まれるものだろう。
葵と離れて、寂しさに耐えてこそ、生まれる自信なのだと思った。


「蒼っ、約束忘れんなよ!」

それは愛しい人が初めて見せる、思い切り笑った顔だった。
一つ上とは言っても変に大人びたりしていない、そのままの葵の笑顔。
振り向かずに歩いて行く葵の後ろ姿を、蒼は眩しさに目を細めながら見つめていた。


「忘れるわけ…ないじゃん…。」

やがて車が発車して見えなくなった葵に向かって、ふてくされたように文句を呟く。
涙を流しながら、それでも笑いながら、いつまでも手を振って。






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