それから約一年半の時が過ぎた。
葵のいない時間は長かったのか短かったのか、今となってはよくわからない。
季節は本格的な春を迎えようとしていて、卒業も間近となった。
葵からは時々ごく短い文章のメールが届いた。
男が手紙なんか書けるか、という葵なりの精一杯だった。
『今日はバイトで忙しかった』
そんな日常生活のメールがほとんどだった。
だけどどこでバイトをしているのか、どこにいるのかもわからなかった。
それは蒼が自ら聞かないことと決めていたのだ。
葵でなくとも本城に聞けばすぐに教えてくれたかもしれない。
でも聞いてしまえば何としてでも会いに行ってしまうと思ったから。
会いに行くことは簡単だけれど、それでは意味がないと思った。
あの時泣きながら見送った意味がなくなってしまうから。
メールの中で嬉しかったのは、高卒認定の試験に合格したということだった。
そして可笑しかったのは、本城には気をつけろというもので、ほぼ毎回書かれていた。
しかしそのメールを送るために使っている携帯電話は本城が与えたもので、
本城を悪者扱いしておきながらしっかり本城に甘えている葵が矛盾していて可笑しかったのだ。
そしてその恋人への嫉妬が嬉しかった。
大学入試のセンター試験も予め番号を聞いたり、到着時間をずらして会わないように努力した。
そこまでしなくても、と本城は困った笑顔を浮かべていたけれど、それだけは破るわけにはいかなかった。
もしかしたらどこか意地みたいなものもあったかもしれない。
しかし意地を張っていないと崩れてしまいそうだったのだ。
寂しくない、なんて言えば嘘になるけれど、寂しくない振りでもしないと駄目になると思った。
言葉にしたらまた会いたくなってしまうと思って、口にすることもなかった。
「はいこれ、頑張ったご褒美。」
「ご褒美って…何ですか?これ…。」
卒業式まであと数日になった日曜日。
蒼は本城に呼び出されて待ち合わせの場所にいた。
本城はと言うと前の年に都内でも有数の名門大学に合格していた。
大学生活を楽しんでいるのか、高級外車で現れたのを見た時には、やはりこの人も金持ちだったということに気付く。
その本城から手渡されたのはごく普通の書類などを入れる茶色い封筒だった。
手紙とも思えないような僅かな厚みと重みのある、小さな封筒。
何も書かれていない、封もされていないものだ。
「殿村くんはきっと喜ぶと思うけどね。」
「何です…?え…?鍵……??」
怪訝そうな表情を浮かべて、蒼はその封筒をそっと開けてみた。
そこには何も飾られていない真新しい金属の欠片が入っていた。
「スイートホームの鍵って言えばいいのかな?葵から預かって来たから。」
「あ…、嘘…っ、それって…。」
スイートホームだなんて恥ずかしい言葉で言われても、嬉しいものは仕方がない。
葵とは同じ大学へ行くことになったら一緒に暮らそうと言われていた。
それも葵が自分に任せておいてくれと言うから、蒼は何もせずにいたのだ。
まさか本当に実現するとは思ってもいなくて、思わず顔が綻んだ。
「ふ…、そんなあからさまに嬉しそうな顔しないでくれる?」
「だって…、嬉しいですもん。」
「うわ、言うねぇ。いつまでも新婚さんなんだから。ラブラブなんだ?妬けるねぇー。」
「言いますよ、ラブラブだって。」
以前の自分だったら、そんなことないです、などと照れていたところだろう。
同性で照れもなくラブラブと公言するのもどうかと思うが、大抵からかう側の人間はそこで照れるのを待っているのだ。
そんな反応をすればもっと責められるだけだとわかっていた。
だからこそ強く言い放って何も言えなくしてしまえばいい。
この一年半で随分と自分は強くなったと思う。
それも葵と離れていたからこそ成しえたことなのかもしれない。
「でも全然会ってないんだよね?」
「う…、まぁ…それはそうですけど…。」
「別れる予定とかないの?」
「ありませんっ!」
一体どこまでが冗談なのか、相変わらず本城と言う人間はわからない。
本当に好きだと言われたことがないのだから、その本心はまったく見えない。
「じゃあ俺はこれからちょっと約束があるから。」
「あ…、そうだったんですか…。」
結局本城が誰を好きだったのかは迷宮入りしてしまった。
しかし車がピカピカだということや今日の格好、「ちょっと約束」などと隠すところを見ると、今は恋人がいるようだ。
それが男なのか女なのかもわからないけれど。
「ちなみにそのマンション、うちの親が経営してんだよね。」
「え…!そうなんですかっ?!」
「まぁそれは勘弁してやってよ。保証人とか要るしね。うちなら問題ないし。」
「あ…、そうですよね…。僕任せっきりで…。」
「それと、その部屋の隣俺だから。」
「えぇっ!!」
本城のことだから、ただでは終わらないとは思っていた。
だけどそれが隣の部屋だなんて…。
やっぱり葵を狙っていたりするんだろうか…。
そんな疑惑がまたしても浮上してしまう。
「エッチする時は声は低めで頼むよ?」
「な…!し、しませんっ!!」
「あはは、大丈夫、防音しっかりしてるから。安心してどうぞ。」
「し…、しませんってば!」
しない、ということはまず有り得ないとは思ったけれど、こういう時は嘘でもそう言わないといけない。
さすがにそこで素直にはいわかりました、などと言う勇気は持っていなかった。
「あともう一つご褒美があるんだよね。君はそっちの方が喜ぶと思うんだけど。」
「え…、な、何ですか…?」
車に乗り込む本城が蒼にそっと耳打ちをする。
今日はてっきり本城と待ち合わせてどこかへ行くものだと思っていたから、十分に時間はあった。
いや、時間なんかなくても今すぐに走って行くだろう。
『あの時の丘に行ってみて。』
街を抜けて、人気の少ない道をひたすら走る。
そこら中の草花がいよいよ迎える春を楽しみにしているように、風に踊っている。
蒼の心もまた、同じように弾んでいた。
葵に会ったら、まずは何と言おう。
今まで何してた?
元気だった?
どこにいたの?
聞きたいことは山程ある。
ずっと会いたかった。
恋しかった。
そんなことを言ったら泣いてしまうかもしれない。
本当に泣いてしまったら、葵はまた「男のくせによく泣く奴だ」なんて笑うだろうか。
「はぁ…、はぁ…。」
緩く長い坂道を一気に駆け上がって、いよいよあの丘が見えて来る。
少しの不安と、それより遥かに大きな期待を胸に抱きながら、あの場所を目指した。
まだ完全に萌えていない若い緑達が、出迎えてくれるだろう。
「…ちゃ…、葵ちゃん…っ!」
大きく深呼吸をして、息を吸い込んで、大好きな人の名前を叫ぶ。
短い間に色々考えたけれど、名前を呼ぶだけで精一杯だった。
何か言おうとしても、言葉になんかならなくて。
途切れそうになる息の音が、そこら中に響き渡る。
「約束…、初めて果たせた…。」
振り向いたその人は、蒼が一番会いたかった人。
そして一年半前に見せたあの笑顔が今、蒼の身体を包み込んだ。
END.
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